MONTHLY WEB MAGAZINE Dec. 2013

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■■■■■ 我楽多会(がらくたかい) 野崎順次 

われわれは兵庫県立神戸高等学校を1964年に卒業した。団塊の世代の直前である。男女共学であるが、旧2年4組(担任は木村先生)の男子有志の集まりである。今や、年齢は67〜68歳、現在のメンバーは19名である。今のところ、物故者はいない。

高校3年になると大学受験の準備に専念しなければならないから、2年の秋に瀬戸内海を西に修学旅行に行った。その楽しい濃密な経験を共有する仲間である。田畑君、大西君と私が、近くの同じ大学に進学し、しょっちゅう行動(酒とパチンコ)を共にしていたのが始まりである。かなり早い段階から、我楽多会の名前が使っていた。由来は単なる思い付きで、語呂もよかった。夏休みなどには関西の他のメンバーが加わって、7,8名になった。

■大学時代のエピソード

夕方に一升瓶と薪を買って、神戸港第2突堤に出かけた。寄り添うアベックを追い出して、火を焚いて酒を飲んで踊った。また、応援団風に「フレー、フレー、ガ・ラ・ク・タ」などと叫んだ。

小舟君のおばあちゃんの家が富山県の海辺(氷見あたり)にあり、夏休みに泊まりに行った。ムンムンする田んぼの中に直線に伸びる農道を歩き、小さな丘を越えると海水浴場があった。この風景が妙に頭にこびりついている。夜はいつも酒盛りであった。

坊岡君のおばあちゃんの家は和歌山県御坊にあり、やはり、夏休みに遊びに行った。私が酔っぱらって夜の海に飛び込んだ時は、全員で助けてくれた。最後まで、酔いつぶれなかった大西君と武部君は、風呂でついに倒れ、朝まで真っ裸で寝ていた。

沖縄返還や海外旅行ブームの前である。南西諸島、特に与論島には関東の女子大生がたくさん押し寄せ、開放感のあまり理性を失いやすいとの怪情報があり、田畑君、大西君、武部君と私4人で出かけた。大阪から鹿児島までは急行列車の通路に座り込んで、花札を打ち続けた。船に乗り継いで、島伝いに南行し、荒海の中で小舟に乗り換えて与論島に着いた。夏とはいえ、天気が悪く、女子大生など皆無であった。

■20代の悲しいこと

大学を卒業して半年で私は結婚した。仲人にはわれわれ2年4組の担任だった地理教師の木村先生をお願いした。ご夫婦そろってお忙しい中を真摯に努めていただいて、ひどく疲れさせてしまったことを覚えている。先生のお宅にはみんなでよく伺ったものだった。その数年後に先生は自ら命を絶たれた。他高校に移られ、厳しい状況下で教頭先生の職務に奔走され、うつ病になられたのだった。突然の悲しい出来事であったが、最終的には我楽多会の絆を深くしたと思う。

■それから

小畠君は銀行に就職しスペイン語研修でメキシコに派遣されたが、現地女性と恋に落ち、銀行を辞めて当地に留まった。八巻君は北海道の大学から当地の大企業に採用され、めったに関西に帰ってこなくなった。クラスの委員長だった小舟君は建設省に入り、国内各地の勤務、横須賀の研究所を経て、海外工事を担当するようになった。など、など、それぞれ人生の多忙な時期を迎え、我楽多会はしばらく途絶えた。

そのうち、やはり海外勤務が続いていた田畑君が、年末や期末(3月)に帰国するたびに皆で集まろうと声をかけてきたので、年に1,2回集まるようになった。

晩年になって暇ができたせいか、旧クラスメートの参加希望が増えた。

■今年は元町のちゃんこ屋で

今年も11月末に神戸JR元町駅前のちゃんこ屋で集まった。前述の通りフルメンバーは19名であるが、3名が欠席した。闘病中の桑田君(脳腫瘍末期)、昨年に欧州3千キロサイクリングを達成した夏目君は自宅で骨折、中野君は急な会社の会合のためだった。しかし、メキシコの小畠君、イラクの海外工事の合間に帰国した小舟君、北海道の八巻君が出席した。

出席した16名のうち、癌の経験者は6名(前立腺3人、食道、甲状腺、喉頭各1人)である。もちろん、完治しているが、比率的には三分の一を越える。そういえば、ここ10年くらいは病気の話題が増えてきた。奥さんや孫など身内の話がほとんど出ないのは男の気楽さであろう。色っぽい話はしばらく聞いたことがない、としておこう。

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