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奈良県奈良市 宝来山古墳
Horaisan Key-hole Type Burial Mound, Nara city, Nara

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January 10, 2015 野崎順次 source movie

奈良県奈良市
宝来山古墳(垂仁天皇菅原伏見東陵)

12−24mmの超広角レンズを多用して動画静止画撮影をしてみた。あっけらかんとした味が出るようだ。

説明板と倍塚



宝来山古墳


 
 
 
Feb.2012 大野木康夫 source movie

垂仁天皇陵(宝来山古墳)

所在地 奈良県奈良市尼辻西町

2012.1.26撮影 

垂仁天皇陵に比定される宝来山古墳は、近鉄尼ヶ辻駅のすぐ西側にあります。
典型的な前方後円墳で、近鉄電車からもよく見えています。
前方部の南東の環濠の中に小島があり、田道間守の墓と言われています。
田道間守は垂仁天皇の命により常世の国から非時香菓(ときじくのかぐのこのみ=橘?)を持ち帰ったとされ、菓子の神として但馬豊岡の中嶋神社に祀られています。
薬師寺東塔の修理用素屋根も見えます。






Oct. 2009 撮影/文 野崎順次

奈良県奈良市尼ヶ辻町西
前方後円墳 宝来山古墳(垂仁天皇菅原伏見東陵)

撮影日: 2009年10月17日

平城京の西側の西の京丘陵に立地する南向きの大形前方後円墳で,墳長227m,前方部幅120m,後円部直径123m,前方部高12m,後円部高18mをはかる。
三段築成,周囲には前方部前面での幅五五mの鍵穴形周濠がめぐる。
幅が広く,同一水面上でめぐる周濠として注意されてきた。
周辺には六基ほどの円墳・方墳がある。

元禄期以来,「垂仁陵」とされ固定したものと思われているが,林宗甫『和州旧跡幽考』(1681年<延宝九>)では,「新田部親王の陵は俗に蓬莱とよぶ。
親王をはうふり奉りしよしは招提寺の旧記にありとぞ。」 と記す。
同書には「菅原伏見陵二基」(垂仁陵と安康陵)については「今此所の見わたしに陵はあらず。
世々を経て年ふりにたれば,をのづから陵夷しけるにや」とあるから元禄考定以前には本墳を「新田部親王墓」(天武天皇の皇子墓)とみなしていた可能性もある。
幕末の山川正宣『山陵考略』(1855年<安政二>)には,里俗に「武烈陵」説のあることを紹介する。
呼称は宝来山ないしは蓬莱山が一般的であるが,一部の書物には丸山と称したこともみえる。

『廟陵記』(文化山陵絵図)には墳丘頂上にくぼみがあることを記しており,既掘を示すが,本墳も佐紀石塚山古墳などとともに嘉永年間の盗掘をうけた。

現在,前方部東側周濠内に「田道間守墓」と称される浮島が存在する。
これは江戸時代の山陵絵図はもちろん精緻な測量図の『御陵図』上(明治十二年山陵図)にも描かれていない。
東南部の周濠は,明治期に外堤の一部を削平して東側へ拡張された模様であるが,「田道間守墓」はもとの外堤箇所に新たにつくりだされたものと思われる。
ただし,さきの『廟陵記』などに周濠の南側部分に「橘諸兄公ノ塚」と称する塚の存在を示す記事がある。
ふだんは水中に没しており,渇水時にあらわれるらしい。
「田道間守墓」を新造する前提にこの塚の存在があったとも考えられる。
また周濠内に存在する点や,低墳丘であったことからみて古市古墳群の津堂城山古墳に確認された「島状遺構」の一種かもしれない。

本墳の編年上の位置を求めるには,資料が不足しているが,墳形・周濠の形態と長持形石棺を採用している点からみて前期後葉および末葉におくのが妥当と考える。
(森浩一、「天皇陵古墳」1996、大巧社より)

南東から近づき、拝所から前方部を望み、時計とは反対回りに後円部に向かう。
周濠の大半の水面は異常発生の水草で覆われている。

田道間守墓と陪冢2基。




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