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奈良県奈良市 東大寺、手向山八幡宮、若草山

Todaiji/Tamukeyamahachimangu/Wakakusayama,Nara city,Nara

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Sep.2021  中山辰夫


東大寺
奈良市雑司町406-1

東大寺略年表
 
752年に大仏開眼供養が行われ、伽藍の建立は奈良時代の末まで続きました。1180年の源平の乱で中心伽藍を焼失、その復興に当たったのが僧重源です。
重源は宋の建築様式-大仏様式を導入して再建しました。
次いで、1567年に再度戦災で伽藍の中心部が灰燼化、現存の大仏殿は1692年に大仏開眼供養が行われたものです。
東大寺境内に点在する数多くの建物は、奈良、鎌倉、江戸の3つの時代に大別され、奈良、鎌倉の遺構は伽藍周辺部に残っています。

境内を蟇股中心に見て廻ります。
最初に気になる3点を紹介します。

757~65 転害門 国宝 建立:757~65 三間一戸八脚門 切妻造 本瓦葺 積石壇上 東大寺3門のうちの北の門 創建時のままの遺構
 
屋根広く勾配は緩く流れ、軒豊かに差し出て、緩やかな中にも一種鬱然たる風貌を示し、太い円柱は堂々と建ち並び、見るからに由緒ある古い大門と感じる。
鎌倉時代再建の時に一部改造されています。
妻部 二重虹梁蟇股式の秀抜明快な構造は当時の建築に多く見られます(法隆寺伝法堂)、二重虹梁の下段に並ぶ二つの大虹梁は一木で造られています。
 

妻構造
 
二重虹梁と蟇股、左右に大きく捲上がった蟇股、唐招提寺講堂蟇股の両端が少し上向きに捲き上がればこの形法隆寺西院経蔵や同東大門の蟇股もこの形です。法隆寺伝法堂、唐招提寺金堂、東大寺法華堂の蟇股もほぼ同じ形です。
切妻造の両妻壁では二重虹梁・蟇股の箇条を魅せます。桁行に延びる通肘木の木鼻に大仏様特有の繰形が施されていて、重源による伽藍再興当時の修理であることが一目瞭然です。

斗栱・蟇股・化粧屋根裏構架・蟇股
    

板蟇股変遷
 
⑤ 法隆寺金堂上層高欄「奈良前期」 ⑥ 法隆寺金堂割束詳細 ⑦ 法隆寺東大門(奈良後期) ⑧ 唐招提寺講堂(奈良後期)
⑨ 転害門蟇股見取り図・正面図(奈良後期) ⑩ 法隆寺伝法堂蟇股見取り図、正面図(奈良後期))⑪ 唐招提寺金堂・堂内陣蟇股

五百立神社(いほたち)
東大寺南大門から大仏殿に向かって北へ100mほど進んだ左手の丘(五百立山)の麓に鎮座しています。
創祀年代は不詳。式内社・五百立神社に比定されている古社。1056年や1108年の東大寺要録にも名が記されているようです。
朱の鳥居の奥、朱の垣に囲まれた小さな祠です。
  
東大寺造営の五百人の木匠を祀るとも言われ、「番匠(ばんじょう)社」と称されるとか。。

手向山東照宮
       
東大寺東照宮は、将軍家元禄13年(1700年)に幕府への恭順の意思を示す意味も込めて東大寺に設置され、その後焼失と再建を経つつも徳川将軍家の神様として長い歴史を歩んできましたが、江戸時代の終了とともに幕府の神様としての「東照宮」は不要となったため、このようにかつての東大寺鎮守社である手向山八幡宮に移設されたものとなっています。
現在でも社殿には徳川家を表す「三つ葉葵の御紋」が残されており、奈良では少し貴重な「江戸時代」を感じられる空間になっています

これより、東大寺境内の蟇股巡りをします。
境内図 全体と最初のコース 南大門からです・
  

1199 南大門 国宝 再建:1199 五間三戸二重門 入母屋造 本瓦葺 兵庫の浄土寺浄土堂とともに重源が採用した大仏様建築の代表的な遺構です。
    
南大門は東大寺の正門で、正面の参道から門を通して遥か北方に中門と大仏殿の姿が望まれます。
初層・二層とも通肘木が三段宙に浮いた形で入って組物を強化しています。下から上まで一本木の柱は長さ19.2m、現存建築物中で最も長いです。

   
最も目立つ大仏様の細部は挿肘木の組物。九段と思える肘木が前方に向かい三角形状の輪郭で突出しています。雄大で力強いです。
上層では正規の三斗組で側桁を支えるので中備を用いています。

     
中央三間は板蟇股の上に持ち送りと遊離尾垂木を載せた大仏様特有の補強材が組まれている。
上部の架橋は大斗に大虹梁を渡し、板蟇股と二重虹梁を置くという、二重虹梁蟇股式を用いています。板蟇股は見えにくいです。

真言院 中門へ向かう左側に、土塀で囲まれた真言院と勧学院がります。土塀の南門が真言院の表門、東門が勧学院の表門となっている。
        
弘法大師空海が創建した東大寺塔頭。810年空海が東大寺別当に就くと、南院(真言院)を建立し、822年に灌頂道場を開いて真言院の開創とされます。
空海の在任は4年間であったが、この真言院が南都での真言宗拠点となったといわれている

中門~東西回廊~東西楽門~金堂
これらは一体をなすもので、その興亡を常に共にしたものであることから、大仏殿院として一括します。大仏殿前方には廻廊が広くとり囲み、正面に中門、東西の南寄りに楽門が設けてあります。

1714 中門 国重文 建立:1714 五間三戸楼門 入母屋造 本瓦葺
     
この門は大仏殿正門としてふさわしい風格を持っています。板蟇股を用いて天井材を受けていますが見ることが出来ません。

東西楽門 国重文 三間一戸八脚門 切妻造 本瓦葺 東楽門:1722年建立 西楽門:1719年建立
 
正背面の組物中間に板蟇股を用いています。内部は大虹梁板蟇股様式、破風先端に禅宗様に類する繰形を付け、蟇股・虹梁など細部は全て時代の特色を表わしています。

1738 東西廻廊 国重文 建立:1738各桁行折曲り延長四十一間 梁行一間 一重 本瓦葺
     
中門両脇から東西に出て折曲り、楽門を挟んで大仏殿側面前端の間にとりつく。東西軒廊の両妻は切妻造で、頭貫中央に板蟇股を置き、大虹梁を架け、その中央にも板蟇股を載せています。大仏殿落成供養後、中門から建てはじめました。

手水舎(井戸屋形) 大仏殿の前に建っています 1737年に廻廊の残材を使ってこの時初めて建てられました・
     

大仏殿院は天平創立後、治承の兵火で焼け、重源によって再興されたものも永禄の兵火で焼亡し、現在の建物は江戸中期の元禄から宝永にかけて再建されたものです。

1705 金堂(大仏殿)国宝 再建:1705 桁行五間 梁行四間 一重裳階付 寄棟造 本瓦葺 正面唐破風付 銅板葺 世界最大規模の木造建築
     
再建は1688年に着工。設計は京都の大工頭中井主水。創建以来の規模を踏襲する計画でしたが資金不足で、桁行を十一間から七間に縮小されました。
奥行、高さは創建以来の規模。正面に以前無かった唐破風が付きました。明治修理時に柱や組物、小屋組が鉄骨で補強され、大棟の鳥衾(ふすま)は鴟尾に取り換えられました。

唐破風下の観相窓 細部
      
内部
      
江戸中期に再建された大仏殿は桁行が十一間から七間に縮められましたが、梁行は創建以来の規模を踏襲し、高さも元の儘です。
現在の大仏殿の軸部の構成は、鎌倉再建の第2期大仏殿の構造に倣って、貫材(横木)が何段も柱を貫き通すことで、柱と柱を連結する「大仏様式」が採用されています。柱は内陣柱は径1.5m、高さ30mもあります。大木の調達が不可能なため、芯木を3^4本継いだ外側に断面扇形の板を桶巻きに張りつけ、鉄釘堵銅帯で締め固めて一本の柱をつくっています。

大仏殿前の八角燈籠(国宝)は創建当時のものです。

指図堂 建立:1852年重源は法然の推挙で大仏復興の大勧進職となりました。この堂に復興大仏殿の指図(設計書)を納めたことからその名がつきました。
 
    

平重衝による南都焼打が行われ、東大寺や興福寺が壊滅的な被害を受けました。復興に指名された重源上人が大仏殿を再建する図面(指図)を収蔵するお堂として使われました。それに由来して「指図堂」と呼ばれました。その後、法然上人ゆかりの霊場として用いられています。

勧進所 
   1
大仏殿西側の塀で囲まれた一画で、東側の門を入ると左手に公慶堂、その近くに阿弥陀堂、八幡殿、経庫などがあります。
江戸時代に大仏・大仏殿などを復興するために尽力した「公慶上人」が復興のための「勧進(寄付などを募ること)」の拠点とした場所です。

1733 戒壇院戒壇堂 県指定 再興:1733 桁行三間 梁間二間 一重裳階付 寄棟造 向拝一間 本瓦葺
          
754、聖武上皇は光明皇太后らとともに唐から渡来した鑑真から戒を授かり、翌年、日本初の正式な授戒の場として戒壇院を建立した。
戒壇堂・講堂・僧坊・廻廊などを備えていたが、江戸時代までに3度火災で焼失、戒壇堂と千手堂だけが復興された。

これから先のコースです。
 


1199 法華堂 (三月堂) 国宝 建立:1199 桁行五間 梁行八間 前部入母屋造 後部寄棟造 本瓦葺
  
法華堂は東大寺よりも以前にあって、後東大寺境内に移されたようです。現在奈良市内で最古の建物です。
当初は、正堂と別棟の礼堂が前後に並び建つ双堂(ならびどう)形式の仏堂であったと推定されています。
創建以来火災に遭うことも無く正堂部分は天平時代の建築を残しています。現存の礼堂は、1199年に重源により新造されたものです。
現在の建物の前半は四注造、後半は妻を正面に向けた入母屋造で、奈良時代と鎌倉時代、二時代の建築様式が比較できます。

蟇股 礼堂内部架橋
     
内陣折上組入天井下に架した虹梁の上に用いられています。板蟇股は簡単かつ優美な輪郭を有志、唐招提寺金堂の物と似ています。
外部からは見えません。「奈良六大寺大観」より抜粋したものを並べます。

1335 法華堂手水屋 国重文 建立:1335 桁行七間 梁間四間 一重 切妻造 本瓦葺 
 
法華堂東隣に建っています。現在の建物は前身建物の古材を多数使用して再建されました。

1240 法華堂北門 国重文 建立:1240 一間一戸 四脚門 切妻造 本瓦葺 鎌倉時代の四脚門の一典型
      
二月堂に至る参道登り口の門のように見えますが、法華堂の北門です。建立年代は板蟇股や組物・木鼻などの様式から鎌倉時代中期とされます。
板蟇股は両妻の虹梁上に用いられています。肩幅を狭めて足元を軽快に広げ、安定感のある力強い形です。
他に、正背面の組物の中備に用いられている板蟇股があります。 足元の繰形は小さく反転曲線と円弧を組み合せ、先端を斜めに切り落とした形としています。

1681 三昧堂(四月堂) 国重文 再建:1681 桁行三間 梁間三間 二重 寄棟造 本瓦葺
  
1021年に創建して法華三昧を行った記録がのこります。再建当初は宝形造でしが、1706年に寄棟に改造されました。
柱、組物、桁、長押、隅木、垂木、浅唐戸 連子窓など、鎌倉時代に遡る古材が見られます。

二月堂に隣接してある二月堂手水舎と飯道神社の蟇股
手水舎 龍野彫刻が素晴らしい 蟇股も見栄えします
    
多くの蟇股が描かれている。これらは東大寺初代別当の「良弁」の生い立ちを表わしているともいわれる。
    

飯道神社 手水舎の直ぐ近く、二月堂の裏側にある。鎌倉中期に存在していた。滋賀・甲賀の飯道神社を勧請。眺望良好
   

1669 二月堂 国重文 再興:1669 桁行十間 梁行七間 一重 寄棟造 本瓦葺 創建:752年 現在の堂は1667年修二会中に焼失、再興されました。
      
二月堂は旧暦2月に「お水取り」の名で行われる修二会が行われ、修二会は奈良時代創建以来絶えることなく毎年継続されています。
建物前半を懸造とし、挿肘木で縁を支える外観は印象的で、材料、施工にも優れています。高い場所にあり、本尊が直接岩盤上に建つ礼堂を建造するのは観音堂の特性とされます。礼堂正側面二間通り吹放し 和様を基調としながら大仏様・禅宗様を巧みに取り入れています。

二月堂北の茶所
   
二月堂の北側の登り廊を上り詰めた左側にあります。

二月堂仏餉屋(御供所) 国重文 建立:鎌倉前期 桁行五間 梁間二間 一重 切妻造 桧皮葺
 
修二会の際に飲食を調理する台所 大仏様木鼻や鼻隠板など大仏様の手法が見られます。

二月堂廻廊 国重文 建立:江戸中期1699年 初代は752年(天平勝宝4年)頃とも
   

二月堂参篭所 国重文 建立:1277~82 桁行十間 梁間四間 一重 切妻造 本瓦葺
 
修二会期間中の僧侶たち(練行衆)の宿所です。北五間が宿所 四間が食堂 一間は二月堂への登廊に通じる馬場です。

閼伽井屋 国重文 建立:鎌倉時代 桁行三間 梁行二間 一重 切妻造 本瓦葺
    
二月堂の麓に、二月堂仏餉屋(ぶつしょうや)、参籠所、湯屋(いずれも国重文)ともに建つ二月堂の付属屋
修二会に際し、二月十二日(現在は三月十二日)から翌十三日にかけての深夜にこの閼伽井水が本尊に供えられます。一般には公開されない秘所。
構架は妻・内部共に虹梁を設け、中央に板蟇股を置き、斗・実肘木・で棟木を受け、軒は一軒繁垂木です。

二月堂湯屋 県指定 再建:1661~73 桁行九間 梁間三間 一重 切妻造 本瓦葺
 
修二会用の浴室です。

 開山堂 国宝 再建:内陣1200 外陣1250 桁行三間 梁行三間 一重 宝形造 本瓦葺 創建1019年
      
開山堂は良弁僧正の影像を安置する堂。良弁は東大寺初代別当に補せられ、開山として尊崇されています。堂は花崗岩壇上の基壇上に建っています。

大湯屋 再建:1408 国重文 桁行八間 梁行五間 一重 正面入母屋造 背面切妻造 妻入 本瓦葺 創建:764年
     
奈良時代の創建、1180年の兵火で焼失、重源が復興した。 さらに1239年に大改築 湯船は鎌倉時代 建屋は室町時代 1408年にも修理
風呂屋形は全面を唐破風とした切妻造で、妻飾りは虹梁蟇股式である。

鐘楼 国宝 再建:1207~11(承元年間・鎌倉時代前期) 桁行一間 梁行一間 一重 入母屋造 本瓦葺 現在の鐘楼は鎌倉時代の再建
    
再建は重源に次いで第2代の東大寺大勧進職となった栄西による再建です。栄西は禅宗の開祖といわれ、わが国禅苑の最初である博多の聖福寺をはじめ、京都の建仁寺、鎌倉の寿福寺など初期の禅宗伽藍を数多く営みました。しかし彼が建立した建物で現存しているのは東大寺鐘楼のみです。
梵鐘は752年鋳造のものです
板蟇股
     
大虹梁上に据えた扁平な形の板蟇股と持送りは大仏様繰形を持った独特の形式です。
 
念佛堂 国重文 建立:鎌倉時代 東大寺では珍しい朱色彩色されています
   
1180年(治承4年)の南都焼討で先陣を勤めた阿波重能らの罪を救うため、重源の発願で造立されたもの。

俊乗堂 建立:江戸時代
   
行基堂 国重文 建立江戸時代:
         

≪余 録≫
法隆寺や東大寺の建物を見ながら、建立に当たった大工や使われた大工道具に思いが行きます。それらの歴史にも興味が残りますがとても時間が足りません。
関連情報を少し並べます。
法隆寺の建立に使用された道具類は殆ど残っていないようです。昭和の初めに法隆寺西院伽藍の修理が行われた際、古材に残された大工道具の刃の痕跡が道具の種類、形状、使用法などを推測する手掛かりとなったとされます。その蝶さによると、主に使われた道具は,ちょうな・鑿(ノミ)・ヤリガンナ・鋸(のこぎり)で、一部に斧の痕跡も残されていたようです。
 
ヤリガンナ 正倉院ヤリカンナと奈良のヤリカンナ
  
槍のように長い柄の先に、やや反った柳の葉あるいは剣状の両刃の刃を取りつけ、これで材の表面を削り取ります。ヤリガンナは古墳時代から古代・中世を通じてのカンナでした。
法隆寺も唐招提寺も、平等院の鳳凰堂も、鎌倉時代の東大寺南大門も、すべてこのかんなで仕上げさられました。台ガンナの普及で姿を消しました。奈良のカンナは法隆寺大木、西岡常一さんが使っておられたもので、金堂再建の時、古制に基づき復元制作されたものです。

法隆寺献納宝物―ノコギリ 現在は東京国立博物館構内の法隆寺宝物殿に秘蔵されています
 
ヒノキの柄を含めた全長約65cm、露出の鉄部分全長約27cm、鉄部は柄のもとでの幅66mm、先端で37mm、17枚の歯が刻まれています。歯先での厚さ約2.5mm
日本の木工具の遺品の中の王者とされます。由緒正しい伝世の経路、堂々たる風格、まさに王者の風格、王者の名にふさわしいとされます。伝世品として日本最古の道具です。

すみつぼ
『日本書紀』の雄略天皇と工匠との逸話にも見られるように、スミツバは古くから使われており、スミナワは設計者・デザイナーとしての大工の本領発揮の道具とされて来ました。
サシガネ(曲尺)と共に大工の最重要の設計用具であり、縁起物とされてきました。歴史も古く、社寺には儀式用のもの多く奉納されています。

正倉院のスミツボ 日本最古で二挺あります 奈良時代に今日のスミツボの形が完成していたとされます。
  
東大寺大仏殿の上棟式752年)使われた大きい方で、長さ29.6cm、幅9.4cm、高さ11.7cmの竜頭舟加太で、漆塗り花模様があります。(銀平脱竜造船墨斗)
もう一つは、長さ4cm、高さ2cmの小型の豆スミツボです。(紫檀銀絵小墨斗)

東大寺のすみつぼ
写真88
銅板に金メッキ、上品な唐草紋 尻割れ型、猪の目(ハート型),下げ振り用の金鐶 1688年の東大寺大仏殿の着工式(ちょうな始め)の儀式につかわれたもの

忘れ物のスミツボ 現存する大工道具の中での最貴重品 実用品であったこと、実用品であった美しさを発揮している所に価値が大きいです。
  
東大寺南大門梁上から発見されたもの(1879年 明治12年 東京芸術大学蔵)重源が再建した後、松永久秀の乱で焼けた後、公慶上人が1705年に再々建した頃のもの
二つに割れた尻、その地からに溢れた曲線、先と狩りの舟形、やや底が開いた見事な安定感、花梨型の墨池 全長22.5cm、

東大寺の儀器のサシガネとチョウナ
  

国宝の大工道具 東照宮の儀器
  
日光東照宮の社殿と密接な関係があるという”付けたし”の指定です。 

東大寺転害門の蟇股 一人で全部造ったものでない証し
 
下から見ると同一見えますが異なっています。高さの違い、同じ高さとしても納まらないので割り取った様です。中央宝珠型の窪みも違います。

参考文献 大工道具の歴史 道具曼荼羅 道具と日本人 道具と手仕事、ほか



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