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奈良県高取町 高取城
(Takatori Castle,Takatori town,Nara)

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January 6,2017 大野木康夫 movie

高取城跡

所在地 奈良県高市郡高取町

国指定史跡

中世越智氏の據地として重きをなしたところで、盖しその詰城であったと思はれる。
天正十三年豊臣秀長大和を領するや、越智氏はこれに属し、その後を承けて脇坂氏、本多氏相ついでこれを領したが、寛永十七年に至り、植村家政ここに封ぜられ、■来子孫相承けて明治維新に至った。
現在の城郭の構築につき、その沿革は詳でないが、盖し近世初頭に営まれ、植村氏の時代に補修されたものであらう。
城は大和平野の南隅に聳える高取山上に営まれ、西方は金剛、葛城の連峯に、南方は吉野の群山に相対し、俯瞰すれば大和平野と吉野川沿岸を脚下に望み、極めて景勝の位置を占めている。
指定の地域は城郭の主要部で、頂上に向って漸次高さを■増してゆく山頂部の地形を巧に利して層々郭を連ねて構成され、凡そ北部の前衛部と南部の枢要部とに大別し得られよう。
前衛部は谷と堀とによって大手方面の城地を■し、蛇行する通路の左右には侍屋敷相連り、門櫓は要所を扼して、枢要部を守る枢要部は高い石垣をめぐらす本丸を最奥の頂上部に置き、二の丸、三の丸これに連なり、更に侍屋敷を配して守りを堅くし、壷阪、吉野方面に搦手口を設ける。
今天守閣を始め建物はすべて存しないが、天守台、門、櫓、虎口等の遺構及び各郭の形態は全面にわたる堅固な石垣と相俟って旧規模を殆どその儘遺しているのは貴重であり、且つ嶮阻な中世山城の位置を踏■した近世城郭として夙に著名であって、学術上価値ある遺跡である。
(国指定文化財等データベースより)
※■は不明

麓の観光駐車場に駐車して徒歩で山頂の本丸を目指しました。

  

児童公園に移築された松の門(一部)

  

土佐街道沿いの長屋門群
植村家長屋門は奈良県指定文化財

             

高取藩下屋敷跡

  

奈良産業大学がCG復元した高取城の看板

 

高取城遠望

山頂に雪が見えました。

  

上子島集落

   

上子島沢砂防公園

登城道で最後のトイレ、自動販売機
ここまでゆっくり撮影しながら20分かかりました。

  

舗装道が細くなり、山あいに入っていく。

  

黒門跡

ここから史跡指定範囲で未舗装道に変わります。
砂防公園から10分ほどかかりました。

     

ほどなく史跡を示す石碑があります。

    

黒門から10分ほどで七曲りと呼ばれる急坂が始まります。
ところどころ小規模な石積が見られ、城跡という感じがします。
ゆっくり撮影しながら登りました。

               

雪が積もっているところもありました。

  

七曲りを過ぎると一升坂と呼ばれる急坂になります。
あまりの急勾配のため築城時に人足に米一升を加給したため一升坂と呼ばれるようになったそうです。

    

折り返し、岩屋曲輪への道の分岐点を経て猿石へ

     

猿石

二の門のすぐ下、大手道と岡口(明日香村柏森方面)からの道が合流するところに置かれています。
飛鳥の石造物を石垣用に運んできたもののようです。
背面は加工されているような気がします。
黒門からここまで50分でした。

      

二の門

猿石のすぐ上です。本格的な石垣が見られます。
苔むした左側の石垣は奥に長く伸びており、水堀(ため池?)もありますが、帰りに寄ることにして頂上を目指します。

      

崩れた石垣を見ながら進みます。

  

三の門

 

三の門から矢場門までの曲輪の石垣

        

矢場門

黒門から65分かかりました。
高い石垣が見事です。
国見櫓へ続く道の分岐点です。
ここで若い人に抜かれました。

   

崩れた石垣群

     

松の門

左手の石垣が崩れかけており、ネットでおおわれています。

    

宇陀門

松の門を抜けると宇陀門が見えます。
雪景色の始まりですが高石垣も見事です。

          

城代屋敷の石垣

  

千早門

三の丸の入り口に当たる虎口です。
抜ければ正面に大手門が見えます。

       

大手門

左右の高石垣、桝形の形など「絵になる」眺めです。
黒門からここまで90分ほどでした。
ゆっくり時間をかけて撮影しながら息が切れないペースで登っています。
何人か訪問者がおられましたが、車で上がられているようでした。

                     

大手門を抜けると、二の丸十三間多門です。

     
十三間多門

二の丸の入口です。
整然とした高石垣が続きます。

                       

太鼓櫓、新櫓

二の丸の中心部になります。
石垣は積み直しているようです。

      

十五間多門

太鼓櫓の横です。
天守台も見えていよいよ中心部です。

        

太鼓櫓と天守台の間の風景

        

天守台

見事な高石垣です。
正面に大木があって撮影しにくいです。

                        

天守台左手から本丸虎口へ

                             

本丸風景

         

吉野川方面の眺め

    

本丸虎口から下へ

       

本丸高石垣を時計回りに一周

    

本丸東南部の高石垣

個人的には一番気に入っている眺めです。

       

本丸南側の高石垣

      

小天守台

     

本丸西側から天守台

      

七つ井戸へ

   

七つ井戸方面の高石垣

石垣の量に圧倒されます。

                    

新櫓

   

ここまでじっくり撮影していたら午後1時を過ぎていました。
大手門到着から1時間半以上経っています。
途中、何箇所か寄り道をする予定なので二の丸から来た道を引き返しました。

       

大手門から左に行き壺坂口中門を見ました。

    

さらに右、芋峠方面へ

    

二の丸二重櫓の高石垣

草が生い茂り、自然に帰りつつあります。

    

二の丸直下の石垣を見ながら吉野口門へ向かいました。
見事な高石垣も何箇所か見られますが、あまり整備されておらず、崩れているところもあります。

               

吉野口門

切通しや登り石垣が見られました。
さらに奥の弥勒堀切などには行きませんでした。

                   

大手門に戻る道

         

大手門から矢場門へ

        

矢場門から国見櫓へ寄り道

  

国見櫓

          

矢場門東側の侍屋敷を見ようとしましたがよくわかりませんでした。

  

二の門脇の高石垣と水堀

       

猿石まで戻り、岡口門へ向かいました。
下り始めから寄り道もあり1時間ほどかかりました。

 

岡口門への道
石垣が散見されます。
ハイキングコースなので昔の登城道とは異なっているかもしれません。

             

岡口門の石垣

猿石から20分ほどでした。
なかなか立派な石垣です。

            

猿石から岡口門まで、往復と撮影時間も含め50分かかりました。

  

下りは少し急いだので、猿石から黒門まで15分ほどでした。

    

帰路

長屋門を撮影していたら、車の人に「高取城に車で登る道は?」と聞かれました。
「壺阪寺からまだ上に行けば七つ井戸の下に行けます。」と教えましたが、この時点で午後4時を過ぎており、到着時には日没になるのではないかと思いその旨も申し添えました。

        

土佐の街並み

10日の「土佐えびす」に向け提灯が飾られています。

                      

石川医院の門は旧下屋敷の長屋門を移築したものです。

      

子嶋寺の山門は二の門を移築したものです。

       


Feb.24,2016 瀧山幸伸
movie preview (YouTube)
movie


                                                                                                                     



June 2010 撮影 野崎順次

撮影日: 2010年5月

奈良県高市郡高取町上子嶋
国指定史跡

かきあげ城

高取城は、今を溯ること約670年前、中世南北朝時代、大和高市一帯を治める豪族・越智一族が、標高583mの高取山の頂に砦のような城を築いたのがその始めと言われている。
山頂を引きならして曲輪(くるわ:城・砦など、一定の区域の周囲に築いた土や石のかこい《広辞苑》)をつくる。
尾根筋に沿って幾段もの曲輪が連なり、要所要所に掘割がつくられ、守りとなっている。
恒久的な軍事施設はなく、立派な櫓・天守もない、自然の地形に多少の工作を加え敵を防ぐ形態の城を掻揚げ城(かきあげじろ)と呼ぶ。
吉野方面との連携をはかることが当時の使命であり、非常の場合、軍事権をもつ惣領が一族・郎党を引き具し、ここにたてこもるのである。

芙蓉城(ふようじょう)

1585年(天正13年)大和国郡山城主 豊臣秀長の重臣 本多太郎佐衛門(1万5千石余)が高取城主となり、天守閣・石塁など本格的な築城が進められた。
これは郡山城を本城とし、高取城を詰城、即ち控えの城として計画されていたもので、最後の一戦を決すべき拠点として重視されていたのである。
1640年(寛永17年)幕府大番頭 植村家政が高取藩主となり、以後14代228年、植村家が藩主となる。時代が進み、世が泰平になるにつれて山上の生活が不便となり、城下町に下屋敷、即ち藩主の居住並びに政庁がつくられ、家臣も下に屋敷をたまわり下りてくるようになった。下屋敷は、はじめ宗泉寺の位置にあったとも言われ、後に下子島村のうち、土佐町に近い場所に移された。
天正期以後の整備・拡張により高取城は「芙蓉城(ふようじょう)」とも言われ、『巽高取雪かと見れば雪でござらぬ土佐の城』と歌われた。

廃城

明治維新の後、明治政府は各地にある城郭のうち、58城を残し、144城の廃毀を決めた。
大和の国の郡山、高取の2城も廃毀となった。
高取城は、明治6年入札により、詳細は残っていないので不明であるが、城郭の大部分が寺院などに売却されたと思われる。
ただ人里離れた山頂であるため、その綱張りにおいては完全に近く遺構をとどめており、昭和28年に国の史跡に指定されている。

表示と参考書類

     

林道より壺坂口門跡を経て壺坂口中門跡へ

                   

城門(大手門)跡から本丸へ

                                                        

本丸の石垣の下側を西から南に回ってみる。

           

二ノ丸広場の草花など

           

宇陀門、松の門、矢場門を経て下る。

                             

二の門跡と水堀

     

猿石
二ノ門外、城下町に下る大手筋と岡口門の分岐点にあり、制作は、飛鳥時代の斉明朝(7世紀)と推測される。
高取城築城の際、石垣に転用するために明日香から運ばれたと言われている。
明日香檜隈(ひのくま)の吉備姫王(きびのひめみこ)の墓の域内にある石像物と同類のものである。
郭内と城内の境目を示す「結界石」とした説もある。

       

参考資料
高取城HP
奈良産業大学HP


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