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Monthly Web Magazine Sep. 2019

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■ 長浜城跡(滋賀県長浜市)で石垣発見  中山辰夫

羽柴(豊臣)秀吉が1574年頃から築城した長浜城跡から、秀吉が城主であった頃に造られたと思われる石垣の一部が見つかりました。

長浜城は秀吉が始めて築城した城で「出世城」として知られます。湖岸にある豊公園が本丸跡とされてきました。

今回見つかった石垣

 

今年2月から9カ所を調査した1か所で確認された石垣は、石垣の基礎部分に当たり、9個の石が並び、石材の大きさは4980cm。

石材の大きさが統一されていないことや、くさびを使った痕跡ないことから、秀吉、柴田勝豊、山内一豊が城主だった157490年頃のもので、秀吉の時期の可能性が高いとのこと。

長浜城は「今浜城」と呼ばれ、浅井氏が滅亡すると、織田信長はその攻略に最も戦功のあった羽柴秀吉に湖北の地と小谷城を与えた(1573年)。小谷城に入った秀吉はすぐに今浜に築城を開始し、地名を長浜に改めた(1575年)。信長の没後、城は柴田勝家に与えられ甥の勝豊が入城した。その後柴田勝家と秀吉の関係が緊張し、秀吉の支配下になった。1583年柴田勝家が敗北するまで当城は秀吉の戦略・兵站基地となっていました。その後山内一豊が1590年まで居城しました。

勝豊や一豊は大規模な石垣を造るほどの石高でなかったことから秀吉が造らせた石垣とみなされています。

1606年内藤信成が藩主となります。信成の移封は大坂城の豊臣に備えるためで、城の大修築が行われました。現在に残る遺構はこの修築時のものとされます。1615年内藤信成は摂津に移封となり、長浜藩は廃藩、城は廃城となりました。

廃城後長浜城の建造物・石垣などは彦根城に移されたとされ、本丸や御殿付近は石垣を含め徹底した破壊が行われたようです。

今まで秀吉の時代に遡れる確実な資料・遺構は発見されていませんでした。今回の発見は、秀吉時代の遺構として注目されています。

残されている長浜城の遺構が2点あります。

知善院の表門-当城の搦手門を移築したもの。

 

大通寺の台所門-当城の大手門を移築したもの。

  

現在の長浜城

   

1983(昭和58)年、天守閣型の「長浜城歴史博物館」として開館しました。工事費は再建を願う多くの市民の寄付によるところが大きかったようです。

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