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奈良県天理市 萱生古墳群

(Kayo Burial Mounds, Tenri City, Nara Pref.)

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October 3, 2021 野崎順次 source movie

奈良県天理市岸田町・成願寺町・新泉町・兵庫町・萱生町・佐保庄町

萱生古墳群その2

萱生古墳群は大和(おおやまと)古墳群とも称されるが、これに柳本古墳群、巻向古墳群を合わせた天理・桜井間の大きな古墳群も大和古墳群と称されるので、ちと、ややこしい。

今回は萱生古墳群の西北部を歩く。墳形が崩れたものが多いが、そこは想像力で補って、同時に秋晴れの田園地帯を楽しむ。
 


中山のバス停から西へ。残暑がきついが、花々は秋を告げている。
           


岸田町

上ツ道の大きな樹の下に「長岡岬 大市観音寺地蔵菩薩 石碑」と小さな地蔵石仏が祀られていた。その湯飲み茶わんがすぐに盗られると、近所のおばあさんがこぼしていた。
    


ため池には金魚の大群が
     


弁天塚古墳
前方部を西に向ける前方後円墳だったと思われ、後円部の西側半分が残っています。推定規模は全長約70m、後円部径40m以上・前方部幅30m程、後円部の東側に新池があり、その西の堤上に小さな祠が祀られています。かつては、現在畑となっている前方部に祀られていたようです。未調査の為、埴輪の出土も報告されていません。築造時期も不明です
(奈良の名所・古跡サイトより)
       


成願寺町

マトバ古墳
墳丘はかなり削平されていて、果樹畑となっています。 矢矧塚古墳と弁天塚古墳の中間あたりにある径30mほどの円墳です。元は50mほどあった可能性があります
 出土遺物の報告も無く、築造時期も不明です
(奈良の名所・古跡サイトより)
   


矢矧塚古墳
全長約105m、後方部経46m(復元長50m)・前方部幅約40m(復元幅49m)。周壕はなかったようです。明治初期の開墾で玉類が出土したようです。築造年代は不明です。墳丘上に旧柳本飛行場給水施設跡が有ります。現状は後円部の一部が上ッ道で削られたうえ墳丘全体も大規模に削平され一面が果樹園となっています。大和古墳群に含まれ、周辺には平削され果樹畑になっている古墳が多く見られます
(奈良の名所・古跡サイトより)

南の前方部
      


墳丘(果樹園)を前方部から後円部へ
     


北から見る。左が後円部、右が前方部
    


上ツ道を北へ、大和(おおやまと)神社参道の茂みが見える。
      


兵庫町

馬口山古墳
兵庫町(大和神社参道北側)に所在する全長110メートルの前方後円墳です。墳丘上において特殊器台型埴輪の破片が採取され、埴輪の起源に関わる年代の古墳として知られています。3世紀後半に築造された古墳時代前期前半の古墳と考えられます。
(天理市ウェブサイトより)
  


新泉町

星塚古墳
大和(おおやまと)神社の境内の一角に位置する古墳です。前方後方墳とされていますが、墳丘図を見ると、二つの方墳が連結しているようにも見えます。岡山県にある黒宮大塚古墳(二つの方墳を連結させた特殊な墳丘の古墳で、弥生時代後半の築造と考えられ、古墳の成立過程を研究する上で欠くことのできない墳墓))と墳形がよく似ており、その関連が注目されます。もしその時代のものだとすれば、最古級の古墳の可能性も考えたれますが、発掘調査が行われていないので、なんと言えません。
墳丘:前方後方墳?前方部を南面に向ける。(全長約60m、後方辺約30m、 高さ約7m、頂辺約10m、前方部幅約20m、長さ約30m、高さ2.6m、くびれ幅約1.5m、後前高差-2.9m)
(「大和の古墳探索」ウェブサイトより)
      


成願寺町

フサギ塚古墳
全長110m、前方後方墳では全国8番目の大きさです。くびれ部から前方部にかけて大きく破壊されています。1987年に前方部の一部が発掘調査されています。古墳の築造時期を示すような遺物は出土していません。ただ前方後方墳という墳形からして、古墳時代中期以前の築造ではないかと思います。かつて刀剣類が出土したと言い伝えられています。
(古墳:探訪サイトより)
   


萱生町

マバカ古墳
墳丘規模は現状で全長74m、後円部径43m・後円部高7m、前方部幅26m・前方部高2m 大和古墳群萱生支群中に存在する前方後円墳です。前方部の西側すそに、東西約14m、南北約35mにわたって堀のような部分があり、その中で庄内式と呼ばれる古墳時代初期の土師器のつぼや鉢などの破片が多数見つかりました。その土器から、3世紀前半に築造された可能性が高いと考えられています。纒向石塚古墳や纒向勝山古墳に近い築造時期の可能性が指摘されています
(奈良の名所・古跡サイトより)
      


主要地方道天理環状線を北へ、右がヒエ塚、左がノムギ塚
 


ヒエ塚古墳
墳形は前方部が「バチ形」に開く前方後円形で、前方部を西方に向ける。墳丘長は約129メートルを測る。墳丘表面では葺石が認められるが、埴輪は認められていない。墳丘周囲には周濠が巡らされるほか、外堤の存在可能性も指摘される。築造時期は、墳形や出土土器、および埴輪が出土しないことから古墳時代前期前半の3世紀後半-4世紀前半頃と推定される。一帯の大和古墳群は初期ヤマト王権の王墓群として知られ、本古墳もその様相から王権と関わりの深い有力者の墓と想定される。
(ウィキペディア「ヒエ塚古墳」より)
      

佐保庄町

国史跡 ノムギ古墳
佐保庄町に所在する前方後方墳です。地形に沿って東西に主軸をもち、墳丘は現状で全長63mあります。後方部の周囲には幅10~14mの周濠がめぐっています。出土した土器から大和古墳群に分布する前方後方墳のなかでは、築造時期が最も遡る古墳と考えられます。古墳時代前期前半の古墳です。 平成26年10月6日、国史跡に指定されました。
(天理市ウェブサイトより)
ノムギ古墳は地形に沿って東西を主軸にとる墳長63mの前方後方墳(ぜんぽうこうほうふん)で,幅10~14mの周(しゅう)濠(ごう)がめぐる。出土土器から大和古墳群の前方後方墳のなかで築造はもっとも遡る。
(文化遺産オンラインより)
          


その他
    


September 19, 2021 野崎順次 source movie

奈良県天理市成願寺町・中山町・萱生町・神泉町

今回のコース(上が北)と航空写真(上が東)
  


桜井から成願寺までバスで行く。途中、箸墓や景行天皇陵がよく見える。
                 


バス停のすぐ北に栗塚古墳がある。前方部はほとんど残っていないので円墳に見える。
栗塚古墳 前方後円墳 全長約120m 後円部径約70m
        


南方向などの眺望
   


国史跡 下池山古墳 古墳時代前期前半 前方後方墳 全長約120メートル
多数の板石の用いられた石室は、長さが6.8メートルで、その内部からは木棺とともに鉄製品等が出土している。石室の北西側からは小石室が検出され、その内部で大形の内行花文鏡が発見された。共伴する遺物等より、古墳の造営年代は4世紀前半と推定される。立地や築造時期などから、被葬者は波多子塚古墳に続く系譜の者と見られ、具体的には倭国造の五十野宿禰が想定される。
(ウィキペディア「下池山古墳」より)
             


前方部から墳丘に上る。
       


東から振り返る。
  


南方の崇神天皇陵あたりと近くの彼岸花
        


国史跡 中山大塚古墳
中山町に所在する全長約130メートルの前方後円墳である。以前から特殊器台の破片が墳丘上から見つかり、古墳時代初期の古墳として注目されていました。平成5~6(1993~94)年に調査がおこなわれ、長さ約7.5メートルの竪穴式石室とおびただしい葺石が見つかりました。3世紀後半に築造された古墳時代前期前半の古墳です。
(天理市ウェブサイトより)
          


前方部南東から墳丘に上る。後円部頂上に石室位置を示す植え込みがあり、中央部が埋葬主体部、外側は石材範囲を示す。
                    


念仏寺に戻る。
   


念仏寺東の墓地に行く。
燈篭山古墳 前方後円墳 全長105m 後円部径65m 前方部幅52m 埴輪棺出土
     


村落を東に抜けて、衾田陵の拝所に向かう。途中に果樹園内に火矢塚古墳(全長50mの前方後円墳)の墳丘らしき高まりがあり、南の遠くに崇神天皇陵や景行天皇陵が見える。彼岸花は満開である。
       


西殿塚古墳 (宮内庁治定 手白香皇女衾田陵) 
奈良盆地東縁の丘陵上に築造された巨大前方後円墳である。東側には隣接して東殿塚古墳があり、2基は大和古墳群のうちでは最高所にあって盆地全域を眺望する。
(中略)
墳形は前方後円形で、前方部を南方に向けるが、東西方向の傾斜地(高位は東側)に直角に築造されているため左右非対称形をとる。墳丘は後円部で東側3段築成・西側4段築成、前方部で東側1段築成・西側2段築成。墳丘長は約230メートルを測るが、これは大和古墳群では最大規模になる。墳丘表面には葺石が認められるほか、特殊器台形土器・特殊器台形埴輪・特殊壺形埴輪(以上墳丘部)、有段口縁の円筒埴輪などの初期埴輪(墳丘周辺部)等が検出されている。主体部の埋葬施設は明らかでないが、墳丘上では後円部・前方部それぞれに方形壇(方丘)が認められている。
この西殿塚古墳は、古墳時代前期前半の3世紀後半頃の築造と推定される。箸墓古墳(桜井市箸中)に後続するヤマト王権の大王墓と目され、隣接する東殿塚古墳とでは西殿塚古墳を先とする連続的な築造とされる。
(ウィキペディア「西殿塚古墳」より)

西南から南へ、南側(前方部)に拝所がある。
                      


東側の生垣沿いに前方部から後円部に進む。墳丘部の形状(段築)がよく残っているのが見える。前方部東側は二段築成かな。
     


東殿塚古墳の茂みを見る。今回は行かない。
 


西殿塚古墳後円部の外側沿いに北へ、後円部東側は三段築成らしい。
          


萱生の集落に入り、狭い道を行くと、キーウィがたわわに実っていた。
     


菅原神社の背後に後期古墳が残る。
空路宮山古墳 前方後円墳(前方部残存せず) 全長約45m 横穴式石室
        


西へ下ると、山の辺の道に出た。舟渡地蔵、里山文庫が目につく。
       


萱生は環濠集落で、西山塚古墳の周濠も環濠の一部として利用されている。

西山塚古墳 6世紀前半頃 前方後円墳 全長114m 後円墳径65m
墳形は前方後円形で、前方部を北方に向ける。墳丘は後円部で3段築成、前方部で2段築成。墳丘表面では葺石・埴輪が検出されている。主体部の埋葬施設は明らかでないが、前述の明治の開墾の際には、石棺のほか勾玉・管玉・鈴・土器・人造石が出土したと伝わる(現在は所在不明)。墳丘周囲には周濠が巡らされ、現在もその名残は周囲4ヶ所の溜池として見られるほか、周濠外側には外堤の遺構も認められている。
この西山塚古墳は、出土埴輪から古墳時代後期前半の6世紀前半頃の築造と推定される。大多数が前期古墳である大和古墳群では、例外的な後期古墳になる。被葬者は明らかでないが、第26代継体天皇皇后の手白香皇女の真陵に比定する説が有力視される(現陵は天理市中山町の西殿塚古墳)。
(ウィキペディア「西山塚古墳」より)
              


西側から見る全景、右が後円部、左が前方部
    


二上山、古墳、彼岸花
                


最初の栗塚古墳に戻ってきた。
栗塚古墳 前方後円墳 全長約120m 後円部径約70m
    


大和神社への道の西へ、南にフサギ塚古墳
フサギ塚古墳 前方後方墳 全長110m以上 後方部65×60m
       


馬口山古墳 前方後円墳 周濠三段築式 全長110m 後円部径約56m 前方部幅41m 
                   


帰途、上ツ道、大和神社参道の彼岸花
          


近鉄奈良線石切駅あたりからの大阪市街
          



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