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Monthly Web Magazine Oct. 2021

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■ 東海道って・・五十〇次??  酒井英樹

東海道にある宿場は、有名な初代歌川(安藤)広重の浮世絵にもある通り「東海道五十三次」・・起点の江戸日本橋から終点の京三条大橋の間に53の宿場町があるとされている。
しかし、実際にそうだったのでしょうか??

江戸日本橋(歌川広重画:浮世絵)
 

 京三条大橋(歌川広重画:浮世絵)
 


東海道、中山道、甲州街道などのいわゆる五街道は、関ケ原の役の勝利で実権をほぼ握った徳川家康が慶長6年(1601)に整備を始めた。
そして、整備が一応終了したのは二代将軍秀忠の代である寛永元年(1624)とされる。
この間大阪の役で豊臣家は滅亡し、大坂は松平(奥平)領(1615-1619)を経て天領となり幕府の西日本の拠点となっていた。

参勤交代の大名が京に入り、皇室や公家と接触することを極力避けるため、終点を京にするのではなく京の手前で分岐して大坂に向かう街道が整備され東海道の実質の延長路線・・京街道(京では大坂街道と呼ぶ)・・として整備された。
この時東海道と一体整備された京街道は江戸日本橋から53番目の大津宿を過ぎた髭茶屋追分(滋賀県大津市追分町)で東海道分岐し、秀吉時代に整備が始まった文禄堤に沿って伏見宿、淀宿、牧方宿、守口宿をとおり大坂高麗橋に至る。

  大津宿(歌川広重画:浮世絵)


江戸時代中期の幕府道中奉行(主要街道を管轄)の公文書に「東海道は品川宿より守口宿」など記載があり・・弥次喜多が東海道を旅する十返舎一九の『東海道中膝栗毛』も大坂で話は終えている。
などなど・・東海道が実質・・京三条大橋が終点ではなく・・大坂高麗橋になっていたと思われる。
また、現在の一般国道1号のもととなり、ほぼ東海道に沿った明治時代の2号幹線道路も東京日本橋から大阪高麗橋であり、それぞれに道路元標(のちに大阪側は梅田新道に移転)が設置されていた。
つまり、実質江戸中期以降は東海道は五十三次ではなく、京街道の4宿を加えて五十七次となっていた。

そこで今回、実質の東海道の延長路線・・京街道の4宿を訪れてみた。


 伏見宿(京都府京都市伏見区)
  日本橋より54宿目。秀吉により淀川舟運の京側の港町として整備された町
   

 淀宿(京都府京都市伏見区)
  日本橋より55宿目。淀城の城下町として整備された町
  

  淀城址と跡地に建つ與杼神社
 

 枚方宿(大阪府枚方市)
  日本橋より56番目の宿。京と大坂の中間地点
  伏見と大坂(八軒茶屋:現在の京阪本線天満橋駅付近)間の淀川舟運(三十石船)が発展し、人の移動は・・下りは船で、時間・船代とも倍かかる上りは徒歩(京街道)と使い分けられる。
  枚方は下りは寄港地として、上りは宿泊地として片宿となる。
   


 守口宿(大阪府守口市)
  日本橋より57番目で最後の宿。大坂側最初の宿場で清滝街道(至:生駒・斑鳩・奈良、現一般国道163号)の分岐点
   

大阪と京都を結ぶ京阪本線や一般国道1号が京街道に沿っているため、残念ながら京都・大阪のベッドタウンと化して、京街道の名残はところどころにわずかにしか残っていない。

獣道のごとく人の流れが道路を造ると言われている・・東海道も実質二つあることは不思議ではないのだろう・・

奇しくも東海道の一部であった京街道を引き継ぐ京都・大阪間の一般国道1号が2重路線であることにも通じるのでは・・


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