Monthly Web Magazine Apr. 2015
滋賀県日野町大窪の日枝神社春祭り「南山王祭」が4月4日に行われ、伝統の「ホイノボリ」が境内を彩り、満開の桜と華やかさを競いました。
ホイノボリは、日野町域の七つの神社の春祭りに奉納される特徴的な作りものです。先陣を切る日枝神社のホイノボリが春を告げます。
祭りが行われた日野町は、滋賀県の南東、琵琶湖の東南部、鈴鹿山系の西麓に位置する人口約22,000人の町です。
鎌倉時代から安土桃山時代にかけての400年は蒲生一族の城下町で、蒲生定秀が天文年間(1532〜54)初頭に町割りをし、鞍や鉄砲の製造を中心とした商業のまちづくりをしたところに現在の日野の原点があります。
蒲生氏郷が日野から松阪、会津へ転封となって一時衰退しました(松阪に同行した三井家が三井財閥の元祖です)。が、江戸時代に入り、近江商人の一角・日野商人を輩出し、日野椀や薬の行商をして全国へ進出、以後は商人の町として発展しました。この日野商人の財力が日野の文化形成に大きく寄与しました。
日野町域に伝承される祭りの中で、国や県の無形民俗文化財に指定されているものとして「ホイノボリの祭」・「日野祭」・「火振り祭」、そして「芋競べ祭」があります。いずれもその規模の大きさ、華やかさに特徴があり、日野の人々の経済性と文化性・進取性に支えられ、発展してきたものです。
南山王祭では、地元の人たちが五穀豊穣などを願って「ホイノボリ」と呼ばれる幟(のぼり)22本を奉納します。
この幟は高さ約5mの太竹の頂に幣または榊をたて、頂部より割竹を細く仕上げた長い竹ひごに、白やピンクの薄紙で作った花を飾り付け、48本の竹ひご(ホイ)を円錐状にたらすというもので、幟1本に約2000枚の花がついています。(昔は手染めで色付けしたため色むらが出来てそこにも味があったようです)
ホイはしだれ桜のように垂れ下がり、風に揺られるさまは正に春を告げる風物詩といえます。
二十二ある町内の氏子が約1ケ月前頃から「花作り」を始め、出来た花を48本のホイに付け、順を追って組立を行い、「幟旗」をつけてホイノボリが完成します。
幟は、祭礼の朝、各町内から神社前の広場に運び込まれ、用意された杭に固定され、さらに荒縄三本で三方へ引っ張られます。
午前10時頃には22本すべてが到着し、広場はホイノボリで一杯になります。
11時過ぎからは、町内の人が集まり、ホイノボリの下にシートを敷き、料理を囲んで歓談します。昔は御馳走を持ち寄りましたが今は出来合いの弁当です。
町内の人が神に護られて、春のうららかな日にホイノボリの下で酒を飲み交わす情景は、なごやかそのもので、何十年か前の日本の原風景を見ている感じでした。
前日は雨で、空模様が心配でしたが快晴となり、しかも久方ぶりに桜の満開と重なり、地元の人も幟と桜の色鮮やかな共演に酔いしれる様子でした。
午後二時になると神事が始まる。神事の進行とともに帰り支度が始まり、ホイノボリは夫々の町に帰って行きます。
ホイノボリの起源は定かでないですが、蒲生家が城下町をこの日野につくり、楽市楽座で商工業を自由に取引させた頃にこの風習が自然に起こったとされ、御幣を持ってお宮に参り、天に向かって高く掲げ、それに飾りをつけたことが始まりで、全国的に見ても、日野の幟はとびぬけて大きいようです。
春の花が散る季節、散る花の如く疫病が広がらないことを願い、稲穂が散り不作とならないよう願った伝承が残っている。最近までは垂れ下がるホイを抜き、蛇除けの護符に持ち帰ったともいわれます。ホイを作る業者不足や人口減などで継承には苦労されていますが、地元氏子間の強いつながりが支えの力になっています。