Monthly Web Magazine August 2014

Top page Back number


■■■■■ 母の介護、そして 川村由幸

故郷で一人暮らしていた母が入院したのが昨年の11月。

それまでいくら同居を勧めても頑として受け入れず、一人暮らしを続けていた母でした。

我々夫婦にとって、すでに家内の両親は亡くなっており、最後に残った親で心に懸かる親でした。

その母も七月末に突然旅立ってしまいました。享年85歳。

しばらくは葬儀やいろいろな手続きに忙殺され、ただただ時間に追われてましたが、亡くなって20日が過ぎ、落ち着きが戻り喪失感に苛まれています。

故郷の町の病院に入院したのは、雨戸をあけるときに頸椎を圧迫骨折したのが理由でしたが、後で聞いたことによると、入院は内科で整形外科ではなかったようです。

老人の圧迫骨折は痛み止めの治療以外なく、整形外科での入院はできなかったようです。

約二か月この病院に居りましたが、この間はいくらかは自分自身で動くこともでき、私たち夫婦もさほど深刻に考えることもなく、定期的な見舞を繰り返していました。

元々、私たちの誘いも拒み自宅での一人暮らしに固執していた母ですから、入院中も当然に早く自宅に帰ることを強く望みました。

在宅介護を手厚くしても、自宅で一人暮らせる状態であったのか今でも疑問が残っていますが、本人の意思が固く、今年の一月半ば過ぎに退院し自宅に帰りました。

ところが、一週間で又自宅で転倒し、救急搬送で元の病院へ。

これからがとても大変なことになりました。

病状は股関節骨折でした。ただ年齢から手術は困難らしくどうするかでトラブルとなりました。

病院側からは手術ができず痛みの治療をするだけなら、入院はさせられないすぐに介護施設に行くよう指示されました。

この話がされるまでもすでに4〜5時間、救急搬送された母はストレッチャーの上に放置されたままです。

ともかく入居する介護施設が見つかるまで入院を考えましたが、それも受け入れてもらえず仕方なくまずショートステイで受け入れてもらえる施設に入りました。

結局、7〜8時間、母は冷たいストレッチャーの上で痛みと闘いながらの忍耐を強いられました。

まだ難題は残っています。ショートステイで受け入れてもらえるのは四日間、そのうちに母の恒久的な身の振り方を決めなければなりません。

いろいろと考えましたが、家族での介護は困難との結論で入所可能な介護施設を探し四日の内に契約まで進めなければなりません。

当然、多岐に渡る十分な検討ができないまま、入所を決めました。

やっとのことで、長く入居できる施設に入りましたが、母は短時間の内にあちらこちらと移動したため環境の変化に適応できず認知症の症状はないにもかかわらず、譫妄が酷くて自分の所在が正しく認識でない状態で、当初はいささか手を焼きました。

その内、その施設にも慣れ、施設のスタップの皆さんとも気持ちが通じたのか穏やかでゆったりした半年を過ごすことが出来ました。

自宅で暮らしていた時にお世話になった方々も施設を訪ねて下さり、施設内で友達も出来ていて自分だけでの移動は完全にできなくなっていましたが、上手に時が流れているようでした。

私たち夫婦もそんな母を見て、一安心していたのもこの頃です。

ところが、7月中旬になって施設担当医から黄疸がでている指摘があり、施設近くの国立病院に入院、検査の結果、末期癌でステージⅣとの診断でいろいろと手を尽くしたものの、治療は緩和ケアーができるのみという状況でした。結果、入院後10日あまりでこの世を去ったのでした。

私と家内のふたりで最後を看取りましたが、眠るように静かな最後だったと思います。

入院してから、あまりにもあっという間の出来事で心残りがないとは言えません。

昨年の11月に入院した故郷の病院でも軽い黄疸は出ていました。いきなりステージⅣにはなりません。

その時に発見していればと考えるが当たり前、でも発見していて厳しい治療を行うことが母のためになったのでしょうか。心は乱れるばかりです。

こうして、私たち夫婦の最後の親が旅立ちました。

親の介護・老人医療の問題の一端を垣間見た私たち夫婦は、それを自分自身の問題でもあると理解しています。母が身を持って教えてくれたのでしょう。

今も喪失感を抱えています。これから私たちにできることは、母を思い出すことだけです。

合掌。


All rights reserved 登録ユーザ募集中