JAPAN GEOGRAPHIC

Monthly Web Magazine July 2017

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■ 私と金山寺  野崎順次

岡山駅から北北東約10kmの山間部に金山寺(きんざんじ、かなやまじ)という天台宗のお寺がある。奈良時代創建、平安時代末期には栄西が天台密教葉上流の流派を開いた。その後、栄西は臨済宗の開祖となる。戦国時代、全山焼き討ちの法難があったが、宇喜多家により再建され、国重文の本堂など諸堂と文化財が残る名刹である。また、600年以上続く伝統行事の会陽(えよう)が名高い。毎年2月の第1土曜日に境内で裸姿の男たちが宝木を求め、激しい争奪戦を繰り広げる。

私が初めて金山寺に行ったのは2011年12月30日である。金山(かなやま)の集落までのバスはなく、岡山駅からタクシーで15分である。境内には寺男さんを除いて人影はなかった。重要文化財の本堂の戸が開いていたので勝手に内部に入り、県重文の阿弥陀如来坐像など内陣外陣を撮影した。

本堂から少し上がると墓地、さらに山道を上がった最高地点に三重塔がある。三重塔を撮影してから携帯でタクシー会社に連絡し、迎えを頼んだ。その直後に携帯を落としたらしい。上半身の服装はダウンジャケット・薄手のセーター・ウールのシャツで、携帯はウールのシャツの胸ポケットに入れていた。ちなみに私はいつも胸ポケットに携帯を入れておく。首にぶら下げるストラップなどはつけないで、これまで落としたことが無い。ところがこの時、セーターとシャツの間に滑らせて胸ポケットに入れたつもりが、そのまま、山道に落ちたようだ。

タクシーで駅に着き、新幹線に乗り込んでから、携帯のないのに気付いた。その時点ではタクシーの座席に忘れた可能性が高いと思っていた。家に帰ってから、タクシー会社に電話したが、そのような忘れ物はないと云う。そこでダメモトでお寺のご住職に電話して、どうも三重塔あたりの山道で落としたらしいのでついでの時にでも見ておいて下さいとお願いした。お寺の方は携帯の番号を聞かれた。呼び出し音を頼みに探して下さるようである。だが、マナーモードに設定していたので、大きな音はしない。翌朝(大晦日)に三重塔にお供えをするので、見ておきましょうと云って下さった。幸いその夜は雪や雨が降らなかった。降っていたら携帯はアウトである。

翌朝(大晦日)、会社で片づけ仕事をしていると、自宅から電話があり、お寺の方が携帯を見つけて下さったと云う。即座に菓子折を持って新幹線、タクシーを乗り継いでお寺に行った。お年寄りのご住職さんから「ひもで首から下げないと駄目ですよ。」と云う意味の岡山弁で注意された。携帯を調べると、約1時間半にわたり十数回、他の携帯からの呼び出しがあった。そんなに長く丁寧に山道の草むらの中から聞こえるマナーモード音に耳をすましていただいた訳である。おそらくはご住職の指示であの寺男さんが探してくださったのだろう。

その1年後、2012年12月24日に本堂で火災が発生して、焼失した。敷地内で独り住まいのご住職が留守中に発生したもので、当時の報道では本堂で常時使用するろうそくのためではないかといわれたが、未だに原因は特定できていない。

私はこの不幸な出来事に非常に驚くと同時にあの時に本堂の内外を撮影しておいてよかったと思った。携帯を見つけていただいた恩義からも、素人写真ではあるが、データとプリントをご住職に届けなければと思った。ただ、直後に届けるのはどうかと逡巡した。

それから、4年6ヶ月の時が流れてしまった。

今年(2017年)の6月3日に金山寺を再訪した。山門(仁王門)は相変わらず丸太の足場で囲まれていて、以前に修繕工事だと思ったのが、一時的な補強であることが分かった。護摩堂は修繕工事が完了していた。焼けた本堂の跡には小さな木造の仮本堂が建てられ、その周りに礎石が露出していた。割れた礎石もあって、火事の影響かと思われた。

左手の庫裏の方へ行った。修理が追い付かないのだろうか、屋根と壁のところどころにトタン板を張り付けた非常に大きな建物があった。庫裏、灌室、客殿、書院などが一つになった複合建築である。若いご住職が出てこられたので、携帯紛失の経緯を説明した。ところが、驚いたことにあの親切なご住職はもう3年前に亡くなられたとのこと、火事の翌年にでも来ればよかったと深く後悔した。

若いご住職は本寺の貴重な文化財を世にもっと広めたいとお考えのようで、灌室(密教の灌頂を行うための専用施設)や客殿(江戸中期、池田藩政時代に七月中に藩主が避暑のために滞在した施設)の撮影を快く許可してくださった。

その後、山陽新聞digital の会陽(有名な裸祭り)の記事などを調べて金山寺のご住職について調べた。私の携帯を探すよう指示されたのは、松原宏澄ご住職(当時75歳くらい)で、2014年2月本堂焼失後初めて、会陽の再開を実現されたが、同年4月27日に亡くなられた。同年8月に毘沙門堂(京都山科)より岸本賢信さん(当時30歳くらい)が副住職として着任された。私が今年にお会いした若い方で、その時には「副」の字が取れて住職に就任されていた。名刺を交換したが、古い名刺の「副」の字を二本線で消しただけだったのに好感を覚えた。毘沙門堂は紅葉などであまりにも有名な京都山科の名刹である。昨年11月に耳の帯状疱疹を発症し何とか半月で治ったが、後遺症のふらつきを感じながら撮影活動を再開したのが、紅葉の盛りを過ぎた毘沙門堂だった。そこから、岸本ご住職が来られたということに何か特別なものを感じた。

これから本堂の再建、灌室客殿の改修と大変な道のりだ。でも、文化財はまだまだ豊富にあるし、公共交通機関はないがJR岡山駅から車でわずか15分である。のんびりとした山里である。傍観視する己が口惜しいが、近い将来の再興を祈りたい。

また、行きます!