奈良県奈良市 平城宮跡
Heijokyu ato,Nara city,Nara
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July 29, 2023 野崎順次 source movie
カンカン照りの猛暑日に平城宮跡の東部を北から南に横断した。さすがに、屋根のない第二次大極殿エリアでは人影がほとんどなし。
遺構展示館、概要および各棟の説明はすべて平城宮跡資料館ウェブサイトからの引用である。
発掘調査で検出された遺構そのものを、覆屋(おおいや)と呼ばれる保護施設の中で保存・展示しています。第一次大極殿、朱雀門、東院庭園と同様に、文化庁が設置・所有する施設です。奈文研は、その保存管理・研究に協力しており、保存環境のモニタリングの場として、保存科学の研究に貴重なデータを収集しています。
おもな展示エリアは北棟・中棟・南棟の3つの建物で構成されています。
北棟の主な展示
内裏の復元模型(1/10、奈良時代中期)
内裏は天皇のすまい。南門の北に正殿があり、儀式等の行われた正殿の前庭に立つようにして模型をみることができます。
内裏出土のスギの大木をくりぬいた井戸枠の実物展示
掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)(昭和39年〈1964〉に発掘調査)の遺構の露出展示
730年(天平の初め)~770年(宝亀の初め)の間に同じ場所に複数の建物が建て替えられた痕跡を示しています。柱穴の重なり方を観察することで、それらの掘られた順番がわかります。実際の遺構と、モニター画面の表示を見くらべながらご覧ください。
中庭
中棟の主な展示
塼積官衙(せんづみかんが)と呼ばれる役所の発掘遺構の模型、塼積官衙の建物の一部の復原模型
発掘調査で出土した遺物の展示瓦・土器・木簡・塼(せん)(古代のレンガ)などのほか、井戸枠や近隣の造酒司(ぞうしゅし)(官立の酒造所)から出土した木樋(もくひ)(木製の排水管)を展示しています。
南棟の主な展示
建物内で塼積基壇建物跡の基壇北辺部とその北側の東西方向に長い雨落溝(あまおちみぞ)などの露出展示。
屋外、塼積基壇と柱の復原、そして出口
内裏の井戸の再現
西から南へと草原を回り込む。時々、第一次大極殿方面を見渡す。
第二次大極殿
天平17年(745)から約40年間使われた大極殿跡。基壇や柱跡などが復原されている。ここから若草山や春日山などが見渡せ、平城宮跡の広大なスペースが一望できる。
暑さのため、東院庭園までひたすら歩いたので、撮影の余裕なし。
東院庭園のパンフレットと現地展示
東院庭園
July 9 and 15, 2023 野崎順次
source movie
総合パンフレット
推定大膳職
第一次大極殿の北側で食料の管理・保管・準備をした場所
第一次大極殿
第一次大極殿院 南門復原
復原事業情報館
平城宮跡資料館
資料館から南門前を経て朱雀門へ
朱雀門
朱雀門ひろば
平城宮いざない館
天平つどい館・うまし館、復原遣唐使船、天平みつき館
June 25, 2023 野崎順次
source movie
今回は東の方を北から南に歩いた。時間が遅かったので、遺跡展示館と東院庭園は入れなかった。
パンフレットと現地説明板(平城宮全般)
平城宮跡・遺跡展示館のバス停からスタートした。西に第一次大極殿、復元整備中の東楼、また東に遺跡展示館前の築地塀などを望む。
推定宮内省
平城宮跡東の出っ張り(北辺坊)
西方に第二次大極殿
南から東へ
建部門(東院南門)あたり
南へ、近鉄の線路を越えて南面大垣あたり
June 25, 2022 野崎順次 source movie
奈良県奈良市三条大路一丁目5-37
平城京西京三条二坊宮跡庭園
国特別史跡・特別名勝
宮跡庭園とは
宮跡庭園は、昭和50(1975)年の発掘調査で発見された奈良時代の園池を中心とする庭園遺跡です。平城宮の離宮的な施設または皇族等の邸宅(宮)であったとも考えられるため「宮跡庭園」と付けられました。
保存状態がよく、奈良時代の意匠や作庭技法などを知ることができる、きわめて貴重な遺跡です。昭和53(1978)年に国の特別史跡に指定され、奈良市が庭園の復原整備をおこないました。平成4(1992)年には国の特別名勝にも指定されました。
この庭園は、奈良時代中期(750年頃)に造られ、池の改修や建物の建て替えを重ねながら、平安時代の初めまで存続したと考えられています。現在のものは、奈良時代中期ごろの様子を復原したものです。園池は発掘した本物を露出展示しています。
平城京の条坊と宮跡庭園
平城京の街は、道路(大路と小路)が碁盤目状に通っており、道路で囲まれた区画を条坊・坪で表ます。宮跡庭園は平城京の皇居や政務区域にあたる平城宮の南東に位置し、ひとつ分の「坪」全体の中に建物と塀が計画的に建てられています。
敷地の中心には玉石を敷き詰めたS字形の「曲水」を形づくった園池が配され、その西に建物が建てられています。建物から池を眺めたとき、その向こうには春日山や御蓋山といった東の山並みを望めます。
これらの立地に加え、平城宮と密接な関係を示す木簡や瓦などが出土していることから、この場所は公的な饗宴のための施設であったと考えられます。たとえば曲水宴や、海外からの客を招いた宴席などが行われていたのかもしれません。
(本園パンフレットより)
パンフレットと現地説明板
庭園遺構について
庭園の中心は石組の園池です。底に粘土を敷き、その上に径20~30cmの扁平な石を敷き詰めています。 汀には玉石を列状に並べて池の輪郭を描き、この玉石列の外側にも石を並べて緩やかな勾配の州浜状に仕上げています。水深は20~30Cmと浅く、水の流れはゆっくりしたものだったようです。池の形については、龍の姿を模したという説や奈良県吉野町宮瀧付近の吉野川の形状を写したという説などがあります。
池が屈折する要所要所には大きな石組を配置し、池の中にも三箇所に石を置いて岩島とし、アクセントをつけています。池底の二箇所には水生植物を植えたとみられる木製の桝が据えられています。
池への給水は、もともとこの地を南北に流れていた菰川か、池の北西方にある井戸を水源としていたと思われます。供給された水は、池本体の北側に造られた石組部(小池)で一旦水を溜めて、池本体に流す構造になっています。
池の周囲でみつかった建物や塀などの遺構は保存のため埋め戻し、その上に建物復原や平面表示の手法で表現しています。
(本園パンフレットより)
要所要所の石組
掘立柱建物群
June 30 and July 13, 2019 野崎順次 source movie
奈良県奈良市佐紀町
平城京東院庭園
(East Palace Garden of Heijo-kyo, Nara, Nara)
東院庭園は現在の平城宮跡の東側エリア、宇奈多理坐高御魂神社や法華寺エリアの近隣に位置する「奈良時代の庭園風景」を緻密な調査により復元した貴重な庭園です。(平城宮は一般的な宮城とは異なり東に大きく張り出した構造となっており、この「東院」地区はその張り出したエリアの南側、すなわち過去の平城宮の南東端付近に位置しています。)
庭園は天橋立や金閣寺庭園などと同様、全国で40か所ほどしかない国の「特別名勝」に指定され、丁寧な管理のもと常時一般公開されています。
この庭園周辺には、奈良時代にはその名前の由来であり皇太子の宮殿である「東院」が位置し、その中に設置された庭園では貴族が儀式や宴会を行っていたとされています。復元にあたって行われた発掘調査では、そのような庭園の遺構がほぼ当時の状態のままで発見され、その発掘の成果等を参考に実際の庭園への復元作業が行われました。
復元にあたっては、構造や建築以外に庭園内に植えられている植物についても文献、また発掘された「花粉」「種子」を参考に緻密に検討され、植樹が実施されました。
庭園は中心部に池を配し、その周囲が建築で囲まれる形式を取っています。また、日本最古の「築山」と言える「仮山」と呼ばれる石組みが設けられていたり、池の周囲が複雑な曲線形を描くなど飛鳥時代の庭園、「直輸入」の庭園とは異なった繊細な風景を生み出しています。中国の影響を強く受けた庭園から以降の日本庭園への過渡的な風景を生み出す庭園、日本庭園の元祖とも言える庭園として、東院庭園は一般的な日本庭園とは異なりつつも、その後の展開を予感させるような庭園となっています。
(奈良まちあるき風景紀行サイトより)
パンブレットとアプローチ
西の入り口から東へ
東南隅の隅楼
北へ、中央建物と半橋
さらに北へ、反り橋を渡る。
築山石組
反橋から北東建物
それから
曲水
再び、西の入り口付近から
西建物の展示
帰途、朱雀門へ
奈良県奈良市三条大路1-5-37
平城京左京三条二坊宮跡庭園
昭和50年の発掘調査により発見された、園池を中心とする奈良時代の庭園遺跡です。日本古代の庭園の姿を伝える数少ない庭園であることから、国の特別史跡・特別名勝に指定されています。
(中略)
当園は公開を始めてから約30年が経過し、園池の一部に経年による劣化が生じてきたため、園池全体に覆屋を架け、平成26年度から修理をおこなっています。修理期間中、園池は覆屋の外から窓越しにご覧いただくことになります。園池以外は、復原建物の内部も含め、これまでどおりご覧いただけます。
修理は、平成30年度までかかる見込みです。
(奈良市観光協会ウェブサイトより)
パンフレットと現地説明板
掘立柱建物群
保存整備工事中の園池
奈良市佐紀町・二条大路南・法華寺町
特別史跡 特別指定年月日:昭和27.03.29
奈良時代七十余年の間の皇居で、その遺跡として顕著なものは、朝堂院跡とその西につづく内裏跡と認められるところを中心とする地である。朝堂院は南面する大極殿跡の基壇を正面として、その前面に、内に湮滅したところもあるが、朝堂、朝集殿を始めとして廻廊、門等の遺構が存し大極殿の側背にも廻廊、建物の遺構が認められる。また朝堂院の東部にも土壇があり、また北東部に近く、水上池方面から南下する溝の一部があって注意すべきである。
内裏跡は大宮の地字をとどめまた建物の跡と思はれる基壇を遺している。
もとより宮跡の全貌はなお詳でない憾があるが整然たる配置をなす堂々たる殿堂の面影も偲び得られ、奈良時代の政治文化の中心として歴史上に占める意義は大きく、学術上の価値が極めて高い。
(国指定文化財等データベース説明文による)
平城京の核心部である平城宮跡だけでも非常に広いエリアで、復元された朱雀門と大極殿がだけがポツンと目立つ。資料館に展示されている柱の出土品はその大きさで整然と揃えられたことに驚かされる。また展示されている大量の木簡の保存状態が非常にいいのにも意外さを感じる。
朱雀門と第一次大極殿 (再建)
平城宮跡資料館
平城宮跡
A camera
東院庭園
B camera
東院庭園
三条二坊庭園
Sanjo Nibo Garden
平城宮跡
奈良市佐紀町
特別史跡・世界遺産・国営歴史公園
平城遷都1300年祭
2010年(平成22)1/1〜12/31の間、平城宮跡をメイン会場に遷都1300年祭が開催されます。
奈良はその準備に大忙しです。マスコットキャラクター「せんとくん」や「まんとくん」の関連商戦が早くも熱を帯びて展開されておりその出足も好調で「商戦本番はこれから」と大変な勢いを呈していると報道されています。
『日本のはじまりの奈良』を合言葉に、1300年の時空を超えた感動の「場」と「機会」を心をこめて提供すべく準備が進められています。
そんな平城宮跡を巡ってきました。
平城京遺跡
1998年(平成10)にユネスコ世界遺産に登録された特別史跡平城宮跡は、1.4k㎡に及ぶ遺跡の大半を国が買い上げ保存措置が取られた稀有な遺跡である。
ここは710年(和銅3)から784年(延暦3)までの74年間にわたり日本の古代国家の中心となった都である。
この時代を伝える史料は主に720年(養老4)に完成した「日本書紀」と797年(延暦16)に完成した「続日本紀」であった。
1961年(昭和36年)に平城宮で日本最初の木簡が発見され、1966年(昭和41)に一万三千点の出土、1988・89年(昭和63〜平成元年)に長屋王家木簡・二条大路木簡計十一万点の出土があった。
木簡の内容によって、既存史料の読みに新しい展開が開け、発掘調査の進展が平城京の実像を浮き彫りになってきた。
長屋王邸復元模型(奈良国立文化財研究所)
とてつもなく広い面積だ!
平城京は南北約4.8km、東西約4.3kmの広さで、平城宮だけで南北約1km、東西約1.2kmの広さである。
甲子園の約1.5倍で、一万歩以上歩かないと見廻れないとのこと。
「あおによし ならのみやこは 咲く花の 匂うが如く」と詠われた平城宮。壮麗な屋敷が建ち並び、大宮人が行き交ったであろうその都は草が茂る原っぱに姿を変えている。
まだ30%しか発掘調査が済んでいない。今後の調査で何を語ってくれるか楽しみである。
奈良市の中心にある、この広大な土地が開発されずによくぞ残されたものだ!
平城京の保存運動
784年に都が長岡京に移されると、平城京は大部分が田畑に変わってしまった。
1896年(明治29)に関野貞氏の研究で 広く知られるようになり、顕彰運動が始まった。棚田嘉十郎氏や左紀村の人々によって朝堂院推定地などが買収された。
1919年(大正8)に国の史蹟になった。1953年(昭和28)に米軍キャンプに通じる道路建設で発掘が行われた結果重要性が認識され、1961年(昭和36)鉄道会社の車庫建設が持ち上がったことで、保存運動が起り宮城の全域が国指定史跡となった。
1959年(昭和34)から奈良国立文化財研究所が発掘調査を開始。
以後40年以上にわたる調査で、平城宮の様相が次第に明らかになってきている。
朱雀門のすぐ傍を近鉄電車が走っている。どうして?と思うが、近鉄電車の前身である大阪電気軌道が1914年(大正3)に開通した頃は史跡として保護されていなかった。
保存運動の過程には壮絶なドラマの展開があったのであろう。
(朱雀門手前に立つ棚田嘉十郎氏の像・平城宮跡の方を指差す)
平城京遷都と背景および規模
8世紀初頭、干ばつやイナゴの大量発生で疫病が流行し、国中が飢餓に陥った。
貧困のために農民が手放した土地を社寺や貴族が 領有したため、進めてきた律令政治の基本である班田制が崩壊の危機に直面した。
こうした危機を解決し、律令制度を立て直すことや白村江の戦いに敗れた後の国外からの脅威に対すること、などが目的で遷都となった。
710年(和銅3)、元明天皇(43代)によって藤原京から新しい都、平城京に遷都が行われ784年まで都がおかれた。
平城京は天皇が居住する内裏、政治・儀式を行う朝堂院、政務を処理する曹司などがおかれ四方を幅2.7m、高さ2〜5mの築地大垣(築地塀)で囲み、路地に対して宮城門が開いていた。
内裏は白木造り、朝堂院は丹塗りで瓦葺の建物である。
東院(東の張り出しにある)では、緑釉の瓦を葺いた宮殿が建てられ、「玉殿」と呼ばれていた。
聖武天皇(45代)は平城宮を脱して、南山城の恭仁京(741年)や近江の紫香楽(742)などに宮を移しては復帰を繰り返した。
特に741年の恭仁京遷都では、平城京の大極殿(第一次大極殿)が恭仁京に移築された。
このため、745年再び平城宮に帰ってきた時に再び大極殿(第二次大極殿)が造られた。
平城京は南北約4.8km、東西約4.3kmで、これに東大寺や興福寺がある外京がつく。
京の内部には、貴族・役人(官人)・庶民の屋敷住宅があり身分によって宅地の大きさが決まっていた。
復元された「朱雀門」は、平城京の中央を縦断する幅74mの朱雀大路に面していた。
平城京の人口は約10万人だったとされている。
内訳は、五位以上の貴族・・・100人 六位以下初位以上の官人・・・600人
無位階の下級官人・・6,000人+家族 僧尼・奴婢・短期滞在者・・・その他
平城宮跡資料館と遺構展示舘
平城宮は東西約1.3km、南北が1kmの敷地で、周囲を高さ5mの築地塀が囲んでいた。
1963年には内裏の跡に遺構展示館が1970年には平城宮跡資料館が開館され、遺跡全域が博物館となっている。
遺跡を保護するために、一段高く盛土をした上に建てられている平城宮資料館では、発掘のプロセス、出土品の保存・研究、遺構の整備復元など、発掘調査にかかる作業のポイントがわかりやすく展示されている。
ついで、発掘成果をもとにつくられた大極殿や東院庭園、長屋王邸の復元模型などが展示される。
さらに平城宮造営に使われた土木 建築用具、木材、瓦などが展示されている。
この中で注目されるのが、長屋王邸跡から出土した木簡と長屋応邸の復元模型である。
木簡からここが長屋王の邸宅跡であることが分かった。
約6万㎡もの広大な敷地には、長屋王の住居や、客を迎える建物、政務を行う建物、使用人の住む長屋、倉庫など数十の建物があったことがわかり、それが復元模型で展示されている。
土層の剥ぎ取り
遺構の展示—保存された発掘現場
遺構展示館には、発掘された現場を掘り起こしたままの状態で展示している。
掘立柱建物の大きな柱穴群や建物の周囲に瓦質のレンガを用いてつくられた整然とした溝など、発掘時の姿がそのまま保存されている。
第一極殿模型 (十分の一の縮尺模型)
天皇の即位の礼などの国家的儀式に使われる場所で、その名は大極星(北極星)にちなんで付けられたという。
710年(和銅3)から恭仁京に遷都される740年(天平12)までは朱雀門の真北に置かれていた。
幅が44m、奥行きは19.5m、高さが21.4mの重層の壮大な入母屋造りであったと推定される。
この大極殿は3mを越える高い基壇の上に建てられた衆色の柱、緑色の窓枠など、中国風の派手な建物であった
内裏復元模型(内裏・内裏・回廊)
その他展示物
大極殿や東院建物で使われた鬼瓦、隼人族の盾、築地塀、など
レンガを使った基壇模型と石積基壇建物復元模型
宮内庁復元建物
井戸跡
この大きな井戸枠は内裏の一部に設けられた井戸に使用されたもの。
直径は1.7m、高さ2.1mあて、杉の巨木をくり抜いて作ったもの。
これだけ大きな井筒は他に無い。まわりに玉石を敷き詰めた立派なもの。天皇専用とも言われる。
第二次大極殿跡
再び都が平城京に戻った745年(天平17)、新たに築かれた。784年(延暦3)の長岡京遷都まで約40年間使われた。
階段を上って、基壇跡に立ってみると、360度視界をさえぎるものが何も無い。
北側のすでに調査の終わった内裏の跡には、柱の代わりにイヌツゲの木が植えられ円筒形に刈られており、奇妙な造形を作り出している。
大極殿復元工事
来年の平城遷都1300年祭に向けて復元工事が進められている。
寄棟造りの二階建てである。
朱雀門
平城宮の正面に堂々たる勇姿をほこった朱雀門が実物大に復元されている。
この朱雀門は1964年に発掘調査が始まり、1964年に復元が完成した。
間口約25m、奥行き10mの入母屋重層門。礎石で支えられた合計18本の柱が5.1m間隔で建てられている。
屋根は瓦葺きで約4万2千枚の瓦が使われている。
屋根に乗った青銅製の金箔塗りの豪壮な鴟尾は、唐招堤寺金堂のものなどを参考にして作られた。
木材は吉野のヒノキなど国産材を使って古代の工法で復元された。
この朱雀門から南の真っ直ぐ延びる道が平城京のメインストリートの朱雀大路で、幅が74mあった。
大和郡山市にある羅城門跡まで真っ直ぐ延びていたとのこと。
朱雀大路
東院庭園展示室
1967年に平城宮の東側の張り出した部分の東南の隅に、東西約80m、南北約100mの庭園跡が見つかった。
『続日本書紀』に「瑠璃瓦」と記されている三彩や緑釉の瓦も出土した。
庭園
東院は本来、皇太子の宮殿の所在する場所であるが、奈良時代の後半、当時の天皇・称徳女帝はここに皇族や貴族を招き、酒宴や詩歌を催したと記録に残っている。
発掘された東院の園池は、周囲の建物とともに東院庭園として復元された。
池はゆるやかな勾配を付けた斜面に石を敷いて、複雑に入る組んだ洲浜をつくり、中島や築山、出島などを設け、周囲にはヤナギやウメ、アカマツ、モモなどが植えられている。
宮城内の案内
案内板・順路があちこちに設置されており、それに従って進めばトラブルはない。
平城京の時代に深く関わった光明皇后が創建した尼寺の法華寺と光明皇后の発願で建立された海王龍寺はすぐ近くにある。
これら寺院の詳細については、調査員・野崎順次氏の報告を参照されたい。
1200年もの歴史を有する近郊の唐招提寺の金堂が本年に落成した。話題に欠かない奈良市及び奈良時代に思いを深めてみたい。
《参考資料:(財)栗東市文化体育振興事業団案内資料、上撰の旅奈良・大和路、平城京と木簡の世紀より抜粋》
瀧山幸伸
May 2004 source movie
朱雀門
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