JAPAN GEOGRAPHIC

Monthly Web Magazine Sep. 2020

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■ 柳本石仏めぐり 野崎順次

8月13日、酷暑、晴のち曇り。JR桜井線柳本駅で降りて、専行院の石棺仏を見に行った。駅から少し東へ行くと上ツ道が南北に通っている。そういえば、ここは天理市の南端で、すぐ向こうには巻向遺跡が広がっている。

上ツ道を少し南に行って、東(山側、山の辺の道方面)に入ると専行院である。この地は慶長五年(1615)織田信長の弟で茶人として知られた織田有楽斎の知行地となり、その後、専行院が柳本織田家の菩提寺となった。有楽斎は江戸数奇屋橋御門あたりに屋敷を拝領したが、それが有楽町の名前の由来である。
    


ずらーっと並ぶ石仏の右端が阿弥陀石棺仏で、その左の地蔵石仏に鎌倉中期建治二年(1276)の刻銘があり、作風が似ているので、同作者らしい。
    


その他にもいろいろおられる。
    


ハスの花が咲いていた。気が休まる。
   


電車の時間があったので、急いで駅に向かい、春日大社国宝館に行った。その後、大和の石仏の本を見ていたら、柳本には他にも見るべきものがあるようだ。

8月23日、酷暑晴天、談山神社の石造物を鑑賞してから、再び、柳本駅に降りたった。上ツ道より手前の道を北へ行くと、下長岡公民館がある。ここらにはかつて光蓮寺があったそうで、石仏が並んでいる。専行院と同様の大きな弥陀石棺仏があり、銘は建治二年(1276)
とのこと。細身で裾の開いたところが同じ作者らしい。
   

他の地蔵石仏など。
    


北の四つ角を東にとると、上ツ道沿いに長岳寺五智堂(国重文、鎌倉時代)が建つ。その脇に小石仏が見られる。
     


そこから少し東に入ると、約20体の石仏群がある。
   


阿弥陀と地蔵の双仏石もある。阿弥陀は西方浄土の主、地蔵は現世で衆生を救済する菩薩、地蔵の導きで極楽往生するという阿弥陀信仰である。鎌倉時代には庶民にまで広まった。
   

古墳の石材を多く使用しているのは、近くに県下最大級(600基以上)の龍王山古墳古墳群があり、鎌倉時代中期にかなりの古墳が荒らされたからだろう。それにしても、素朴で優しいお顔の石仏が多数残っておられてよかった。

 

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