JAPAN GEOGRAPHIC

Monthly Web Magazine Mar. 2018

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■ 三木の町を歩く  野崎順次

三木市は神戸市西部の北側に位置する。文化財的には地味な街だと思っていたので、歩いてみようと思ったことはなかった。最近、古本屋で見つけた「昭和街並探訪」2013年によれば、「兵庫県はレアもの民家の宝庫だ!!」とあり、三木は「兵庫県でも街道に沿って町屋が残っているのは、三木の街並です。」と書かれている。友人の故桑田優君が三木の金物史を研究していたことも頭に浮かんで行ってみることにした。

神戸電鉄新開地から鈴蘭台で粟生線に乗り換えた。三木市の中心的な三木地区は電鉄の駅では、恵比須、上の丸、電鉄三木である。一番手前の恵比須で降りて、湯の山街道を西へたどった。湯の山街道は、三木から有馬温泉に通じる街道で、秀吉の三木城攻めの頃(1578〜1580)から整備されたという。古い民家がちらほらとあるだけであるが、道筋は緩やかにくねり、鍵型の辻もあったりして風情を残す。

    

ナメラ商店街から旧玉置住宅

美嚢川(加古川の支流)の手前で街道はナメラ商店街に入る。ここは湯の山街道の延長のようでも、ひめじ道あるいは交わし道の始まりのようでもある。アーケードを抜けると、少し行くと、三寿ゞ刃物製作所があり、右手奥の幹線道路沿いに旧玉置住宅がある。共に国登録有形文化財である。

       

交わし道

その先のいかにも街道筋という少しくねった道は交わし道である。江戸時代に参勤交代の大名が通り本街道の混雑を避けるために造られ、道筋には金物卸問屋や鍛冶屋職が軒を並べ、大道具を製造する多く鍛冶職人が生活していた。

交わし道の先に旧小河家別邸がある。建物が国登録文化財、庭園が国登録記念物で、特に庭園が豪快である。

  

幹線道路を横切り、川沿いの道がひめじ道、東から西へ歩く。ひめじ道は秀吉が3万の大軍を姫路に移動する時に整備された。江戸時代には参勤交代の大名行列が通ったという。

 

創業以来の景観を残す金物問屋黒田清右衛門商店。

 

少し戻って福有橋を渡る。振り返ると三木城本丸跡とその下に旧玉置家住宅が見える。対岸にはレトロな福有薬局が見える。

 

神戸電鉄三木駅に着いた。のどが渇いていたが、無人駅で周囲にはコンビニもない。駅前の観光説明板を撮影して、帰りの電車が来るまでに駅舎も撮ろうとしたが、ちょうど明石行のバスが来たので飛び乗った。午後3時半ころだったか。その3時間後に近くの住宅から出火して駅舎を含む3軒が全焼し、全国ニュースとなった。帰宅後にテレビで見てびっくりした。

故桑田優君のこと

三木は金物の町として有名である。その近代経済史の研究において第一人者だったのが桑田優君(神戸国際大学名誉教授)である。彼の集大成的著作は「伝統産業の成立と発展−播州三木金物の事例」2010年9月1日発行 思文閣出版である。彼とは高校の同期で2年間同じクラスだった。また、高校2年同期の酔いどれ仲間「我楽多会」で40年以上にわたり、毎年に会っていた。残念ながら、一昨年、脳腫瘍のため先に逝ってしまった。合掌。集合写真は2008年11月30日撮影、左端が桑田君。

 

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