JAPAN GEOGRAPHIC

Monthly Web Magazine Oct. 2021

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■  街並みに残る過去の記憶 野崎順次

格子状住宅地を横切る斜めの道

尼崎市武庫之荘あたりの東西南北格子状住宅地の中に斜めに真っ直ぐな道が走っている。1200mほどある。近くの交差点信号を避けるのに便利で、タクシーに乗ると、「斜めの道行ってんか。」と指示しなくても、運転手さんはこのルートを選ぶ。
古代からある道なら面白い。例えば、奈良の太子道は、聖徳太子が斑鳩から飛鳥とを往来されたそうで、条里制の南北方向の地割りに斜交(北方向約20度西、南方向約20度東)している。
40年位前に図書館で大正・明治の古地図を調べてみたことがある。詳細は忘れたが、要するにかつては高圧電線があり、その下は建築制限があったようだ。明治・大正の頃かな。その後、高圧電線のルートが変わり、その下に細い空き地が残ったのだ。
      


昭和初期からある約6kmの南北直線道路、尼宝線

現在では東西や南北の直線幹線道路は珍しくないが、昭和20年代くらいまでは尼崎と宝塚を結ぶ尼宝線は阪神間で珍しい直線道路だった。大正時代後期に宝塚尼崎電気鉄道が設立され阪神電鉄の支援を得て、尼崎と宝塚を結ぶ鉄道路線に着手した。兵庫県や対抗する阪急電鉄との様々な駆け引きの末、昭和2年(1927)末までに西大島(尼崎)と小浜(宝塚)の間の路盤が完成した。しかし、結局、電車をやめてバスの営業に変更され、昭和7年に自動車専用道路がオープンした。これが今の兵庫県道42号尼崎宝塚線である。
もとは2車線だったが、その後、4車線への拡幅工事がほぼ終わりかけである。阪急神戸線を超える陸橋に2車線道路が残っている。
           


武庫川支流枝川と申川の痕跡

西宮市東南部の地図を見ると、JR甲子園口から甲子園球場までに緩やかなカーブの街並みが浮かぶ。これは武庫川のかつて支流枝川の痕跡である。また、甲子園球場のあたりで申川が分かれていた。
「大正10年(1921)頃に兵庫県は、氾濫川であった武庫川を改修するために、この川から分岐する枝川と申川を廃川として払い下げることで資金を得ることを決定する。細長いこの敷地をまとめて買い受けたのが、住宅経営およびレクリエーション施設を建設する構想を抱いていた阪神電鉄であった。その敷地において、まず建設された巨大スタジアムは、竣工した1924(大正13)年の干支にちなんで「甲子園球場」と名付けられた。
(土木学会ホームページより)」
廃川といっても埋め立てたのではない。天井川(川底が周囲の地面より高い川)なので、埋め立てる必要はない。水を止め整地すれば住宅地になる。実際、現在でも廃川部の多くが周囲よりも少し高い。
           


阪神甲子園駅はかつての枝川橋の上にあるらしい。ガード下には古めかしい鉄骨構造が残っている。
 

 

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