JAPAN GEOGRAPHIC

Monthly Web Magazine Apr. 2019

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■ 令和の騒ぎで思い出して 田中康平

令和の騒ぎで太宰府や万葉集が俄かに脚光を浴びているが、そういえば最近太宰府の水城の特別史跡に追加で父子嶋(ててこじま)というのが加わることになったとの新聞報道を見て観に行ったことを思い出した。

父子嶋の名前については水城建造時の父子の逸話からきたとの説明が現地にあったが、令和の騒ぎで「太宰府万葉の世界」(前田淑)という本を改めて読んでいたら、児嶋という遊女の話が出ていて、「こじま」という名前はこちらからきたのではないか、との気が今はしている。その方がそれらしい。

大伴旅人の館で令和の由来となった梅花の苑が開かれたその年の暮れに 旅人は京へ戻ることになって太宰府を旅立っている。

その時水城での見送りの人の中に遊行女婦の児嶋がいて別れを惜しむ歌2首を送った、旅人も児嶋に応える歌を残した、と万葉集巻6に載せられている。

父児嶋という名前が残ったのは児嶋との別れの場としてこの高台のような場所がまさにそこだったのか、あるいは後世の人がそれを思い起させる場所として名付けられたのか、いずれかではではなかろうか。

旅人は太宰府で妻を亡くしていた。この帰京の時旅人は65才位で児嶋とは父娘ほどの年齢差があったと考えてもおかしくない。

万葉集巻六より

 冬十二月、大宰師大伴卿の京に上る時に娘子の作る歌二首

凡ならばかもかもせむをかしこみと振り痛きそでを忍ひてあるかも

(この歌の説明として)

この日馬を水城に駐めて府家を顧み望む。時に卿を贈る府吏の中に遊行女婦あり。その名を児嶋と曰ふ。ここに娘子、この別るることの易きことを傷み、彼の会ふことの難きことを嘆き、涕を拭いて、みづから袖を振る歌を吟ふ。

大納言大伴卿の和ふる歌二首 

倭道の吉備の児嶋を過ぎて行かば筑紫の児嶋念ほえむかも

( ----と続く)

父子嶋はいまは見ると何ということもない住宅地の中の土塁だ。しかし上がってみると流れてきた時間というものを感じてしまう。

令和はどんな時代になるのだろうか。

写真は現在の父子嶋(ててこじま)

    

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