Monthly Web Magazine July. 2015

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■■■■■ デレーケ導流堤 田中康平

機会あってつい先日、筑後川を大川の若津港から船で下って有明海に至った。

筑後川の下流の景観は漁船があちこちに長い杭につながれていていかにも有明海につながる生活の糧としての筑後川を感じて心和むものがあるが、干潮時に訪れると川の真ん中にセンターラインのような堤が河口に向かって延々と延びている景観が気になる。

デレーケ導流堤と呼ばれている堤という。なんだろうと思うがはっきり解説した説明版には中々遭遇しない。若津港の近くで見つけた説明版やネットで探した情報などを総合するとだいたい以下のような解説になる、ともかくも小さな驚きを感じる。

明治時代にオランダより政府が招聘したデレーケ(1842-1913)の指導で明治23年に築かれた。

若津港はもともと筑後平野の産物の積出港であったが有明海の大きな干満の差と筑後川の運ぶ土砂が河口に向かって土砂の堆積を進行させるため大型船の運行を困難なものとしていた。これを解決すべく造られたのがこの導流堤で、左岸側の流速を早め土砂を押し流し特に若津港のある左岸から下流の流路の水深を確保する役割を担った。この流水堤の建造の結果若津港に大型船が出入りできるようになり明治29年のこの港の貿易額は博多港の2倍にも達したとの記録がある。若津港から下流6.5Kmに亘り設置された導流堤は現在も当初の目的を果たしつつ機能し続けているという。

この導流堤は2008年、土木遺産に認定されている。デレーケという人にも興味をおぼえる。明治6年に31歳で来日、当時オランダは不況で生活が苦しく、条件の良いこの話を上司に誘われて受け入れたらしい。もともと築堤職人の息子として生まれ小学校卒業後家業を手伝っていたがそこで出会ったレブレット氏(後のデルフト大教授)より個人的に教えを受け数学・物理学・力学・水理学など土木工学に関する学問を習得したといわれる。経験と高度な知識を兼ね備えたたたき上げの優秀な技術者として腕を磨いていったようだ。

明治期の土木治水の技術指導はオランダが中心になって指導しておりデレーケと同時期にはエリート技術官僚のエッシャー(だまし絵のエッシャーの父)等も来日している。デレーケは当初3年の予定だったが、同時期に来日した招聘技術者が次々に帰国し地位も上がってきてやりがいを感じてきたのかおよそ30年にわたって日本各地の河川港湾土木事業を指導し続け、砂防の父とも称されるまでになって、日本の河川治水に大きな功績を残している。

著名な成果の一つに木曽川の完全3河川分離事業がありこれにより木曽川の洪水被害は激減した。木曽川の治水は江戸時代末期まで繰り返し幕府をはじめとした多くの努力が注がれてきたが一向に洪水被害は減らない状態が続いてきていた。

デレーケは1903年に日本を去り、上海での黄浦江改修を指揮した後1913年にオランダで亡くなっている。功績により晩年にオランダの爵位を得ているが、日本でその生涯の主要な部分を過ごしたことになる。このような人に助けられて今の日本が成り立っているようだ。

世界遺産となった明治の日本の産業革命遺産に光が当っているが、明治期に日本が急速な近代化をなしえたのは多くの招聘された外国人技術者の指導が的確になされてきたということにも大きく拠っているように思える。こんな遺産も日本遺産または世界遺産の一つに加えるという心が必要かもしれない。

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