Monthly Web Magazine Nov. 2019
■ 「穴村のもんやさん(現・あなむら診療所)」と「くしだんご」 中山辰夫
滋賀県には一風変わった地名、読みづらい地名を多く見かけます。草津市の『穴村 あなむら』もその一つです。
「穴村のもんやさん」(滋賀県草津市穴村町)
その穴村には、「穴村のもんやさん」と呼ばれた墨灸(もんもん)で全国的に知られています。
この墨灸はモグサから採った液を要所(つぼ)につけるだけで熱くないため、夜泣きや夜尿症によく効くことで「癇の虫封じ」と呼ばれ、子連れで訪れ
る人も多かったようです。明治から昭和にかけては大変な墨灸客があったようです。
これらの人々は鉄道を利用して守山駅や草津駅からの歩きと、乗合馬車、人力車や浜大津港から太湖汽船を利用して穴村港に来ることが多く、千人を越す日が珍しくなかったようです。
「近江栗太郡誌)には、日々大津港より穴村行の汽船を1時間ごとに特航するに凡そ満員ならざるはなし。さらに東上からは草津・守山駅に下車して穴村に治を請う者すくなからず、ために志那港頭の茶店は先客万来の繁盛を呈し、と昭和初期の賑わい振りが記されています。
その墨灸は、印岐志呂神社(いきしろじんじゃ)の宮司だった駒井久郎右衛門が神のお告げで、神社の霊験あらたかなお灯明の油煙を集めて墨灸を約300年前に編み出したとあります。(諸説あります)
印岐志呂神社(滋賀県草津市片岡町 延喜式神名帳に記載の式内社)
駒井家は代々続いてきた宮司職を辞して以後墨灸に専念されました。昔は「もん」だけでしたが、現在は「あなむら診療所」として15代目の当主が引継がれ地域貢献されています。墨灸の効用も科学的に証明され、その普及にも努めておられます。希望があれば墨灸も処置されています。
現在の診療所(昔から同じ場所)と大松
樹齢400年を越すといわれる松の大樹。今までに多くの墨灸客を見つめてきた巨大な名木で、墨灸の歴史を知る唯一の老松です。
診療所待合室に掲けられている額
灸點医師駒井徳恆氏が描かせた明治中期の『もんやさん』の門前の風景。米原、彦根、大阪などと書いた提灯を持つ人力車が描かれている。
くしだんご
もんやさんについては、明治、大正の頃までは、お灸の治療代は玄関脇に置かれた箱に『志』を紙に包んで入れていた。また年の暮れには奉公人が餅つきをして、正月の一番客に大きな鏡餅を、またその日の客には小餅を祝儀として贈られていた。当時多くの下足番もおられたとか、大きくて重厚な構えの入口の門前付近には宿屋や出店が出て大変賑わいを呈し、大勢の墨灸客で終日賑わったと地域誌にもあります。
門前で店開きされていたのが「くしだんご」です。お灸を受けに来た子らの楽しみにと、地域の農家の人が約200年前から始められたようです。
薄く削いだ長さ20cm、幅2cmほどの竹の先を十本に裂き、小指ほどの米の団子を1櫛に5個づつ刺して扇方に広げ、炭火で焼いて醤油だけで味付けしたもの。
4~5軒あったお店も無くなり、現在は三代目に当たる、玉泉堂のご夫婦が本業のかたわら受注に応じて焼いておられます。
くしだんごからは素朴な味を、また少しも変わらない町並みと中心である診療所に、地元民の愛着が感じ取れる懐かしい雰囲気が残っています。
「安羅神社」
もんやさんの直ぐ近くの同じ並びにあります。
堂々とした風格のある石鳥居は明治時代に満州国の総務次官であった駒井徳三氏が寄贈したもので、鳥居にかけられた『安羅神社』の額は畳1畳分もある大きなものです。
安羅神社の祭神は新羅の王子、天日槍です。
日本書紀によると新羅の王子、天日槍が渡来し、瀬戸内海から播磨、浪速の港から宇治川をさかのぼり、ここ近江の国にやって来ましたとあります。
天日槍はその過程で医術・製鉄・製陶の技術を日本に伝えました。
ここ穴村では医術が、滋賀・竜王町の鏡では製陶技術が、そして天日槍はその後、若狭に行き兵庫・出石に留まりました。
鏡神社や出石神社の祭神が安羅神社と同じ天日槍なのはこのためです。遠く離れた3つの神社が天日槍という糸でつながります。
安羅神社には焼いた石を布にくるみ、温めて患部を治療する「温石」と呼ばれる黒い石が、社宝として残されています。
伝承では、天日槍がこの地を訪れた時、その子の日三杵が灸術を伝えたのが始まりとされています。
「穴」はもと安那と書き、安那と安羅は音が通じ、朝鮮からの外来語といわれます。
あなむら 「吾名邑」の所在についても諸説があるようです。
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