Monthly Web Magazine (Dec.1, 2009)
■■■ 「倉敷仏間の額」 野崎順次
これは倉敷市の家の仏間で見かけた書である。
誰の書で、どうしてそこにあるのか、今まで分からなかった。
ところが、司馬遼太郎の「坂の上の雲」を読んでいて、日露戦争直前の英国公使として日英同盟締結に大きく寄与した外交官であったことが分かった。
林董(はやしただす)と読む。名前は菫に似ているが、草冠の下に重と書く。
1850年4月11日(嘉永3月29日)下総国佐倉藩の蘭医佐藤泰然の子として生まれ、後に幕府御典医林洞海の養子となる。
横浜ヘボン塾で学び、1866年幕命により英国に留学した。
帰国直後に榎本武揚率いる幕府脱走艦隊に身を投じ、函館で捕虜となり、禁錮に処される。
その後、英語力などが認められ明治政府に誘われ、外務大臣、逓信大臣など要職を務めた。
壬子(みずのえね、じんし)は1912年で、明治天皇が亡くなられた。
7月30日までが明治45年、それ以降は大正元年となる。
従って、壬子四月は明治45年4月である。ちなみに4月15日はタイタニック号が沈没。
貞風凌俗(貞烈の風、群俗を凌ぐ)は、「愚直なまでにおのれの生き様を首尾一貫させる節義の人物がよい」という意味合いで、次の中国古典に基づいている。陶淵明『夷齎』 読史述九章 ① 晋
二子譲国。相将海隅。 二子国を譲り,海隅に相将き
天人革命。絶景窮居。 天人命を革め,絶景に窮居す
采薇高歌。慨想黄虞。 薇を采り高歌し,黄虞を慨想する
貞風凌俗。爰感儒夫。 貞風凌俗を凌ぎ,爰に儒夫を感じせしむ伯の夷と叔の齎とが国主と為ることを互いに受けず,行動を共にし海隅に走る,この時に当り,殷と周とが戦い,殷が亡び,周が興る,夷齎の二人は君臣の道を説き諫しめるが用いられず,絶景の窮居に処す。
此の地で薇を采り食し高歌し,世の衰えるを悲しみ黄虞の世を慨想し,遂に餓死して周の粟を食はず,その貞烈の風,群俗を凌ぎ,千秋万古儒夫を感じさせる。
林菫は若い頃、落ち目になった徳川幕府を裏切ることなく、その残党とも云うべき榎本艦隊にあえて加わった節義を晩年までも大切に思っていたのである。
翌年の大正2年(1913年)に死去、青山墓地に眠る。
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