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奈良県奈良市 佐紀盾列古墳群

(Sakitatenami Burial Mounds, Nara City, Nara Pref.)

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September 4, 2021 野崎順次 source movie

佐紀盾列古墳群、その2

今回は佐紀盾列古墳群の西半分を訪ねる。朝から小雨で、一時晴れてほっとしたら、本降りが続いたり、気象条件は波乱万丈の1日でした。

近鉄平城駅から北へ
     


五社神(ごさし)古墳 (宮内庁治定 仲哀天皇皇后神功皇后狭城盾列池上陵)
前方後円墳 全長275m1 古墳前期
後円部は直径195m、高さ26m、前方部は幅155m、高さ19m。墳丘は3段築成で、丘陵の途中を断ち切って築造されている。佐紀盾列古墳群の中で最大。後円部北西には陪塚とされる古墳がある。
神功皇后は、第14代仲哀天皇の皇后で、第15代応神天皇の母。日本書紀では、仲哀天皇が筑紫(九州)で亡くなった後、おなかに子(後の応神天皇)を宿したまま、海を渡って朝鮮半島に出兵し、新羅の国を攻めたと伝えられている。
(2010年の奈良の実景ウェブサイトより)

前方部の拝所と周濠
             


東側を北へ(前方部から後円部)、御前池、中ノ池
               


拝所に戻り、西側に回る。
                     


方墳、南北35m、東西28m
  


神功皇后陵陪塚ろ号、円墳、南北33m、東西27m
   

神功皇后陵陪塚い号、円墳、径14m
   


平城駅に戻り、細い路を東へ
         


佐紀石塚山古墳(宮内庁治定 成務天皇狭城盾列池後陵)
前方後円墳 全長218.5m 古墳前期
後円部は直径132m、高さ23m、前方部は幅111m、高さ16m。周濠が巡っている。東隣にある成務天皇の祖母の日葉酢媛命陵(佐紀陵山古墳)、南隣の称徳(孝謙)天皇陵(佐紀高塚古墳)とともに「佐紀三陵」と呼ばれる。
江戸時代元禄のころまでは、現在の神功皇后陵(五社神古墳)が成務天皇陵とされていた。日本書紀によると、成務天皇は初めて地方の国県の区画を定め、国、郡(こおり)、県(あがた)、邑(むら)のそれぞれに首長を置いて、行政機構の整備を行ったと伝えられている。
(2010年の奈良の実景ウェブサイトより)

後円部
        


方墳、一辺約30m
   


成務天皇陵陪塚い号、方墳、一辺約35m
成務天皇陵陪塚ろ号、方墳、一辺約25m
奥がい号、手前がろ号
   



佐紀石塚山古墳(成務天皇陵)と佐紀陵山古墳(日葉酢媛命陵)の間の道を南へ歩く。奈良市屈指の散策路だが、あいにく雨が本降りになってきた。
             


佐紀陵山古墳(宮内庁治定 垂仁天皇皇后日葉酢媛命狭木之寺間陵)
前方後円墳 全長207m 4世紀後半~5世紀前半
後円部は直径131m、高さ21.3m、前方部は幅87m、高さ12.3m。周濠があり、葺石や円筒埴輪列が巡っている。大正4年(1915)に盗掘に遭い、その時の記録から後円部頂に竪穴式石室があることが分かっている。石室の上には屋根形石と蓋形(きぬがさがた)、盾形、家形の埴輪があったとされる。
古代、位の高い者が亡くなると、近習の者たちが墓の周りに埋められる風習があったが、垂仁天皇はこれに心を痛め、殉死を禁じたという。日葉酢媛命が亡くなった際には、野見宿禰(のみのすくね)の進言によって、殉死に代わって埴土(はにつち)で人や馬などを作り、陵墓の周りに立てることにした。これが埴輪の起源となったとの説があるが、考古学的見解からは否定されている。
(2010年の奈良の実景ウェブサイトより)
         


佐紀石塚山古墳(宮内庁治定 成務天皇狭城盾列池後陵)の前方部と拝所
      


佐紀高塚古墳 (宮内庁治定 孝謙天皇高野陵)
前方後円墳 全長127m 
後円部は直径84m、高さ18m、前方部は幅70m、高さ13m、周濠が巡っている。宮内庁は孝謙天皇陵に治定しているが、疑問視する声も少なくない。孝謙天皇は、聖武天皇と光明皇后の娘で、西大寺を建立したことで知られる。第46代孝謙天皇として749~758年まで在位したのち、重詐して、第48代称徳天皇(在位764~770年)となった。
(2010年の奈良の実景ウェブサイトより)
         


帰途、にぎやかなブロック塀があった。
      


August 28, 2021 野崎順次 source movie


本古墳群は、佐紀丘陵の南斜面に前期後半から中期、つまり4世紀末から5世紀前半にかけて巨大前方後円墳が営まれた。200メートル超す巨大古墳が前期後半には3基、中期には4基みられる。これらは、初期ヤマト政権の王墓である可能性が高い。
奈良盆地の東南部のヤマト政権誕生に関わりのある纏向古墳群や天理市南部から桜井市にかけて初期ヤマト政権の大王墓を含む大和・柳本古墳群が5世紀初頭には衰退し、本古墳群が4世紀後半から5世紀前半に巨大前方後円墳を営むようになった。しかし、中期末の5世紀後半から末葉になると弱小化してしまう。
古墳群を代表する大型陵である「五社神古墳」(ごさしこふん)と「佐紀石塚山古墳」の治定陵墓名がともに「狭城楯列陵」であった。「盾(楯)列」は、周濠の形が盾型をしており、それらが北側に後円部、南側に前方部という位置でそれぞれが平行に、また東西一直線に並んでいる様子を言い表したもののようで、平城遷都後に定着した新しい言葉と推定される。
なお、奈良県立橿原考古学研究所では、古代由来の地名だけの「佐紀古墳群」としている。
(ウィキペディア「佐紀盾列古墳群」より)

今回のコース、JR奈良駅西口からバスで航空自衛隊に行って、ワナベ古墳とコナベ古墳の
中間からスタートした。

  

ウワナベ古墳(宮内庁治定 宇和奈辺陵墓参考地) 
前方後円墳 全長270-280m)5世紀中頃
墳丘は三段で、斜面に葺石が敷かれ、一段目の周囲は埴輪が並べられていた。墳丘は宮内庁が、周囲を取り巻く周濠は地元の農家組合が管理しており、現在は上部を植生が覆っている。
測量図から全長255メートルと推測されてきたが、宮内庁や奈良県立橿原考古学研究所、奈良市教育委員会による発掘調査結果が2020年11月20日発表され、後円部側周濠の北東と東の葺石の先で見つかった基底石を含めた全長は270-280メートルで、同じ佐紀古墳群の五社神古墳(全長267メートル)を上回り、日本国内で第12位になることが明らかとなった。
前方部幅 129.5メートル、後円部径 128メートル、全長 270-280メートル、前方部高 16メートル、後円部高 19.8メートル
(ウィキペディア「ウワナベ古墳」より)

                

ワナベ古墳とコナベ古墳の間に航空自衛隊奈良基地および自衛隊幹部候補生学校がある。

       

コナベ古墳(宮内庁治定 小奈辺陵墓参考地、宮内庁推定被葬者 磐之媛命)
前方後円墳 全長204m、 5世紀前半
全国でも31位の規模を有する大型の前方後円墳である。後円部の径が125メートル・高さ20メートル、前方部は幅129メートル・高さ17.5メートルであり、前方部はほぼ南の方向を向いている。ウワナベ古墳もコナベ古墳も、ともに全長200メートルを超える規模を有し、三段築成の前方後円墳が前方部を南方に向けて東西に並んで立地するところから、両古墳の被葬者のあいだに密接な関係が考えられるが、コナベ古墳の方が年代的にやや古いとみられている。なお、コナベ古墳の墳形は市庭古墳(奈良県奈良市)や誉田御廟山古墳(大阪府堺市)との相似関係が指摘されている。
(ウィキペディア「コナベ古墳」より)

                     

ヒシアゲ古墳(宮内庁治定 仁徳天皇皇后磐之媛命 平城坂上陵)
前方後円墳 全長219m、5世紀中葉-後半
奈良市佐紀町字ヒシゲにある、全長219m、後円部径124m、後円部高さ16.2m、前方部幅145m、前方部高さ13.6mの前方後円墳。 現在宮内庁に管理されていて、自由に立ち入りできない。前方部に二重濠があり、珍しい。
(ウィキペディア「ヒシアゲ古墳」より)

前方部の中央に面する拝所へ行く。

            

東側の道を行く。巨大な古墳で二重濠なので墳形はほとんど見えない。

       

一部復元された外堤
1993年に奈良県立橿原考古学研究所が行った調査では、後円部東側くびれ部相当の内堤の外法肩部分で円筒埴輪列が見つかった。現在、奈良県の風致保全整備事業の公園となって一部は遺構復元がなされ、複製埴輪が立つ。また外濠を横断する渡土堤の存在も確認された
(ウィキペディア「ヒシアゲ古墳」より)

               

後円部の北側を回り込んで行くのだが、やはり墳形はほとんど分からない。

       

西北の農道から遠望する。

        

農道を西へ

           

お墓の六地蔵と石塔・石仏

         

オセ山古墳 前方後円墳
この古墳は測量調査だけで発掘されていない為、実態がよくわかりませんが前方部が、いつの時期か不明ですが消滅し後円部だけが残っています。径は45m程度であり前方後円墳に復元すればおそらく80m前後の中型古墳と思われます。後円部を巡る周濠(幅10m前後)は比較的形がよくのこっており民家のある場所を除き観察出来ます。別名でマラ塚とも呼ばれています。
(大和の古墳探索ウェブサイトより) 

        

国史跡 塩塚古墳 前方後円墳 全長105m 5世紀前半から中頃
後円部を北とし、墳丘規模は全長105メートル、後円部径70メートル、前方部幅55メートル、高さは後円部9メートル、前方部1.5メートルをはかる。前方部は後円部と較べ異常に低く平坦であり、奈良時代の瓦が出土しているので、後世に削平されて建物が建てられていた可能性がある。奈良時代、この付近には平城宮に属する苑池の松林苑があり、当古墳もその敷地に取り込まれていたと考えられる。なお墳丘の調査では埴輪や葺石は検出されていない。段築はトレンチ調査により2段築成ではないかと推定される。周濠(堀)は前方部にはなく、後円部を中心に馬蹄形に存在し、水をたたえていた様子はない。
(ウィキペディア「塩塚古墳」より)

 

北から見る。

    

後円部を北にする南北軸で東半分の草木を伐採しているので墳形がよく分かる。

                

南側からの遠景

   

花と石塔・石仏

            

国史跡 佐紀瓢箪山古墳 前方後円墳 全長96m 5世紀
墳丘の全長は96メートル、後円部径60メートル、同高さ10メートル、前方部の幅45メートル、同高さ7メートルである。古墳の周濠は普通、墳丘の周りをぐるりと回るが、発掘調査の結果、この古墳の場合は前方部の正面から西側隅にかけての部分には濠が造られていなかったことが判明した。(中略)また濠の調査から、墳丘には葺石がふかれ、埴輪もあったことが分かっており、また、濠には平常は水を貯めていなかった可能性が強いという。
(ウィキペディア「佐紀瓢箪山古墳」より)

東側の柵沿いから後円部が見えた。南に入口があり、後円部の北側を回り込む。

        

西側は明るく、草木も伐採してある。左が後円部、右が前方部。

    

くびれ部から上り、後円部から前方部に

            

猫塚古墳
墳丘長120mほどの前方後円墳であったと考えられるが、松林苑の南側築地の位置にあたっており、古墳は大きく改変されている。1953年に、土取りにともなって緊急の調査が実施された。埋葬施設は、全長4.6m、幅1.28mを測る竪穴式(たてあなしき)石室(せきしつ)で、割竹形木棺を安置していたと考えられる。石釧(いしくしろ)21点、直刀8点、短剣(鎗先)22点が出土した。
(橿原考古学研究所附属博物館ウェブサイトより)

よく分からないがこの辺一帯が古墳跡らしい。

   

帰途、佐紀池あたり

         

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