Monthly Web Magazine Oct. 2015

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■■■■■ 忍阪(おっさか)石位寺の三尊石仏 野崎順次 

「やがて薄暗い厨子の中に、仄かに白く浮かび出た三尊石仏を拝した瞬間、これ程にも美しい石のみほとけがあるものかと、暫し声もなく見入るに相違ない。

(中略)

かかる霊像が遥かに今の世に伝えられていることは、何物にも増して尊い。」

川勝政太郎「大和の石造美術」天理時報社 昭和17年

「この石仏の魅力は三尊の美しい顔にある。微笑を浮かべた目、小さくひきしまった鼻と口、その口もとには朱の色を少し残して美しく、聖少年のおもかげに接した思いがする。三尊の小柄な顔立ち胸や腕、腹や足もとなどはほどよく肉づけされ、新鮮でみずみずしい童子のような自然美をそなえている。

脇侍の直立したポーズには、飛鳥仏のなごりを感じるが、飛鳥仏のような古拙的な堅い表現は見られず、童顔と写実的な体躯は、やがて訪れてくる天平写実への開花を待っているような石仏である。自鳳期は石仏にかぎらず、このような美しい仏像が作られた時代だった。」

清水俊明「大和の石仏」創元社 昭和49年、表紙が三尊石仏

「ほのぼのとして暖かいものがある、美少女といったかんじであろうか。」

晩年の川端康成の言葉。

このように多くの石仏研究家、愛好家が絶賛する最古最秀の「伝薬師三尊石仏」である。高さ115cm 、幅123cmばかりの丸みを帯びた三角形の砂岩に半肉彫りされている。薬師とされてきたが、製作された奈良前期には未だ仏像の様式が定まっていなかったので、何仏とはいえない。この三尊石仏の由来と沿革を調べてみた。

奈良前期白鳳時代(644〜710)に製作された。長谷寺の銅盤法華説相図の三尊仏とよく似ているという。額田王の念持仏として作られ、近くの粟原寺(おおばらでら)にあったが粟原川(おおばらがわ)の氾濫で流されてきたという伝承がある。写真は粟原の里と粟原寺跡。

また、大陸渡来説もあり、百済の弥勒石像が飛鳥寺、元興寺などを経て忍阪(おっさか)に来たというがあるが、百済の仏像とは様式が違うようだ。

いつ、この地に来られたのか、分からない。花崗岩よりは軟質の砂岩だが保存状態が極めて良好である。野ざらしになっていた期間は少なかったのだろう。

元禄2年(1689)、石位寺本堂が建立されたらしい。

大正5年(1916)、寺の庭に放置されていた三尊石仏を関野貞東京帝大教授が白鳳期の石仏と鑑定し、堂内の厨子に安置されるようになった。戦前の国宝指定を受けた。

昭和25年(1950)、戦後の文化財保護法の施行に伴い、改めて国重文に指定された。

昭和45年(1970)、無住の寺となる。この頃、村人の管理が始まる。

昭和53年(1978)、本堂(薬師堂)が建て替えられた。

昭和55年(1980)頃、石仏は秘仏で非公開となる。

平成22年(2010)、村人が一般公開を決め、桜井市に事前に申し込めば拝観できることになった。

私が最初に拝観したのは、昭和55年ころだから、秘仏として非公開になる直前だったようだ。古墳めぐりのついでに寄ったのだが、村の方がおられて拝ませていただいた。深い感動を覚え、写真を撮らせてもらった記憶があるが、ネガが見つからない。私は若い時から丹念にネガを整理しているのだが。

最近、再び拝観したくなった。あのように素晴らしい石仏がこの世に存在するのが不思議なくらいと思い起こしたのである。事前に桜井市観光課(phone 0744-42-9111)に申し込んだ。「9月27日(日)に行きたいのです。私独りなのです。お手間を取らせたくないので、他の方々の予約時間に合わせますが。」というと、その日は他の予約がないので、いつでもいいことになり、午前11時にした。現地のご担当はM区長さんで念のため携帯番号を教えてもらった。桜井駅からのバスが2時間に1本で、9時20分発で9時29分に忍阪に着く。奥の谷を散策してから石位寺を訪問することにした。

奥の谷はなるほどいいところだった。静寂そのものといいたいが、あいにく草刈り作業の方がおられて、とぎれとぎれに機械の音がする。

少し早めに石位寺に着いた。おばさんとおじさんがおられ、「11時の方ですね。早かったですね。」といわれた。おじさんにM区長さんですかと聞くと、区長さんは草刈りに行って、代わりだという。というか、まさにそのおじさんが石位寺のご担当らしい。先刻の奥の谷で草刈りに向かう村人二人とすれ違ったが、そのうちの一人がMさんだったようだ。また、その後、大阪の団体の予約があり、私の後に20数名来るとのこと。

もちろん、写真撮影禁止である。撮影機材の入っているリュックを手前のベンチにおいて、収蔵庫に向かった。40年前と変わらぬ、いやいや、1300年前とあまり変わらない清冽なお姿に再び感動した。テープの説明を聞いてから、15分くらい私一人にしてくれた。来てよかったとしみじみ思った。その後、資料、写真、絵画などを見せていただいた。

なお、このあたりの地名の漢字には注意を要する。地名は「忍阪(おっさか)」、街道が付くと土篇になって「忍坂街道」、舒明天皇陵は「押坂内陵(おさかのうちのみささぎ)」となる。歴史的な変遷の結果だろう。また、「粟原寺(おおばらでら)」、「粟原川(おおばらがわ)」は「栗(くり)」ではなく、「粟(あわ)」である。ネットでよく間違っている。

参考資料

桜井市観光情報ウェブサイト

忍阪の風ウェブサイト

Don Panchoのホームページなど

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