Monthly Web Magazine Sep. 2015
■■■■■ 京都祇園らんぷ美術館とその関連 中山辰夫
昨今、LEDのおかげで身の回りが明るくなった気がします。照明の世界がますますバリエーションに富むようになると楽しみです。
江戸〜大正期に建築された旧宅を見学しますと昔の照明器具を時折見かけます。目立たないよう置かれていますが、なぜか魅かれてシャッターを押します。
八坂神社の南側、すぐ近くの3階建ビルに美術館があります。個人でコレクションされた約700点のランプがさほど広く無いスペースに展示されています。
狭い通路には所々工夫を凝らした意匠がみられ、店主の思いが感じられます。
詳しい説明がないのが残念ですが、国内外の様々なランプが展示されており、普段目にすることが少ないためか懐かしさを感じます。
撮影の許可は取りましたが、入場券の裏に館内での撮影、模写お断りとありますので多くは載せません。
日本製・外国製の台らんぷ、姫らんぷ、吊りらんぷ、座敷用らんぷ等種類の多さにビックリです。油関係の版画、引札、ホヤなどの関連品も展示されています。
台らんぷ(日本製)
笠は赤縁部分が乳白色の線筋、下は乳白一字霜降り模様。油壺は金赤(金で発色)で乳白台には、七宝つなぎ模様がカットされた華やかならんぷ。高さ49cm
俄か仕込みの情報を少し並べます。
江戸時代、明かりは行灯(あんどん)や提灯が主で、行灯には菜種油、他に椿油や魚油が使われていました。魚油はくさいし黒い煙が出ますが安かったようです。
枠の周りに和紙を張った行灯の明るさは極めて弱く、60Wの電球1個の50分の1程度だったようです。
ところで、ヨーロッパにおけるランプの歴史は古く、ローマ時代にガラス製のランプがつくられ、7世紀にはマホメットの回教寺院の天井につられたランプには色エナメルガラスが使われていたとあります。(西洋の「ランプ」は光源、燈火、照明に用いる器具、などを総称する一般的な言葉として使われているようです)
獣脂ローソクが世に出てから生まれた油ランプの改良に第一歩を印したのは、レオナルド・ダ・ヴィンチで、空気流の改良に錫製のホヤを発明したとあります。
だがまだ改良は不十分で、その後200年程経って、錫製のホヤの替わりにガラス管のホヤが考案されました。その後も年代を重ねて改良が進みました。
18世紀の後半、まだローソクと灯油ランプの時代だったヨーロッパの上流階級社会では毎夜「夜会」が開かれ、場を飾る豪華なシャンデリアが誕生しました。
映画にあったヴェルサイユ宮殿の照明は圧巻で、一つのシャンデリアに高価な西洋ローソクが何十本も灯されていたとあります。
(宮殿には平成10年・13年に訪れましたが、その頃はカメラに関心がなく、この写真はwikipediaからの引用です)
1823(文政6)年長崎に着いたシ−ボルトは家財道具に火燈と記しランプを届出たようです。 この頃のランプは光が弱く、炎も消えやすく十分でなかったようです。
1837(天保8)年ころ、田中久重が「無尽燈」を考案しました。田中久重は今新聞紙上を賑わしている「東芝」の創業者です。
田中久重は別名「からくり儀右衛門」と仇名され、幼いころから細工に長じ、いろいろな仕掛け玩具から始まり、人々の必要としているもの・生活を豊かにするものを考え、そのアイディアを次々と形にしていったようで、「日本の発明王」ともいわれていたとあります。
彼が考案したランプは、「無尽燈」という名で、「いつまでも消えない灯り」とアピールできる、空気の圧力を利用し、菜種油が管を伝って灯心に昇る当時としては画期的なランプでした。
当時使われていた灯火用菜種油は粘性が強く、芯への浸透が容易ではなかったようです。発明した仕掛けが長時間安定した灯りを供給し、商売や生活水準の向上に一役買い、大歓迎されました。
無尽燈
国重要文化財である武雄市鍋島家旧蔵資料内に2本残されています。(田中は久留米出身で、佐賀藩主鍋島氏に仕えた時期があります)
無尽燈は菜種油が燃料であるため光力が弱く、その後の石油ランプの普及で使われなくなりました。
1859(安政6)年、アメリカのペンシルバニアで石油が発見され、ランプの燃料も一気に石油にかわり、石油ランプ全盛の時代を迎えました。
日本に石油ランプが輸入されたのは、1859(安政6)年の開国後の箱館・横浜・長崎における貿易開始からで、横浜の商館見聞録に「異人室内、中にも重金なる美製の燈台見事に飾りあり」と書かれています。
1860(万延元)年、咸臨丸で遣米使節に随行した福沢諭吉もアメリカ土産にランプを持ち帰り、塾生が取囲んで勉強したとあります。
薄暗い蝋燭や行灯の燈しか知らなかった人々に「毛一筋も見あやまることなし」と感嘆させるに十分な明るさでした。
ヨーロッパから輸入されたランプが一般に普及し始めたのは、1871(明治4)年以降からで、国産品も登場、日本人の生活様式に応じた座敷用なども出ました。
皇居で始めてランプが使われたのは1872(明治5)年でした。この年9月には、新橋と横浜間に鉄道が開通し、その祝賀式会場はきらめく彩燈で飾られようです。
明治20年から30年にかけて時代を謳歌したランプは、生活の必需品にまでなりましたが、悪臭、煤煙、火災の危険という宿命的な欠点を内蔵していました。
そして次に現れた電燈という近代的な燈火に駆逐され、大正初期を終焉として消えて行きました。
電灯が最初に灯ったのは1878(明治11)年3月15日で、この日が電気記念日となりました。一般家庭への供給は1887(明治20)年からです。
ランプは無くなりましたが、多くの産業の芽を育てました。ランプは、芯、口金、ホヤ、笠、装飾から成立っています。
当初は輸入していた部材も国産化し、輸出するようになりました。その過程が新たな産業創出につながりました。
ホヤは、我が国で初めてつくられたランプ用品で、1869(明治2)年日本での製造が始まりました。輸出もおこなわれガラス産業発達の契機となりました。
口金も1881(明治14)年頃国産品が出ました。プレス加工技術につながっています。
ランプの面白さは笠の形と色彩にあるとされ、実用品から室内調度品として種々の装飾が加えられました。石笠は1885(明治21)年頃から利用され、支那・韓国向けに輸出されています。明治末期には鋳鉄型製作の専門業者も現れました。
エッチングを含めたガラスの分野では、1876(明治9)年に設立された官営「品川ガラス製造所」が深く関わります。
設立当初は、燈火器分野のパーツの製作で基礎がかたまったともいわれます。
最後に、ランプの普及が燈油としての石油の需要を呼びました。
1827(文政11)年頃から、「日本書紀」にもある「越後の臭水」の手堀りが行われ、その後も石油精製事業が企画されましたが成功に至らず、原油輸入一本の道筋が出来上がりました。日本石油産業史に近代化をもたらす過程のページをつくったといえます。
うわすべりの内容で恐縮です。今では片隅に追いやられている感のランプもその奥は深く、歴史的意義が見直されてもいいかと、このささやかな美術館が叫んでいる気がしました。
参考資料『wikipedia、にっぽん・らんぷ考・室内と家具の歴史・ガラス工業・他より抜粋』