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奈良県奈良市 東大寺、手向山八幡宮、若草山

Todaiji/Tamukeyamahachimangu/Wakakusayama,Nara city,Nara

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Oct.2016 中山辰夫

奈良市雑司町406-1

撮影:Sep.09.2016

名称:転害門、西北大門、佐保路門、手掻門、碾磑門、景清門、大門などの呼称・愛称をもつ。現在は災いを転ずる門として、転害門と称す。

創建:756(天平勝宝)?762(天平宝字6)年頃で確定されていない。

規模:南北約17m、東西約8m、高さ約11m

構造:三間一戸八脚門、切妻造、本瓦葺、三棟造、花崗岩製檀正積基壇、礎石は花崗岩

所在:平城京・東七条大路と南一条大路(佐保路)の交差点にあって西面する。

案内

    

外観

      

国分寺の総本山として、東大寺には大仏殿や南大門など壮大な七堂伽藍が整えられた。しかし平安時代に入り、幾度もの天災でいくつかの建物が失われた。

さらに平重衡の兵火(1180年)、三好・松永の戦い(1567年)の2回の戦火でも大仏殿、他の伽藍が悉く焼失したが、転害門と本坊経庫だけは残り、天平時代の東大寺創建時の伽藍建築と面影を想像できる唯一の遺構となった。鎌倉時代の修理で改変されてはいるが、基本的には天平時代の建物といえる

毎年10月5日には、手向山八幡宮の祭礼(転害会 てがいえ)が行われ、神輿の「お旅所」となる。

天平時代の門で現存するのは、法隆寺の東大門と転害門(てがいもん)だけである

法隆寺東大門(国宝)

 

転害門は、平城京一条南大路(現在の一条通り)に向かって構えられた通用門として、最も北に位置し往時は多数の出入りがあったという。

門柱

築後1250年、この門を支える門柱には長い歴史が刻みこまれ、風格が感じられる。

   

構造は門柱が横に四本並び、門柱の前後にそれぞれ一本ずつ、計八本の控柱を持つ八脚門である。

柱間三間のうち、通り抜けられるのは中央一間のみの、三間一戸の形式である。

シメナワ

 

中央の二本柱には地元の人達の手でシメナワが掛けられ、結界の役目をしている。全長約15m

749(天平勝宝元)年、大仏建立にあたり、寺の守護神として大分県の宇佐八幡宮から分霊を迎えた際(手向山八幡宮)、転害門から神輿が入り、祭礼が行われたことから、大シメナガが掛けられるようになった。大シメナワは、餅米の稲藁で作られ、近年では4年に1度、秋分の日に架け替えが行われている。

大シメナガには、稲藁で作られた〆の子(しめのこ)が5つ取り付けられ、〆の子と〆の子の間に紙垂(しで=四手)が4枚取り付けられている。

傷だらけの柱

   

創建時は丹土で塗装され節は見えなかったと推定。特に南西角のもの年月を経て節が露出し痩せて来た。土門拳 この柱に魅了された。

柱には鏃(やじり)や銃弾の跡が多く残っている。主に永禄10年の戦い時のものである。1931?32(昭和6?7)年の改修で老朽柱3本が取替えられた。

柱上部の形状

   

柱の最上部が、すりこぎの先のように丸くアール状になっている(注連縄の丁度、上のところ)。これが奈良時代の柱の最大の特徴といわれる。

軒廻り

地垂木は奈良時代特有の丸垂木で、また門の内部は正面中の間だけ天井板のない組入天井になっており、全体は山形の化粧屋根裏が前後に並ぶ。

  

組物

本瓦で葺かれた切妻造の妻面は二重虹梁蟇股(大虹梁の上に小虹梁を架け、その間に蟇股を入れる構架法)で飾られている。大斗の上に長い肘木を入れたものが目立つ。当初は単純な三ツ斗で、大仏様型等一切なかったとされ、原状の破風・懸魚は鎌倉以後のものとされる。蟇股の形も奈良時代をよく示している。

     

 

宝相華文様の丸軒瓦で、天平時代特有のものである。

「転害」と書くのは、手向山八幡宮の祭礼当日、畿内、伊賀を合せて六カ国で殺生が禁じられ、「害を転じて活かす行事」と言う事で、中世以降は専ら「転害」の字があてられるようになり、門を転害門、祭礼を転害祭と記すようになった。

現在転害門周辺の地名は、手貝町である。時代により漢字の表記は変わる。

転害門をくぐり参道を進むと左手の塀越に小学校が見える。

鼓阪小学校(つさか)

      

鼓阪小学校は、東大寺境内を校区に含み、東を正倉院、西を転害門という世界遺産に接する奈良市立の小学校。

東大寺尊勝院跡に奈良町第三小学校として、1878(明治11)年に開校。

130年を超える歴史があり、国宝の転害門は小学校にとっては正門のようなもの。

お寺の巨大な屋根と見間違うのは、1936(昭和11)年に建てられた本瓦葺きの講堂で小学校のシンボルになっている。

東大寺を意識したデザインで、円い柱、回廊、車寄せまで付いている。

滋賀県の豊郷小学校(国登録文化財)の講堂より、1年後に建てられた。

校名の由来となった「鼓阪」は、小学校の東側、正倉院の柵の中にある100mほどの坂で、東大寺転害会の時に、楽人が、この坂で楽器を演奏したことからこの美しい名前が付いたとされる。


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