Monthly Web Magazine July 2016

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■■■■■仁丹町名表示板  大野木康夫

京都の町を歩いていると、多くは古い町家の二階の軒先などに、森下仁丹の商標が表示された町名表示板を見ることがあります。

森下仁丹の町名表示板は、戦前、大都市を中心に全国に取り付けられたもので、多くは戦災で失われましたが、極端に空襲が少なかった京都では今でも多く残っています。

仁丹町名表示板の愛好家の集まりである「京都仁丹樂會」の最新集計(2013年4月発表)によれば、現存するもの(実際に現役で掲げられているもの)は740枚(平成復刻17枚を含む)となっています。

仁丹町名看板の多くは、京都市の市域が拡大し、区名や町名が大きく変わった昭和初期以前に設置されたため、設置当初の町名表記をそのまま残す町名看板を見ると、区・町の変遷の跡が確認できます。

(下京区)新釜座町

江戸期以来の下京の区域です。

初期の仁丹町名看板は木製だったようですが、残っているものは少ないようです。

その後取り付けられた琺瑯製のものは、耐久性に優れているため、現在も多く見られます。

ちなみに、琺瑯製は重要文化財杉本家住宅の高塀に取り付けられています。

 

上京区射場町、妙顕寺前町

江戸期以来の上京(第六番組)の区域です。

 

上京区上清蔵口町(現:北区)

江戸期から上京の区域内(第十三番組)でしたが、昭和30(1955)年の北区分区の際に北区となりました。

上京区小山中溝町(現:北区)

大正7(1918)年に上京区に編入された愛宕郡上賀茂村大字小山の一部で、昭和30年に北区となりました。

上京区大宮上野町(現:北区紫野上野町)

大正7年に上京区に編入された愛宕郡大宮村の一部で、編入時は大宮上野町でしたが、昭和30年に北区となり、昭和35(1960)年に紫野上野町に名称変更されました。

上京区鷹野十二坊町(現:北区紫野十二坊町)

大正7年に上京区に編入された愛宕郡野口村(明治25(1892)年に同郡鷹峯村から分割)の一部で、編入時は鷹野十二坊町でしたが、昭和16(1941)年に紫野十二坊町に名称変更され、昭和30年に北区となりました。

上京区和国町(現:左京区)

二条川東地区は江戸期から上京の区域内(第三十三番組)でしたが、昭和4(1929)年の左京区分区の際に左京区となりました。

上京区南禅寺北ノ坊町(現:左京区)

明治21(1888)年に上京区に編入された愛宕郡南禅寺村の一部は南禅寺町となりましたが、大正7年に南禅寺北ノ坊町ほか4町に分割された後、昭和4年に左京区となりました。

上京区田中関田町(現:左京区)

大正7年に上京区に編入された愛宕郡田中村の一部で、昭和4年に左京区に編入されました。

下京区田中下柳町(現:左京区田中下柳町)

町名表示板の表記はきわめて正確ですが、珍しく表記ミスとなっています。

ここも大正7年に愛宕郡田中村から上京区に編入されたため、本来は上京区であるはずですが下京区となっています。

上京区神泉苑町、菊屋町(現:中京区)

江戸期から上京の区域(神泉苑町は第二十三番組、菊屋町は第二十七番組)でしたが、昭和4年の中京区分区の際に中京区となりました。

 

下京区天使突抜一丁目

江戸期から下京の区域(第十二番組)です。

下京区姥柳町(現:中京区)

江戸期から下京(第三番組)でしたが、昭和4年に中京区となりました。

下京区西之町(現:東山区)

江戸期から下京(第二十四番組)でしたが、昭和4年の東山区分区の際に東山区となりました。

下京区西九条猪熊町、西九条蔵王町(現:南区)

明治35(1902)年に下京区に編入された葛野郡大内村大字西九条の一部で、昭和30年の南区分区の際に南区となりました。

  

下京区西ノ京職司町、西ノ京内畑町、壬生松原町(現:中京区)

大正7年に下京区に編入された葛野郡朱雀野村の一部で、昭和4年に中京区となりました。

壬生松原町の町名表示板には、後から中京区に直そうとした痕跡が見えます。

   

左京区山端森本町

昭和6(1931)年に左京区に編入された愛宕郡修学院村の一部です。

右京区太秦多薮町

昭和6年に右京区に編入された葛野郡太秦村の一部です。

東山区一橋宮ノ内町

大正7年に下京区に編入された紀伊郡柳原町の一部で、編入当時は柳原宮ノ内町でしたが、昭和4年に東山区となった後、昭和6年に一橋宮ノ内町に名称変更されました。

伏見市新町三丁目、新町五丁目(現:伏見区)

現在の伏見区主要部は、江戸期には260を越える町が南北各9組の町組に組織され、明治22(1889)年に紀伊郡伏見町、昭和4年に伏見市となった後、昭和6年に京都市に編入され伏見区となりました。

町名表示板は昭和4年から昭和6年までの間に設置されたと考えられます。

 

琺瑯看板は耐久性に優れていたため、昭和4年の分区整理で行政区が変わってもそのまま使われ続けており、そのことが、大半が昭和4年以前に設置されたものであることの証拠となっています。

近年、価値が再認識され、平成22(2010)年に「京都琺瑯町名看板プロジェクト」で10枚復刻作成されました。

中京区三条町、六角町

オリジナルでは1枚も確認できていない中京区表記のものも作成されました。

 

これら町名表示板は、多くが現役で活用されており、今後も、京都の街並みとともに残っていってほしいと思います。

参考:京都仁丹樂會HP

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