Monthly Web Magazine Nov. 2019
■ 円空岩探訪顛末記 瀧山幸伸
「一般人は訪問しないほうがいいし、場所も案内していない。」
その言葉が強烈に後ろ髪を引っ張る。下呂合掌村の重文建築大戸家を訪問した後、園内にある円空館で多くの仏像を拝むことができた。
館の 豊富な解説の一つに、円空が住み仏像を制作していたという「円空岩」のコーナーがあり、これはぜひ訪問したいと思った。
だが、園の入場受付の方に場所を伺うと、上記の答えだった。
廃村の奥の山中にある岩で、道は狭くて危険、車の腹を擦るような悪路で乗用車では行けない。市としては観光化したくないので案内しないでほしいと言われている。とのこと。
訪問地への悪路はいつものこと、道があるだけまし。観光化したくないという方針はわかるが、文化財に指定されているのだから見学できるのでは?
と思い、地図ソフトで円空岩なる場所を検索すると、郡上八幡のとんでもない場所を示す。
これは違うだろう。しつこくネットで検索すると、ブログの訪問記で下呂市内にその場所らしそうな情報が出てくるが、行けるのかいけないのかなんとも自信がない。
とにかく現地近くに行ってみよう。確かに進入路は狭くて悪路。目的地付近まで進むと、L型左カーブの正面に小さい看板があった。
「円空岩登り口100m」と書いてある。ところが、道なりに看板の左に曲がって100mほど進むと、現地は激しい崖崩れの現場で、登り口らしきものは見当たらない。
車を停める場所もないのでさらに山奥に進んで転回させて、現場らしき場所を再び見上げると、崖の上にそれらしき?岩が数個見える。
とても危険そうな崖崩れで、岩が降ってきそうだし転落しそうだし、そこを登るのはとてもためらわれたが、こんなことは度々あることだから慎重に登ってみた。
二歩進んで一歩滑落するような崖をよじ登り、崖の上にある岩を、これでもないあれでもないとあちこち探したが、目的の円空岩ではなさそうだ。
悲しいかな夕闇が迫ってくるので やむな退散を決意した。が、道路に降りようにも崖を降下するのは危険極まりないので山を大きく迂回して杉林の中をずり落ちながらやっとのことで道路まで下った。
さて帰ろうかと、車に乗り込むと、看板の先(看板の右側)を見ると、1mほどの高さで堰堤のように大量の瓦礫石が積まれていた。まさかこっち(看板の右側)が円空岩?と、その瓦礫を乗り越えてみると、さらに先に廃道のようなものが見えるではないか。
そこから50mほど進むと、目的の円空岩への登り階段が見えた。円空岩へはその階段を登ってすぐにたどり着いた。
やれやれ、確かに危険な訪問だった。一般の人には絶対におすすめできない。
それにしても、看板に「右矢印」を入れてくれていたら、自分のような危険な目に合う人は減るかもしれない。
そもそも訪問者は数えるほどしかいないだろうが、看板を設置した人は場所を知っているので当然看板の右側だと思い込んでいたのだろう。
今年はお祭りを主に狙っていて、投稿量が激減していますので、新しく指定されたり答申されたりした重要文化財建造物の撮影に行きました。
天野山金剛寺(大阪府河内長野市)
従来から子院の摩尼院を含め、7棟の建造物が重要文化財に指定されていましたが、10月18日付けの文化審議会答申で、本寺22棟、摩尼院3棟の合わせて25棟が重要文化財に指定される見込みとなりました。
五仏堂、薬師堂、閼伽井屋
護摩堂、法具蔵、求聞持堂、開山堂
宝蔵、経蔵
弁財天社本殿、八大龍王善女龍王社本殿、天照皇大神社本殿
築地塀2棟
鎮守水分明神社本殿、鎮守丹生高野明神社本殿、鎮守社拝殿、鎮守社鐘楼
旧理趣院表門、旧真福院表門、南門、総門
摩尼院表門、築地塀2棟
答申どおり指定されれば全山で32棟という重要文化財建造物の宝庫となります。
金堂内の国宝本尊も拝観できますので、ぜひ訪問したい寺院です。
根来寺(和歌山県岩出市)
今年の9月30日付けで6棟の建造物が重要文化財に指定されました。
大門、不動堂、大伝法堂
光明真言殿、行者堂、聖天堂
国宝大塔、重文大師堂に加え、江戸時代建立の6棟が指定され、8棟の国宝・重要文化財建造物を有することになりました。
永平寺(福井県永平寺町)
同じく今年の9月30日付けで19棟の建造物が重要文化財に指定されました。
法堂、仏殿、山門、中雀門
僧堂、大庫院、大光明蔵、監院寮
廻廊5棟
承陽伝本殿及び拝殿、承陽門、経蔵、松平家廟所門
経蔵は木々の合間から覗くだけです。
舎利殿及び祠堂殿、勅使門
かつては全山撮影禁止であったような気がしましたが、今では修行僧を撮影したり建物の外に出なければ内部も含め撮影ができます。
これらの撮影場所では、多くの建造物を撮影したため、結局件数は伸びず、課題は解決されませんでした。
今月の祭り
自分では撮影できませんが、参加した地元の諸羽神社秋季大祭の神輿巡行
■ 「穴村のもんやさん(現・あなむら診療所)」と「くしだんご」 中山辰夫
滋賀県には一風変わった地名、読みづらい地名を多く見かけます。草津市の『穴村 あなむら』もその一つです。
「穴村のもんやさん」(滋賀県草津市穴村町)
その穴村には、「穴村のもんやさん」と呼ばれた墨灸(もんもん)で全国的に知られています。
この墨灸はモグサから採った液を要所(つぼ)につけるだけで熱くないため、夜泣きや夜尿症によく効くことで「癇の虫封じ」と呼ばれ、子連れで訪れ
る人も多かったようです。明治から昭和にかけては大変な墨灸客があったようです。
これらの人々は鉄道を利用して守山駅や草津駅からの歩きと、乗合馬車、人力車や浜大津港から太湖汽船を利用して穴村港に来ることが多く、千人を越す日が珍しくなかったようです。
「近江栗太郡誌)には、日々大津港より穴村行の汽船を1時間ごとに特航するに凡そ満員ならざるはなし。さらに東上からは草津・守山駅に下車して穴村に治を請う者すくなからず、ために志那港頭の茶店は先客万来の繁盛を呈し、と昭和初期の賑わい振りが記されています。
その墨灸は、印岐志呂神社(いきしろじんじゃ)の宮司だった駒井久郎右衛門が神のお告げで、神社の霊験あらたかなお灯明の油煙を集めて墨灸を約300年前に編み出したとあります。(諸説あります)
印岐志呂神社(滋賀県草津市片岡町 延喜式神名帳に記載の式内社)
駒井家は代々続いてきた宮司職を辞して以後墨灸に専念されました。昔は「もん」だけでしたが、現在は「あなむら診療所」として15代目の当主が引継がれ地域貢献されています。墨灸の効用も科学的に証明され、その普及にも努めておられます。希望があれば墨灸も処置されています。
現在の診療所(昔から同じ場所)と大松
樹齢400年を越すといわれる松の大樹。今までに多くの墨灸客を見つめてきた巨大な名木で、墨灸の歴史を知る唯一の老松です。
診療所待合室に掲けられている額
灸點医師駒井徳恆氏が描かせた明治中期の『もんやさん』の門前の風景。米原、彦根、大阪などと書いた提灯を持つ人力車が描かれている。
くしだんご
もんやさんについては、明治、大正の頃までは、お灸の治療代は玄関脇に置かれた箱に『志』を紙に包んで入れていた。また年の暮れには奉公人が餅つきをして、正月の一番客に大きな鏡餅を、またその日の客には小餅を祝儀として贈られていた。当時多くの下足番もおられたとか、大きくて重厚な構えの入口の門前付近には宿屋や出店が出て大変賑わいを呈し、大勢の墨灸客で終日賑わったと地域誌にもあります。
門前で店開きされていたのが「くしだんご」です。お灸を受けに来た子らの楽しみにと、地域の農家の人が約200年前から始められたようです。
薄く削いだ長さ20cm、幅2cmほどの竹の先を十本に裂き、小指ほどの米の団子を1櫛に5個づつ刺して扇方に広げ、炭火で焼いて醤油だけで味付けしたもの。
4~5軒あったお店も無くなり、現在は三代目に当たる、玉泉堂のご夫婦が本業のかたわら受注に応じて焼いておられます。
くしだんごからは素朴な味を、また少しも変わらない町並みと中心である診療所に、地元民の愛着が感じ取れる懐かしい雰囲気が残っています。
「安羅神社」
もんやさんの直ぐ近くの同じ並びにあります。
堂々とした風格のある石鳥居は明治時代に満州国の総務次官であった駒井徳三氏が寄贈したもので、鳥居にかけられた『安羅神社』の額は畳1畳分もある大きなものです。
安羅神社の祭神は新羅の王子、天日槍です。
日本書紀によると新羅の王子、天日槍が渡来し、瀬戸内海から播磨、浪速の港から宇治川をさかのぼり、ここ近江の国にやって来ましたとあります。
天日槍はその過程で医術・製鉄・製陶の技術を日本に伝えました。
ここ穴村では医術が、滋賀・竜王町の鏡では製陶技術が、そして天日槍はその後、若狭に行き兵庫・出石に留まりました。
鏡神社や出石神社の祭神が安羅神社と同じ天日槍なのはこのためです。遠く離れた3つの神社が天日槍という糸でつながります。
安羅神社には焼いた石を布にくるみ、温めて患部を治療する「温石」と呼ばれる黒い石が、社宝として残されています。
伝承では、天日槍がこの地を訪れた時、その子の日三杵が灸術を伝えたのが始まりとされています。
「穴」はもと安那と書き、安那と安羅は音が通じ、朝鮮からの外来語といわれます。
あなむら 「吾名邑」の所在についても諸説があるようです。
十月の上旬に友人夫婦と六名で長野県の「千畳敷カール-御射鹿池-上高地」へ車ででかけました。
私は元々日常生活ではメガネを使用することはなく、車の運転に必要なだけのメガネ使用者なんです。
常にメガネをお使いの方々と比べるとメガネの扱いが雑というか、いいかげんというか、なんと、最初の訪問地の千畳敷カールでメガネを紛失してしまったのです。
旅行先でのメガネ紛失事件はこれで二回目、前回は鵜飼見物の木曽川に落としたことはこのウェブマガジンで報告済かと思います。
従って、これ以降は車の運転は出来ず、今回は友人が同行していましたから事なきを得ましたが迷惑この上もなく、激しく自己嫌悪に陥りました。
これで済めばまだ良かったのです。さらに続きがあります。
当然、紛失したメガネを探しました。バタバタとあちこちと動き回っている内にカメラのISO感度の設定が変更されてしまっていたのでした。
ISO感度65535、これでメガネ紛失以降、気が付かないまま最後の上高地まで撮影を続けてしまいました。
気が付いたのは、帰宅して画像をPCに取り込み、画像を確認した時でした。
この千畳敷カールの画像はISO AUTOで通常に美しい画像が撮影できています。
御射鹿池と上高地の画像は日本画の朦朧体のようで輪郭がぼやけています。
もちろん、RAWから現像する時にLRのディテールを使ってノイズ除去をしたのですが、JGにアップする品質になりませんでした。
サムネイルの画像ではあまり目立ちませんが、本来のサイズで見ると目も当てられません。
ここ最近、文化財の撮影に出かける機会が極端に減少していて、このような旅行は貴重な撮影チャンスなんです。
それを、自身の不注意で台無しにしてしまいました。
失敗の上にさらに失敗を積み重ねるという、失態と言える状況にはただ呆れるばかりです。
有明海北岸の干潟、大授搦は渡り鳥が多数見られる国内有数の野鳥観察ポイントとして知られている。2015年には「東よか干潟」の名でラムサール条約登録地となって保護されるべき場所として国際的にも認定されており、環境省の調査ではシギ・チドリの飛来数では国内最大の場所となっている。
大授搦の搦というのは杭を打って泥を絡ませて陸地を作っていくという江戸時代からの干拓の手法に由来しており、江戸時代には佐賀藩に搦方という役があって大々的に干拓を進めてきたようだ。明治になっても干拓は続きこの大授搦は大正時代に造られた干拓地という。現在の広大な佐賀平野は多くが干満の差が大きい有明海の性質を利用した干拓によっているといってもいいようだ。
渡り鳥にとっては餌が容易に得られる干潟は願ってもない中継地で秋や春の渡りのシーズンには多くの水鳥が羽を休めることになる。
渡りのルートが明らかになってきたのは鳥に取り付けられる小型の発信機の開発とこの信号をリアルタイムで追跡できる衛星利用がもたらしたといってもいい、比較的最近のことだ。多くの渡り鳥が長大なコースを飛行していることが次第に明らかになってきた。
例えばムナグロというシギは南太平洋から北極海の間を右回りに渡っていて春は日本に多く立ち寄る。オオソリハシシギはニュージーランド付近の南太平洋と北極海の間を往復しており最も長い渡りを一気に飛ぶことでも知られている。ムナグロとよく似たダイゼンも夏は北極海、冬は東南アジア付近と長いコースを渡っている。鳥を見るのは頑張れと言いたくなる気持ちもある。
秋の渡りを見に10月15日の大潮の最後の日に大授搦を訪れてみた。
大潮の満潮の1時間前くらいから1時間後位が野鳥観察に適している。潮の時間を外すと浜からはほとんど見えないということが起こる。この日は満潮が午前10時頃で無理して早起きしなくとも楽に到達できる。
数多くの野鳥が水際に来てくれる。多いのはダイゼンで群れをなして時々飛行するさまも壮観だ。大きいシギではダイシャクシギなども群れで飛び回っている。この日はオオソリハシシギもいやすいところに出てきてくれた。ムナグロも多くはないが見かける。その他、クロツラヘラサギ、オバシギ、ハマシギ、トウネン、メダイチドリ、ダイサギなども群れでエサを漁っていて十分に楽しめる。
佐賀空港が近いだけに潮のいい連休などでは関東からのバーダーの姿もよく見かける。鳥は詳しくなくともその景観は貴重で一度は訪れていい場所のように思える。
地図に続いて写真は順に1.群れの飛翔 2.水際の鳥 3.ダイゼン、手前の小さな1羽はトウネン、4.メダイチドリとハマシギ 5.ダイゼンの着水とダイシャクシギ、6.クロツラヘラサギ、7.オオソリハシシギ
毎年どこかで災害が起こっているような気がする。
熊本地震から3年半、熊本城の大天守の外観復旧し、10月5日から熊本城域の一部公開が始まった。
合わせて、二の丸公園から加藤神社前までの連絡通路が開通し、加藤神社にも参拝できやすくなった。
加藤神社の境内からは復興中の熊本城がよく見える。
復旧した大天守の横の小天守は工事中で未だ痛々しいが、大天守の姿は熊本の人たちにとってかつて見慣れた姿で安心できるものだろう。
地震直後、崩れた石垣から阿弥陀様が彫ってあった岩がみつかったが、 当時はがれきのそばに置いてあったものが、今回訪問した時は立派な祠に鎮座されていた。
長い年月をかけて修復された歴史的建造物も災いによってあっと言う間に無くなってしまう。首里城もとても残念だ。
首里城へ行ったとき、わざわざ窓を開けてくれ、あちらのエリアももうすぐ修復が終わるので公開を予定してるんですよ、と教えてくださった係り員の方、とても 悲しかっただろう。
熊本城も少しづつではあるが、以前の姿を取り戻しつつある。
首里城もまたあの壮大な姿を取り戻して欲しい。
竹内街道は、推古天皇の世、難波と飛鳥を結ぶ大道として敷設されたという。日本最古の官道である。是非歩いてみたいと50年前から思っていたが、このほど、その核心部たる竹内の集落を歩いた。
その直接のきっかけは、幼少期を竹内で過ごした司馬遼太郎の「街道をゆく」第1巻第2章である。
「村のなかを、車一台がやっと通れるほどの道が坂をなして走っていて、いまもその道は長尾という山麓の村から竹内村までは路幅も変わらず、依然として無舗装であり、路相はおそらく太古以来変わっていまい。それが竹内街道であり、もし文化庁にその気があって道路をも文化財指定の対象にするなら、長尾―竹内間の本の数丁の間は日本で唯一の国宝に指定さるべき御影であろう。」
令和元年10月19日竹内集落の東端に着いた。この道が竹内街道である。
集落内を進む。道が直線ではなく、右に左に少しぶれて続くのがよい。まさに街道である。
松尾芭蕉は何度も竹内を訪れた。特に「野ざらし紀行」の旅の途中に門人の千里の実家に立ち寄ったが、その折に詠んだ句が、「綿弓や琵琶になぐさむ竹の奥」である。親しくなった村の庄屋さんに贈ったそうだ。その句碑が綿弓塚である。その隣には竹内街道の資料を展示した休憩所がある。
さらに西へ、竹内峠方向に進む。坂がきつくなる。
上りきると国道166号線であり、竹内の集落のほぼ西端となる。古い立派な民家が残っている。
166号線を通って戻る。その途中で北側から見た竹内集落。
同じ本の中で、司馬遼太郎はこうも書いている。
「昭和十八年の晩秋、竹内へ登るべくこの長尾の在所までゆきついたとき、仰ぐと葛城山の山麓は、(中略)声をのむような美しさであるようにおもえた。
くりかえしていうようだが、その葛城をあおぐ場所は、長尾村の北端であることが望ましい。それも田のあぜから望まれよ。」
この場所はどこか?現在の地図で見ると、長尾地区の北端で近鉄南大阪線より西だとすると、葛城市役所當麻庁舎の北側あたりかと思った。ところが現地に行くと、目の前に新池という溜め池の土手が邪魔して西側がよく見えない。そこで、長尾地区でなく、當麻地区の南端になるが、その溜め池の土手に上った。そこから見た東側の奈良盆地と西側の二上山葛城山である。
その後、写真を整理していると、来しなに近鉄南大阪線より撮ったのがよかった。
近鉄電車で奈良に向かう途中、車窓に大きな門が迫ってきます。
そこは平城宮蹟と呼ばれ、世界文化遺産に登録された場所。
古来、奈良の都があったおよそ1400年前に政治機構が集まっていた場所です。
今も静かに遺構は地中(地下2mほど)に眠っています。
その跡地は国営公園平城宮蹟として開放され、当時の建造物を出来うる限り復元したものが建っています。
現在、平城宮蹟の南の正門である朱雀門、当時の天皇が使った大極殿が復元されています。
そして、天皇の即位などの国家行事を執り行う大極殿の前の広場(大極殿院)が復元中です。
大極殿院の入口(南門)の工事現場を今回訪ねてみました・・。
中に入ると南門の一階は出来ており、庇の屋根の造っている所でした。
宮大工の実演(槍鉋、手斧など)
実物の屋根の構造や組物を間近でみることができた。
南門は3年後の令和4年(2022)の春には完成してその雄姿を現す。
所在地:山形県南陽市赤湯駅前
肥料の看板がたくさんそろっていて、思わず「おお~!」と声を上げてしまいました。
中でも「軍配」の印の看板に興味をひかれました。
「軍配印 軍配肥料」は1915(大正4)年創業の日本の総合化学品会社であるデンカ株式会社(旧社名電気化学工業株式会社)で販売された商品で、社内におけるセメント・化学肥料の部門で使用されている商標が「軍配印」とのこと。
デンカ株式会社のHP の商標説明には
『軍配には天下太平・五穀豊穣を祈る意味があり、相撲の勝ち名乗りを上げるときにも使用される大変縁起の良いものです。戦前に肥料を主製品とした当社では、農家に親しみやすいように軍配を商標にしました』、とあります。
軍配はもともと軍の指揮を執る人が持つもので、軍の配置や軍隊の指揮を行う「大将」の意味で使用されるものです。戦国時代に陣中で武士たちが相撲を取りその勝敗を武将たちが軍配で示したという記録もあるようです。
江戸時代になると勧進相撲がはじまり、その勝敗決定には軍配が用いられます。相撲はもともと神事でもありますから、「天下太平・五穀豊穣・子孫繁栄・大魚祈願」などと軍配に記して、その年の稲の実りや魚の好漁不漁などを二者のどちらかが勝つことによって占うという相撲を行う神社も多かったといいます。
農家に親しみやすいための商標です、との商標説明ですが、それだけではなく、これだけ多くの会社の肥料の看板があるということは、競合の激しい市場であり、そこで“大将”になるという企業としての決意、加えて、デンカ株式会社の創業時は第一次世界大戦に突入していくという時代背景がありますから、そこにも“勝つ”という機運の願いが込められていたような……深読みかと思いながらも、綺麗に並んだ肥料の看板を改めてながめました。
今月のにゃんこ
なんじゃこれネコ 乗鞍高原まいめ池の主?
ノラにしては貫禄たっぷり。落ち武者にはきびしい季節がやってくる。乗り切れるかなあ。
Japan Geographic Web Magazine
Editor Yukinobu Takiyama
info at japan-geographic.tv (atを@に入れ替えてください)
■■■■■■■■■■■■■■■■■
All rights reserved 無断転用禁止 登録ユーザ募集中