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Monthly Web Magazine Feb. 2019

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■ 重森三玲さんが批判的な和歌山の名園 野崎順次

私の庭園めぐりの先達は、重森三玲著「日本庭園歴覧辞典」昭和49年である。この本はいわゆる豪華本で重たい。10年位前に東京出張時に高円寺の大石書店で見つけた。この店は中央線最古の古本屋さんとのことで、行くたびにいい本にめぐり合う。

今回は和歌山である。たまたま三玲さんが批判的な庭園が二つ、和歌山市駅から海南駅までのバス路線にある。和歌山城西之丸庭園と琴ノ浦温山荘園である。

和歌山城西之丸庭園について、三玲さん曰く、

「幸いに西之丸庭園は、荒廃しながらも山畔の石組をよく保存していることや、さらにまた池畔東部の山畔下の護岸石組もよく保存されていて、桃山期の豪快なものが鑑賞できることは何よりである。ただ最近に至って本庭の修理が行われたが、この修理は全く改悪に近く、せっかくの桃山期の庭園が、大半その価値を損じたことは何より惜しいことである。」

(重森三玲「日本庭園歴覧辞典、昭和49年」和歌山城旧西之丸庭園より)

桃山時代の豪快さが残る護岸と枯滝の石組

  

改悪されたと思われる部分

 

ではだれが改悪に近い修理をしたのか、というと、現地の説明板にこうある。

「和歌山城西の丸(紅葉渓庭園)は江戸時代初期に作製された全国の城郭庭園中屈指の名園でありました。しかし、長年の歳月で荒廃著しく、これが修復した斯界の権威森蘊博士が蘊蓄を傾けてのご指導により昭和四十五年度より三ヶ年をかけ見事に復元整備されました。」

改悪の張本人は森蘊(もりおさむ、明治38年 - 昭和63年)らしい。この人も庭園史研究や作庭において、昭和の大権威で、重森三玲(明治29年 - 昭和50年)とほぼ同じ時代を生きた。

ふたりの経歴や研究・調査方法はほぼ正反対である。ものすごく省略して比べると、三玲さんは日本美術学校から東洋大に進み、その間、日本画・いけばな・茶道を学び、感性と芸術性を磨いた。その後、独学で日本庭園を学び、多くの庭園を実地測量し、作庭年代鑑別の基礎学を確立した。一方、森蘊は東京帝大において造園学、建築史を学び、大学院卒業後は官僚として活躍した。庭園史研究には文献調査に地形測量、発掘調査という実証的手法をとった。今日では庭園史研究や歴史的庭園の整備に発掘調査が不可欠だそうだ。三玲さんには発掘調査をする資金源がなかったのではないだろうか。

いずれにしても、桃山時代の豪快な石組のまわりに軟弱な丸石とか刈込を使われて、三玲さんがカチンと来たようだ。

次の琴の浦温山荘園は個人が作った最大の庭園といわれ、庭園は国名勝、建物は国重文に指定されている。パンフレットには、

「当園は、明治21年に日本で初めて動力伝動用革ベルトを製作し、その後、世界有数のベルトメーカーとなった新田帯革製造所(現 ニッタ株式会社)の創業者、新田長次郎翁により、この地に大正初期から造園されました。

(中略)

こころやすらぐ景観美

庭園内は松林が美しく繁り、時おり魚の跳ねる音が静けさを一層際立たせます。伝統的な和風建築の主屋、茶室などをゆったりと鑑賞したり、座敷に座って庭の全景を眺めながら心安らぐひと時を過ごすことができます。作庭は、武者小路千家の家元名代であった木津宗泉の指導で完成し(主屋の設計は、木子七郎)、開園当時は、皇族の方々や官界他著名人が多数来園されました。紀州路随一の大庭園(18,000坪)です。」

     

ところが三玲さんはボロクソにこき下ろしている。

「伝えるところによると、新田翁は、その大正期に年々十万円の金を使い、十五ヶ年に百五十万円の工費をかけられた由である。今日の金にすれば十五億ということになる。しかし本来庭園の芸術的価値は金によって生まれるものではない。いくら新田翁が忠実な人柄であっても、それが直ちに芸術性とはならないから、本庭のような大園地ができても、芸術的にみれば、必ずしも傑出したものとはいい難い。

今本園を一覧すると、全庭約三万坪という大地庭で、回遊式であり、舟遊式であり、全庭に茶亭などもあって、江戸初期に諸大名間に流行した綜合園式であり、これは明治末年から大正期にかけて成金連中の好んで作ったものと共通している。

(中略)

大正期の庭園は、時代が時代だけに、いずれも職人的な庭師の作庭であったから、この時代の庭園は、大小にかかわらず類型的なものであり、自然主義的なものであった。人間不在な作品が傑出する訳がないが、それでもこれほどの大庭園になると庶民にはよい遊園地である。」

(重森三玲「日本庭園歴覧辞典、昭和49年」温山荘庭園より)

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