Monthly Web Magazine (Oct.1, 2009)
■■■ 「あのころ、大地震があった。 1月17日」 野崎順次
この地震の正式名称は、「平成7年(1995年)兵庫県南部地震」で、それによる大規模災害を「阪神・淡路大震災」と呼称することが2月14日の閣議で了解された。
だが、僕にとって「阪神大震災」が最も慣れた通称である。
それは生まれてずっと尼崎北部に居住し、小学校から大学までが神戸市東灘区・灘区の直径2キロの範囲内にあったことや、
地震直後の2ヶ月間に、尼崎市の自宅から神戸(中央区〜須磨区)に自転車で7回出かけて、阪神間の被害を注視したからだ。
その頃はフィルムカメラだから、倹約しつつ36枚撮りで約40本撮影した。
撮影してから馴染みの梅田の写真屋さんでプリントアウトして大型スケッチ帳に張りつけた。
いつか、この経験が穏やかな記憶に変わって、「あのころ、あんなことがあったんだねえ」
と云える日が来ればいいなあと思って、その写真帳のタイトルは「あのころ」としてそのまま本棚の片隅に入れた。
あれから、十数年が経過し、大地震は身の回りでも身内や友人の人生を大きく変えてしまった。
表向きは神戸も復興したが、未だに残る空き地とともに、あの大地震は多くの人々に心の傷を残した。僕もそれから免れない。
阪神大震災にかかわる小説として、村上春樹の短編集「神の子どもたちはみな踊る」がある。
彼は阪神間の生まれで高校まで住んでいた。僕と同じ高校だった。その頃の自分をあまり明らかにしていないが、あまりハッピーではなかったようである。
その彼が東京で阪神大震災のニュースに接して複雑な感情を抱いたことが分かる。
短編集では地震のことが遠い出来事で話の主流とは関係ないように書いているが、実は地震の記憶(遠くから注視している)が大きなモチーフになっていることが分かる。
まだとても穏やかな記憶ではなく、傷口に塩をまぶすような感があるが、僕の個人的な記憶とデジタル化した写真を残しておきたいと、考えるようになった。
写真の一部をセレクトしてみた。
大地震の前日、僕は独りで六甲山のハイキングに行った。谷筋のトウウェンティクロスから摩耶山に登ったが、妙に空気がクリアで、大阪湾が見渡せた。
新神戸付近の街は穏やかだった。大破壊の17時間前である。
1995年1月17日午前5時46分、前夜は珍しく深酒をしてなかった僕は鋭い振動で目覚めた。
大きな縦揺れ横揺れの記憶はない。濡れた犬が全身の毛から水分を飛ばすような鋭い振動だった。
僕のベッドの直ぐ横に和箪笥があり、その上にガラス戸の入った上置き(60kgくらい)があるが、それが2mくらいすっ飛んでベッドの足もとに来ていた。
尼崎市や大阪市西部の震度は4〜5度と軽く云われることがあるが、重い家具やブラウン管方式テレビが上下に1m、左右に2m位吹っ飛んだ話は多い。
当たり所が悪ければ即死で、実際にそういう人も多い。
携帯電話は混雑して使えなかった。
携帯ラジオを聴きながら、表に出て、近くに住む両親の無事を確認した。
幸い無事だが、母の寝室など、怪我しなかったのが不思議なくらい家具は倒れていた。
すぐ前の家は外壁のモルタルが剥がれ落ちていた。
屋根の重たい寺社の被害が大きい。
また、自宅から150m程のマンションの1階が坐屈していた。
携帯ラジオが阪急伊丹駅が崩壊していると告げているので、そちらに向かった。
その帰途、野間あたりで新幹線の高架軌道の崩壊を見て驚いた。
地震発生がこんな早朝ではなく、昼間だったらどうなったろう。
それにしても、すぐ横のガラス張りのカーショップは全く無傷だった。
このように地震発生当日は尼崎北部と伊丹南部の被害を見た。
いずれも武庫川の東側である。
西側は震度7と判定された地域が広がり、高速道路が倒れ、橋が落ち、高校時代の恩師が梁の一撃を受けて即死された。
そのような状況を2日後に見ることになる。
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