MONTHLY WEB MAGAZINE Oct. 2013
■■■■■ 東京オリンピック1964 野崎順次
東京オリンピックは1964年10月10日から24日まで開催された。史上初めて、アジアで、有色人種国家で行われた夏季オリンピックだった。私は神戸の大学1年生で、学校の授業にはあまり出なかったが、バスケット部の練習だけは休まなかった。ところが、関東の親戚筋から我が家に入場券が2枚回ってきた。父や兄は都合がつかず、私だけが東京へ観戦に行くことになった。特例としてバスケット部のキャプテンが休部(といっても1週間足らず)を認めてくれた。
いろいろ調べてみると、どうも10月20日から24日まで東京に滞在したようで、目黒の親戚の家に泊めてもらった。ヱビスビールの工場のすぐ下で、近くに高松宮様か三笠宮様の邸宅があり、目黒駅から歩いた時は、山手線をまたぐ「アメリカ橋」を渡った。ビール工場のすぐ下にしっとりとしたいい坂道があり、映画のロケにも使われていた。女子高生と女子大生のいとこがいたが、お互いに思春期だから意識してあまり話をしなかった。
東海道新幹線はオリンピックに合わせて同年10月1日に開通している。「ひかり号」は大阪東京間を4時間で走り、それまでの特急つばめを2時間半短縮した。私も新幹線に乗ったらしいのだが何も覚えていない。
私が最初に見たのは女子体操の予選だった。女子体操の競技期間は18日から23日までだったから、私が行ったのは20日前後だろう。当時の女子体操選手はまだ少しふっくらして女らしい体の線が残っていたのをよく覚えている。平均台や跳馬で金メダルを取ったチャフラフスカなど有名選手は見られなかったが、北欧の無名選手のハッとする容姿にハッとした。これより後の世界女子体操界は、幼い少女の軽業師的な演技が主流となっていく。
次に見たのが、10月23日の女子バレーボール決勝だった。大松監督率いる「東洋の魔女」女子バレーチームは、主力選手が日紡貝塚所属で、2年前の世界選手権で日本の団体競技としては初めて世界大会で優勝した。その後、大松監督と選手はいったん引退を表明した。しかし、東京オリンピックから女子バレーボールが正式種目となったため、引退を撤回した。彼らは順当に勝ち進み、決勝でも宿敵ソ連チームに勝利して金メダルを手にした。日本国民はこの試合に熱狂した。私は体育館の最上段近くで、試合を見下していた。それほど興奮しなかったような記憶があり、若い生意気盛りでクールぶっていたのかもしれない。でも、この試合をこの目で見たということは、その後、一生の自慢話になった。
世界一速い男、陸上男子100mの金メダリストは、アメリカのボブ・ヘイズで、記録は10.0秒だった。身長を調べてみると普通の180㎝だが、短距離選手にムキムキの大男が出てきたという印象が強かった。ちなみに、当時、関西学生バスケットボールで一番の大男は四国の山奥から来たという大阪商業大学の選手で、あだ名が「ヘイズ」だった。
男子柔道も東京オリンピックから正式競技となり、軽量、中量、重量、無差別の4クラスだった。「柔道は日本のお家芸」といわれ、全て金メダルが取れて当たり前と考えられていたが、最も重要視されていた無差別級決勝で神永昭夫がオランダのアントン・ヘーシンクに敗れた。これは日本柔道界にとって大きな衝撃で、後々まで語り継がれることになる。20年以上後になって、私は仕事でオランダに1週間滞在した。英語があまり通じない国だが、「柔道、ヘーシンク」などと口走ると、その頃でも未だ人々の反応が強かった。ある立ち飲み屋で隣のおじさんに同じことを言うと、その人の連れが「アントン・ヘーシンクの弟」だという。弟さんと握手して乾杯して一同盛り上がったが、真偽のほどは未だにわからない。
男子マラソンでは、金メダルのアベベ・ビキラと銅メダルの円谷幸吉の走る姿は目に焼き付いている。もちろん、テレビで見たのだが。哲学者のような風貌で独走したアベベは、その後、自動車事故で下半身不随となり、9年後に41歳で亡くなった。円谷は4年後のメキシコオリンピックの年の初めに「父上様母上様、幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。」の言葉を残して自ら命を絶った。二人の冥福を祈りたい。
次の東京オリンピックは7年先2020年の真夏に開催される。私が生きているかどうか分からない。元気でいても、東京に出かけて酷暑の人ごみに耐えるなんてとてもできない。
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