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Monthly Web Magazine (Aug.1, 2009)

■■■ 『町野修三さんの短歌など』 野崎順次

町野修三さんは大学時代のバスケットボール部の先輩である。

むこうは一浪、こちらは現役だったので、二つ違いのはずが、大学では一つ違いだった。

大阪府立高津高校時代は、西日本で知らぬもののいないバスケットのスーバースターだった。

身長は176cmと低めだが闘争心と策略力に優れ、ドライブンインの早さ、中長距離のシュート力、リバウンドの駆け引きのたぐいまれなきずるさ、など、個人能力に優れていた。

当然のことながら、有名私立大学から推薦入学の勧誘もあったが、そのようなアドバンテージを好まず、一浪して、近くの国立大学に来た。

家業は染色工場で忙しいときには練習に出てこず、試合の直前に青く染まって手で現れ、大活躍した。

大学卒業後、高津高校OBが心斎橋の宝石店「尼伊」の名前を使って、実業団バスケットボール・チームを作り、町野さんも(高津OBではない)私も参加して、1970年代半ばから1980年代半ばまで、大阪府で試合をしていた。

メンバーのほとんどが中小企業の後継者だった。

仕事とバスケット以外で、町野さんは万葉集、特に大伴家持の研究者であり、歌人であり、長唄を習い、多くの女性を愛した(らしい)。

健康面から見ると、バスケット用に安定のよい胴長短足だったが、不自然なストレスがかかるのか、晩年、腰痛に悩まされた。

また、高校以来のヘビースモーカーのためか、2002年12月、59歳で肺ガンで亡くなった。

一人の奥様と3人のお子様がおられ、すべて女子である。

男子が産まれなかったのは、何となくご家族の幸運だったと思われるほど、恐い頑固親父だったようである。

町野さんは1992年3月に「大伴家持論1」を短歌新聞社より自費出版、2002年8月に「歌集ダンディスト」をデジタルパブリッシングサービスより自費出版した。

特に晩年の彼の短歌は、洒脱ながら、思わずニタリとしてしまう味がある。次の作品は、歌集ダンディストからの引用である。

見つかればこの世の終わりというほどの秘密も失せて老いたる夫婦

「かしこ」という言葉で終わるメールあり捨てたふりして秘匿しておく

耳鼻科で待つついでに眼科に申し込む耳鼻科と眼科は眼と鼻の先

禁煙を指示され飴など舐めいたる友は血糖値の新記録樹立

忙しいことが自慢でよく喋るこのオバチャンには逆らわず居る

肺ガンになったのが分かったのは、亡くなる3年くらい前で、家族以外には誰にも云わなかったので、こちらも知らなかった。

その2年くらい前に久しぶりでマージャンをしたが、驚くほど勝負弱くなっていた。

その後、横浜に肺ガンの名医院か特効薬があるというので、定期的に行っていたようである。

亡くなる数ヶ月前にも関東に行ったようで、おのれの体力の衰えを茶化しつつ、首都圏の高年者用設備の遅れに怒っている。

浅草は心優しい駅にして萎えたる足を鍛えてくれる

階段の手すりたよりにばあちゃんの降り行く地下の駅の深さや

エスカレーターの備え無き駅多くして足弱き吾には辛き東京

浅草の仲見世という名どころに来るには来たりもう疲れたり

弱者への配慮はあらずそれはそも首都は強者の都市であるゆえ

東京へ来てたちまちに逃げ帰るおお騒がしいビルのはざまや

「しょーむない」小咄も作っている。その「鳥編」から、少しばかり、

● 年増ツバメ

 花子: まだ若いツバメを飼ってるの?

 年増ツバメ: そう、私のイロよ。

 花子: 楽しそうね。

 年増ツバメ: 人生のイロドリよ。

● 鵜

 鵜: わたし、仲間の鵜とケンカしてね。

 花子: それで?

 鵜: 鵜を鵜呑みにしたの。

 花子: どうなさったの。

 鵜: 吐き出さされたわ。

 花子: ウショウー!

 

※ウショー(嘘)とウショウ(鵜匠)のシャレ。分かって下さーい。

● 四十雀

 四十雀: 肩も腰も痛むようになってね

 花子: 何時からなの

 四十雀: シジュウカラ

● カナリアとホトトギスとキジ

ホトトギス: よく来れたね。どうしたの。

カナリア: 歌を忘れたふりをしたら、捨てられて自由になったの。

ホトトギス: いいなぁ。私もその手を使ったけど、泣くまで待たれてどうしょうもないの。

キジ: 二人とも贅沢ね。私なんか鳴くと撃ち殺される。

さらにご興味あれば、「町野修三」で検索されたい。未だにいろいろ出てくる。

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