JAPAN GEOGRAPHIC
Monthly Web Magazine July 2018
今となっては、大正天皇について話題になることはないが、偉大な明治天皇と昭和天皇の間にあって、体が弱く、決断力に乏しく、政治に疎かったというのが、当時の一般的なイメージだった。私は昭和21年生まれだが、子供の頃に大人からそういう話を聞いたことがある。
ところが、大正天皇は、確かに体は強くなかったがきちんと四人の皇子をもうけ、きわめて聡明な方だった。
天皇が神とあがめられた時代にあって、
① 庶民に対して非常に気さくで、全国を回り、いろいろな人々に話しかけた。
② 側室を持たず、貞明皇后ただ一人を愛し、後の昭和天皇を含む四人の皇子をもうけた。家庭と家庭の団欒を大切にした。
③ すぐれた詩人であり、その短い生涯に1367首の漢詩を遺した。歴代天皇中の第一位である。第二位は後光明天皇(110代、江戸初期)の98首、第三位は嵯峨天皇(52代、平安初期)の97首に過ぎない。
これらの背景には、貞明皇后と漢学者三島中洲の存在がある。今回は貞明皇后について述べる。
最近、能勢町野間の大ケヤキを見に行った時、妙見口から道中(バスと徒歩)が一緒だった老人が妙な話を教えてくれた。ケヤキの向こうに見える改装工事中の元茅葺の家は皇后さまに関係があるというのである。このあたりには壇ノ浦で水死したはずの安徳天皇が能勢に逃れてきたという伝説があり、野間出野にご陵墓まである。そのことかなと思ったが、時代があまりにもさかのぼり過ぎである。どうも、貞明皇后の生母、野間幾子に関わるらしいと後になって分かった。
「貞明皇后実録に"御母は九条幾子"とあるが、道孝の正妻ではない。本名は野間幾子。二条家の家臣、野間頼興の娘で、嘉永2(1849)年の京都生まれである。幾子は数え16歳で九條家に仕えた。やがて道孝の側室となり一男三女をもうけ、末娘の節子をうんだのは36歳の時だった。晩年は京都に居住。浄操院と称して茶の湯や能楽に親しみ、大正4年11月10日の読売新聞によれば"小鼓は頗る御堪能にて(中略)京都婦人界にて右に出るものはないさう"だったという。」
(産経新聞連載 川瀬弘至「朝けの空に−貞明皇后の66年」第2回より)
浄操院幾子は昭和21年4月5日に行年98歳で亡くなり、東福寺九條家墓地に眠る。野間家は清和源氏の流れだが、公家ではなく庶民である。明らかに能勢の野間にルーツがある。。
九條家は五摂家の一つでれっきとした公家である。道孝の姉は江戸期最後の天皇、孝明天皇の正室(子供はなかった)で、道孝自身は維新後公爵に叙せられた。
道孝と幾子の間の末娘、節子が後の貞明皇后である。その幼少期は実にたくましいものがある。1884年(明治17年)に東京で生まれ、すぐに近郊の農家に里子に出され、裸足で栗拾いやトンボ捕りをするなど元気に育った。日によく焼けていたのだろう「九條の黒姫様」と呼ばれた。1888年(明治23年)には九條家に戻り、その後、華族女学校(後の女子学習院)に入学した。1900年(明治33年)2月11日、15歳で、5歳年上の皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)と婚約した。彼女が健康であることが、病弱な親王の妃となる大きな決め手にもなったようである。
「大正天皇との夫婦仲は至って良好で、慣例を打ち破って夫の身辺の世話を自ら見たという。また皇子を4人儲け、一夫一妻制の確立に寄与し、宮中での地位は絶大なものがあった。」
(ウィキペディア「貞明皇后」より)
という訳で、野間に由来する庶民の元気な血筋が天皇家に活力と新しい家族観をもたらしたのである。
野間幾子の話を最初に教えていただいたのは、築100年の酒屋「嶋田商店」の店主にして、歴史小説家/郷土史家の家村耕氏である。天皇家の系図、「朝けの空に−貞明皇后の66年」抜粋のコピーをいただいたし、浄操院の写真もその店で撮らせてもらった。同氏に謝意を表します。
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