MONTHLY WEB MAGAZINE Oct. 2012
Top page Back number この子どもたちが将来、これらのすばらしい伝統行事を次世代に伝えてくれることを願います。
■■■■■ 妙吉塚 田中康平
会社の勤めを9月末で終えて、ひとまずのんびり過ごしている。
何故か住まいのある宇都宮の近くを散策することが多くなって、この間は上戸祭にある妙吉塚というところを訪れてみた。
よく訪れるホームセンターの先に道がうねるように曲げられたところがあってそこが妙吉塚だ。
通るたびに何だろう邪魔な曲がりだと気になっていた。
昔からの塚で道路整備でも遠慮して移動させなかったものと見られる。
小さな一里塚のような盛り土の上に宝篋印塔が安置されている。
補修跡があまり美しくないが道を曲げるくらいだから由緒あるものなのだろう。
塔には至徳四丁卯 八月の字があるというがよく読めない。そのままなら1387年になる。かなり古い。
戻ってネットで色々調べてみると、太平記で活躍している妙吉という僧と関連があるようだ。
太平記は創作を歴史に織り交ぜていて、この妙吉のモデルとなった僧は大同妙哲(妙喆)という、夢窓疎石の弟子で京都で足利直義の周囲にいた人物とみられ、1349年に高師直の引き起こした乱で京を逃れ縁のあった下野まで至り1349年 62才で没した。
宇都宮徳次郎の伝法寺に墓があるという。栃木には大同妙哲の創建したとされる妙雲寺、同慶寺、伝法寺の寺があり実在の人物のようだ。
太平記の中の妙吉は、太平記の注釈論評の書である太平記評判によれば、逃走した同じ年に捕縛されそうになり自害し、その首が高師直のもとに運ばれ獄門に晒されたことになっているという。
いずれにしろこの話にからんでこの地に塚が作られたようだが、墓ではなく後に建てられた供養塔だったのではないかと思われる。
そこにも何かいにしえの創作の匂いがして面白い。こうやって口伝による歴史とおはなしは作られていくのだろう。
妙吉塚の傍らには妙吉子育安産高地蔵尊というお地蔵さんがあるが、ここにも奇妙な話が伝わっているようだ。
昔、戸祭村にいた身の丈10尺の大男がその背丈を残そうと10尺の石柱を立て、その前に座高を示す5尺の石塔を置いたといわれており、お地蔵さんの後ろにある石の柱がそのどちらからしいのだが、そもそも10尺の身長とはありえない話で全体が奇妙な雰囲気に包まれている。
妙吉の話にしても今となっては何が本当かは大したことではなく、事実の重みが薄れているのが面白い。
本当のことは伝わらないのだろうし怪しい話を含めたふわふわした全体が今となっては本当のことなのだろう。
本当の話はその時代の人々の胸の中にあっただけで十分なのかもしれない。
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