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Monthly Web Magazine Jun 2022


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■蟇股あちこち 26 中山辰夫

今月も和歌山県内です。野上八幡宮(1557)、三郷八幡神社(1559)、三船神社(1560)、且来八幡神社(16世紀末)、加太春日神社(1596)、天満神社(1606)、荒田神社(1624)、紀州東照宮(1623)、普賢院四脚門(1631)です。桃山時代以降の彫刻装飾の先駆けとなった社寺が並びます。

室町後期はいわゆる戦国の世で、中央集権が崩れて各地に戦国大名が領国を制するようになると、技術者の全国的交流は閉ざされて、建物にも地方性が現れるようになりました。なかでも和泉(いずみ)(大阪府)、紀伊(和歌山県)の各地では装飾性を強調し、細部に彫刻・彩色を施すものが現れ、次代の桃山時代の華麗な建築の源流的なものが、地方色として狭い範囲で普及しました。
こうした地方色は中央から離れるほど顕著となり桃山時代に受け継がれてゆき、従来の伝統にとらわれない新意匠が現れる先駆けとなりました。
その先駆けとなったのが紀伊大工でした。製材職であるオガ挽きと木挽きの専業化も彫刻的装飾発展の一因となりました。


1557 野上八幡宮 本殿
和歌山県海草郡紀美野町小畑

552年大和国より野上へ八幡神を勧請。野上荘24カ村(現、海南市東部および紀美野町西部)の産土神
987年に石清水八幡宮の別宮となり、1025年に社殿が造営されました。 1541年、根来寺衆徒の来襲で社殿、財宝、文書などを焼失。1557年、近江国出身の本願坊真賢が社殿・堂舎の再建を決意し、野上荘をはじめ各地に勧進を行って復興させました。
1570年には宝蔵・若宮殿・護摩堂が再建され、1573年に東に本願寺、西に神宮寺が建立されましたが、神仏分離で除去されました。
江戸時代は紀州藩主の歴代徳川氏から寄進・他を受けました。

鳥居~中門 板蟇股が見られます。
    

絵馬殿
      

拝殿 国重文 再建:1573 一重 入母屋造
     

本殿 国重文 再建:1557 三間社流造
    

鐘楼
   

武内神社 国重文 最御軒:1573 一間社流造
     

平野今木神社 国重文 再建:1557 三間社流造
   

蟇股
   

手狭
  

身舎欄間の彫刻
     

高良玉垂神社 国重文 再建:1573 一間社流造
     

 


三郷八幡神社(1559)、三船神社(1560)、、

文明・応仁の乱後、戦国大名が勢力を各地で拡大すると、奈良・和歌山などでは木鼻・蟇股などの内部彫刻が発達し、地方において輪郭部分が肥大、拡張化されてゆきました。こうした地方色は中央から離れるほど顕著となり桃山時代に受け継がれてゆき、従来の伝統にとらわれない新意匠が現れる先駆けとなりました。製材職であるオガ挽きと木挽きの専業化も彫刻的装飾発展の一因となりました。

1559 三郷八幡神社 本堂
和歌山県海南市下津町黒田269

神社勧進の由来、年期は不明ですが、「さんごの宮」とよばれ、古くから当地丸太・黒田・丁の3大字の産土神として「三郷の宮」と呼ばれ崇拝されてきました。
棟札より1559年の建立が明らかで、以後21年を式年として、修理の繰り返しを行い守り伝えられています。
全体的に均整のとれた比較的小規模な社殿で、旧は丹塗りと彩色が施された痕跡がありますが、復原が行われていません。

国道から山道に入り、第一鳥居から第二鳥居の間は桜並木。1m強幅の参道は約500m続き、かなりの急坂でヘトヘトでした。
      
参道は桜並木でトンネルをなし、モミジ、ツツジ、アジサイ、菊を植え、美観を呈し、桜古木は1923年に植えたもので、其後補植し、現在400本以上となっているようです。

本殿 国重文 建立:1559 三間社流造 桧皮葺 向拝付
    
小柄な社殿で、様式的には室町末期の特徴をよく表しています。

細部
    
妻飾
    
出三つ斗・木鼻・他
    
蟇股、木鼻などの彫刻類は、輪郭一杯に内部彫刻が浮き出すという桃山様式の先駆けが垣間見られます。

向拝の蟇股
    

身社の蟇股
     

 


1590 三船神社 本殿 摂社2棟 
和歌山県紀の川市桃山町神田

平成2003年11月から2004年12月まで、塗装修理、屋根の葺替工事が行われました

三船神社の草創は明らかでないですが、古くから安楽川荘の産土神であったと推定されています。
三船神社は天正の始め織田信長の高野山攻めで焼失しましたが、木喰上人が社地を現在地に遷して再興したとされ、現在の社殿はこの時のものです。
本殿には木喰上人應其の花押のある棟札が残っており、1590年に造替、翌年に上遷宮されています。摂社の2棟は1599年の再建です。

棟札に残る「大工 坂本 刑部左衛門(吉次)」は天満神社の建築も行い、その後仙台の大崎八幡宮の造営に携わって高名な宮大工です。
三船神社は和歌山県下における装飾の多い桃山時代の神社本殿の一例として価値が高いとされます。

秀吉の高野山征伐から高野山を救った木喰上人は高野山の「中興の祖」と仰がれました。
秀吉は木喰上人を通じて城の造営から、寺院造営に力を注ぐようになりました。上人は、戦災で荒廃した諸国の社寺を多く再興されました。

本殿と摂社二殿が南北にならんでいます。2003~05年の間、修理保存工事が行われました。
  

本殿 国重文 建立:1590 三間社 身舎側面二間 浜床・縁付 組物出三斗 中備蟇股 妻二重虹梁大瓶束 流造 向拝三間 檜皮葺
   
細部
      
本殿の内外前面に彩色を施し、両側面の板壁に彩色の絵があり、本殿脇障子には浮彫りを描いています。
木鼻や蟇股の彫刻は派手です。全体に華麗で、桃山時代の様相を伝えています。

蟇股派向拝に3個、身舎3個配されています
向拝
   
蟇股
   
向拝北側 現在表・竣工時表・裏
   
向拝中央 現在表・竣工時表・裏
   
向拝南側 現在表・竣工時表・裏
   

身舎の蟇股 北側・中央・南側
   

身舎欄間彫刻 気正面北側・中央・南側
   

摂社 丹生明神社と高野明神社
 
二殿ともに内外前面に彩色を施し、両側面の板壁に彩色の絵があり人物画を描きます。木鼻や蟇股の彫刻は派手です。

丹生明神社 国重文 建立:1561 一間社 身舎側面一間 縁三方 浜縁 中備蟇股 春日造 檜皮葺
      

向拝蟇股
  

身舎蟇股 北側・中央・南側
   

高野明神社 国重文 建立:1561 一間社 身舎側面一間 縁三方 浜縁 中備蟇股 春日造 檜皮葺 丹生明神社と同一形式
      

向拝蟇股
    

身舎 北側・中央・南側
   

3社殿は全体に保存がよく、各所に種々の彫刻が施されたうえ極彩色にいろどられ、和歌山県下における華麗な桃山時代の形式、手法を示す社殿として価値のある遺構です。
装飾彫刻に優れた紀州大工、中でも後世彫刻の名人「左甚五郎」のモデルの一人とされた刑部左衛門国次が携わった建築の一つで、桃山建築の先駆けとなりました。

残された棟札の中にあります、「大工 坂本 刑部左衛門(吉次)」は根来坂本の出身です。
近親者の国次は、仙台の大崎八幡宮(1607年)及び瑞巌寺(1609年)-ともに国宝 伊達正宗の創建―を棟梁として設計施工しました。
刑部左衛門国次は、後世彫刻の名人「左甚五郎」のモデルの一人とされています。
同一家系の刑部左衛門正昭は江戸幕府に登用され、増上寺本堂や日光東照宮などで棟梁として腕を発揮したとされています。

 


16世紀末 且来(あっそ)八幡神社 本殿 
和歌山県海南市且来1316

(1989年から1991年にかけて修理工事が行われました)

旦来八幡神社は、海南市の通称「宮山」の中腹にあって、華麗な社殿を誇る神社です。
当神社は、旧且来村の氏神で社伝によれば、神功皇后が三韓から凱旋の折り、立寄られた行宮跡に社を建てて祀ったのに始まるとされています。
当神社には中世大名の土地寄進状が多数残っており、且来庄の鎮守として栄えていたと思われます。

社殿の建立年次を明示する資料はありませんが、様式技法からみて桃山時代、十六世紀終わりごろの建立とされます。
建立当初の部材及び形態がよく保存され、細部意匠にも優れています。
彫刻の各部には、平内家の吉政・正信親子の実作とされる天満神社本殿・末社に極似したものがあり、その影響が強く感じられるとされています。

拝殿周辺
      
瑞垣の隙間からの撮影しかできず、全体が把握できません。工事報告書、他の資料からの抜粋(一部加工含む)を含めて画像を並べます。

境内―社殿
   

本殿 県指定 建立:江戸初期 三間社流造 桁行三間 梁間二間 銅板葺(もと 桧皮葺) 向拝付 
正面全景~正側面(西北)~正側面(西南)~背側面全景(東北)
    
身舎は前方一間を外陣、後方一間は外陣から床高を一段上げ内陣とし三室に区切っています。正側面の三方に廻縁をまわし擬宝珠高欄を置き背面との見切りに脇障子を置きます。
建立時期は不明ですが、様式技法から見て細微意匠も優れ、桃山時代の様相を示しています。
絵様も渦は細く緊張感があり、江戸初期の形態が保たれています。


   
虹梁大瓶束。身舎隅組物上の桁と組んで絵様付虹梁を架け、中央に大瓶束を置き両端を横板壁とする。
大瓶束には絵様木鼻を付け、大瓶束上に連三ツ斗肘木組物をのせて、差棟木を受けています。妻側中央柱上組物には手先に木鼻を付けます。
妻虹梁は、側面には絵様を彫り、渦・若葉・弓眉・欠眉を配置しています。渦幅は細く若葉も渦に接して彫り始めています。

向拝 向拝組物は脇間真で左右対称となっています。
  
向拝は、桁行三間 梁間一間 浜床を設けています。五段の木階を設け、登高欄を置いています。 
向拝柱は面取角柱、礎石建とし、地貫を梁間に入れ、身舎と緊結しています。
細部
      
正面両脇間は柱頭に龍頭と・象鼻の丸彫彫刻を配しています。
象鼻は向かって右側が阿形、左側が吽形です。これは和歌浦天満神社末社天照皇太神宮豊受大神宮本殿の向拝頭貫象鼻と極似しています。龍頭は両脇間の中の間に付け、向って右側が阿形、左側が吽形で、中の間で向い合っています。
和歌浦天満神社末社天照皇太神宮豊受大神宮本殿の向拝頭貫象鼻
  

蟇股は向拝四個(表裏)と身舎に六個配されていますが、身舎分は撮影できません。

向拝の蟇股 枠と枠内の彫刻は一体となっています。蟇股は枠尻で頭貫に釘内で留めており、巻斗と共に取り外し可能です。
向かって左側 表・見返し 虎に竹・見返しは椿
   
向かって右側 表・見返し 唐獅子に牡丹・見返しは牡丹
   

身舎の蟇股
枠外線近くまではみ出した彫刻もあります。 側面にあるものがカツカツ写せました。
身舎 南側面 海馬を阿・吽として向かい合わせとしています。
   
身舎 北側面 桃(実と花)とあやめ
    
身舎正面 中の間は宝亀・竹・松・木の実 脇間は松と鶴 
   

蟇股上には雲肘木をおいています。同じ形式のものが和歌浦天満神社本殿(1606)の向拝蟇股上に見られます。
  

脇障子彫刻 厚み六十mmの一枚板から彫り出し、額縁内に嵌めこみます。
右側 鶏の親と子・太鼓・椿 左側 鷹の親と子 松
  
この題材は、和歌浦天満神社宮の本殿の脇障子と同じです。脇障子上の竹の節欄間は、右が五十三桐、左側が牡丹・唐草を薄肉丸彫りしています。
 

北側面 東側:布袋和尚・恵比寿・槇・紅梅 西側:大黒天・弁財天女・童子・槇・紅梅


南側面 東川:弁財天女(吉祥天)・寿老人・福緑寿・槇・白梅 東側:毘沙門天・童子・槇・白梅


1596 加太春日神社 本殿
和歌山市加太1343

創立時期は不明です。『紀伊続風土記』によれば当初は天照大神一神を祀っていましたが、中世に住吉社を合祀し、さらに春日三神を合祀し、1303年頃春日神社と称するようになったとあります。現本殿は1596年に桑山修理亮正栄が建立したものです。
加太は古代より水陸交通の要衝で、南海道の本衆最南端の渡津集落として栄えました。幕末には海防の拠点として注目され勝海舟も巡見に訪れました。明治になると友ケ島とともに由良要塞として軍事上の要衝になりました。
紀淡海峡に面して漁業の盛んなところ―特にタイの一本釣漁業として知られ、古い町並みも漁村の風情を残しています。
彫刻が見もので、蟇股二は豪快なエビや貝など、漁村ならではの珍しい彫刻が施されています。

外観 1980年頃の社殿 現在は幾分か異なっています。
   

拝殿~本殿と繋がっています。
  

向拝の一部
  

向拝には透彫の蟇股が3個配されています
向かって左側 表面と裏面 表面は竹に虎、裏面は竹に椿です
   

中央 表面と裏面 表面は雲に龍、裏面は雲
   

右側 
表面と裏面 表面は牡丹に唐獅子 裏面は牡丹
   

本殿 国重文 建立:1596 身舎正面一間背面三間側面二間 庇通し一間 流造 正面千鳥破風 軒唐破風付 桧皮葺
 
正面は一間ですが、側面二間、背面三間です。内部は前後に内外陣に分け、正面は格子戸引違とし、内外陣境には二本の面取り角柱を立てて三間とし、各間に板扉を構えます。

身舎には多くの蟇股が配されています。中央、東側、西側、後側に配されている蟇股は各々異なったものです。 撮影は上手くできませんでしたので省略します。
 
向かって左側 恵比寿
  
正面中央 宝珠
  
向かって右側 大黒天
  

身舎東側には「迦陵頻伽 (かりょうびんが)とその他
  
迦陵頻伽は梵語で極楽鳥のこと、人頭鳥身で仏前を飾る華鬢にも用いられ、蟇股の飾りに用いられたのは類例がないとされました。(当時)

西側
貝類と波に海老.
   

身舎後ろ側
水に若葉と筆
      

雲に龍・竹に虎・迦陵頻伽・貝・波に海老・菊花など多種多様で、特に海老・貝・恵比寿など海に関する題材が見られることは漁村の神社として注目されます


身舎組物
木鼻、蟇股、手狭、欄間、脇障子などの彫刻が雄大で、豪壮でよく桃山時代の特徴を表しているとされ、重文に指定されています。
    

参考 本殿
 


1606 天満神社 本殿 
和歌山市和歌浦西二丁目1-24

和歌浦天神山の中腹(海抜93m)に位置します。菅原道真を祀り、和歌浦一円の氏神です。
創建は964~8年橘直幹が大宰府から帰京の折りに道真を追慕して、この地に社殿を創建したことことに始まると伝わっています。
大宰府天満宮と北野天満宮と当社を併せ日本三所の霊域として、朝野の尊崇が厚く、ことに紀州の歴代藩主は深く信仰されました。

1585年秀吉の紀州攻めで焼失、1606年に藩主浅野幸長によって再建されたのが現在の社殿です。本殿・唐門・瑞垣・楼門・回廊よりなっています。
躍動感あふれる彫刻が施され、桃山時代の華麗な建築様式を代表する本殿には、千鳥破風設けられて優美な檜皮屋根がのっています。
建築は、紀州の大工平内家の吉政・正信親子の実作です。近世を代表する木割書「匠」を著した江戸期大工技術の二大流派の一つです。
建築彫刻の先駆けの役割を果たした平内家一党は、大崎八幡宮や仙台城を手掛け、日光東照宮・他の造営に携わりました。

見上げるような高い石垣と急勾配の石段、その上に建つ楼門と左右の回廊は参拝者を圧倒します。楼門からの和歌浦の眺めは疲れを癒してくれます。
     

楼門 一間一戸楼門 正面の柱間は4.6m、棟高さ10.6m 全国的にも最大規模です。 熊本城・和歌山城・姫路城などで見られる「滴水瓦」が見えます。
   
「禅宗様式」を基調とした造形の先駆けといわれます。軒を支える組物は禅宗様で、肘木の先端が独特の繰り形となっています。
垂木は隅に向かって放射状に配される「扇垂木」で禅宗様。軒先の平瓦は「滴水瓦」で、朝鮮の役で伝えられた形式です。
楼門は神社建築としては特異な造形とされます。

唐門から続く瑞垣内に囲まれた内に本殿が建っています。(本殿・唐門・瑞垣)
   

唐門 (拝所)
  

唐門から先が本殿です。唐門の参拝場所からしか撮影が出来ず、外から全貌を眺めることや、細部の撮影がしづらく残念でした。

本殿と正面詳細 建築彫刻と塗装彩色は桃山建築を特徴つける代表的な装飾技法が観られます。
  
本殿 国宝 建立:1606 桁行五間 梁間二間 向拝三間 組物出組 中備蟇股 二軒繁垂木 入母屋造 妻虹梁大瓶束 千鳥破風 桧皮葺
     
入母屋造りの屋根形式は神社本殿では例が少なく、正面の千鳥破風も特異。正面柱間装置のうち中央三間を引違格子戸、両脇間を板扉とします。
柱上部から桁に至る間に施された極彩色、壁に描かれた彩色による華麗な装飾に目を奪われます。蟇股、木鼻、軒板支輪、手挟の彫刻には目を見張ります。

妻飾
   
千鳥破風大きく屋根は派手。 中央間には牡丹の丸彫りの手挟を飾ります.虹梁下に「大斗花肘木」の組物を置いています。
これは奈良県下の建物に見られる特徴的な意匠です。奈良大工・技術とのつながりが読めます。琵琶板に牡丹唐草を高肉に彫り出した彫刻を嵌めこむ。

向拝手挟み
 
背面側に組み込まれています。牡丹、菊が籠彫りの技法で立体彫刻です。

「獏」と「龍」
  
向拝と身舎をつなぐ海老虹梁の身舎側にある根肘木に付く完全な丸彫りの「獏」の彫刻。
向拝頭貫の先端には「龍頭」の木鼻、阿吽形。龍頭を取り巻く雲が大振りで迫力ある造形を成す。海老虹梁にも彫刻

脇障子
  
身舎両側面に嵌めこむ。幅67cm、高さ1.1mの一枚板から彫り出す。東側は太鼓と鶏、西側は松と鷹。東西で文武が対を成しています。

欄間 鴨居上の欄間には「梅に鶯」の彫刻が嵌る。菅原道真に因む主題です。
 

蟇股は向拝と身舎に配されています。時代の風潮を反映して動植物らの姿を彫り出した多彩な彫刻で飾られています。

向拝
   

向拝の柱間に据える三個の蟇股 各々の(表面と裏面)の順に並べます。
      
中央に「龍」(天空の支配者)、右に「獅子」、左に「虎」(ともに地上の王者) 蟇股の輪郭からはみ出るほど肉厚に彫り出しています。

身舎蟇股
各柱間の中備に飾られ、鶴亀をはじめとする総数14個の彫刻で彩られています。数点を並べます。
     
鳳凰、キリン、鯉など吉祥、奇譚を表わす図像に満ちています。

撮影できる蟇股は僅かです。コピーを並べます。 (1977年修理工事終了時に撮影されたものです~
              

大工「塀内七郎右衛門尉平吉政」は、家伝によると根来の出身で、京都方広寺大仏殿造営に際して、「二十人棟梁」の一人となり、宝塔型の厨子をつくり、秀吉の豊国廟の造営にも従事しています。
吉政の父為吉は、「聚楽第」に唐門を建て、その彫刻の出来栄えの良さから、秀吉直々に米百表を頂戴したとされます。
吉政の子、政信は天満神社造営の翌年(1607)関東へ下り、茨城県の鹿島神宮(1619)、東照宮の元和造営、等に参加しています。
1624年「平之内七郎兵衛正信」は岩出市に所在する荒田神社に江戸から自作の狛犬を寄進しました。
1632年に大将軍秀忠の台徳院廟の造営に棟梁の一人として名を連ね、その年「平内越前守正信」は幕府の作事方大統領職に就任しました。

大工塀内氏は親子三代にわたって、常に時代の求める造形を創り上げる場に居合わせたと言えます。
天満神社に見られる種々の先駆的な建築手法は近世初頭を代表する造営に参画し、技術的な交流と研鑚の中で培われた工匠の技を以って初めて実現したとされます。

            

末社は本殿と同時期の建立と推定されています。いずれのも中備に蟇股が置かれ、柱上部から桁にかけて極彩色が施されています。
 
末社の覆屋。覆屋内部には向かって左から多賀神社(重要文化財)、天照皇太神宮・豊受大神宮(重要文化財)、白山比賣神社の3棟が建つ。

末社多賀神社本殿 国重文 建立:桃山時代 一間社春日造 桧皮葺
  
身舎3方の縁と浜縁を備えます。身舎の正側面に中備として蟇股を置きます。柱上部から桁にかけて極彩色が施されています。
     

天照皇太神宮 ・ 豊受大神宮本殿 国重文 二間社流造 桧皮葺
写真24~32
本殿と同時期の建立とされます。身舎3方の縁と浜縁を備えます。身舎の正側面に中備賭して蟇股を置きます。
柱上部から桁にかけて極彩色が施されています。



1624 荒田神社 本殿
和歌山県那賀郡岩出町森237

草創の起源は明確でないですが、「延喜式神名帳」に「那賀郡荒田神社二座」と記載されています。近隣5地区の産土神です。
神社は豊臣秀吉の根来攻めの際に焼失しましたが、1624年頃に再建されました。これが現在の本殿です。
江戸時代初期の優れた建造物として県文化財の指定を受けました。2002(平成14年)から2006年の間修理工事が行われました。
  

本殿 県指定文化財 再建:1624 桁行三間、梁間二間、三間社流造 向拝付、 内部で内外陣に仕切る、檜皮葺
    
全体に丹塗りで彩られており、塀内正信の寄進とされる彫刻が飾られている。
:
蟇股は向拝と身舎に配されています
配置図
 

向拝
 
向拝は三間、浜縁付、五級の木階段を置き、登高欄を備えています。柱は八面取、和歌浦天満宮(1606)と同じく、和歌浦東照宮(1621)よりは古式です。

向拝の蟇股 
正面 西側(虎)~中央(龍)~東側(虎)
   
裏面 西側(梅)~中央(波)~東側(笹)
   

身舎の蟇股
正面 西側(鶴) ~中央(亀と仙人)~東側(鳳凰 ) 
   
背面 西側(桃)~中央(菊)~東側(牡丹)
   

妻飾りと蟇股
二重虹梁大瓶束。大虹梁上の両端に出三斗組の組物を置き、中央には大斗花肘木を置いて、二重虹梁を受けています。
蟇股
西面 北側 (鶏 雄雌3羽)~南側 (鶏 雄)
   
東面 北側 (山鳥雄)~南側 (山鳥雄雌3羽)
  

向拝の木鼻と手狭 材質は楠
   
向拝木鼻は彫りの深い見事な竜頭で、頂部に『屏清左衛門 (花押)』とあります ( 頭部 墨書)
手狭みは丸彫で、主題「菊」「牡丹」が和歌浦天満宮のものと同一で、デザインも類似していますが、菊の花弁の彫り方は当本殿の方が繊細です。

狛犬台座銘には、平之内七郎兵衛正信が江戸城にいた時、玳瑁(たいまい ベッコウ)の狛犬を送ったと記されています。
この頂部に『屏清左衛門 (花押)の墨書が残っています。「平之内」氏は慶長の頃には「塀内」と名乗り、元和には「平之内正信」、更に『平内』と変遷しています。

脇障子の主題は、「栗鼠に枇杷」「鯉の滝登り」の二種。栗鼠との取り合せに着目すると、天満宮では枇杷、東照宮では葡萄を配しており、天満宮との類似性が 見られます。
   
欄間・脇障子と蟇股はヒノキの一枚板を彫り抜いて作られ、奥行きが深く立体的でかつ細かい毛筋まで丹念に表した繊細な表現となっており、相当の技量をもった人物の作とされています。
彫刻は江戸にいる「屏」が担当し、建物本体は一族である地元の大工が建てたとも考えられています

説明 
 

1606年の和歌山天満宮棟札に「堀内七郎右衛門尉平吉政」とあります。吉政は正信の父です。
また、1619年の鹿島神宮狛犬胎内銘に「紀州根来 平之内正信」銘があり、1632年の台徳院廟石刻銘に「平内越前正信」とあります。
『匠明 しょうめい』は1608年に平内吉政(政信の父)が著した奥書ですが、現存しているのは写本の様とされます。


1621 紀州東照宮
和歌山県海草郡和歌浦町東照宮境内

紀州東照宮は、徳川家康(東照大権現)と紀州藩初代藩主・徳川頼宣(南龍大神)を祀っています
東照宮は雑賀山に位置し、和歌浦湾の入り江を眼下に納め、西には和歌浦天満宮が、東には玉津島神社が位置します。
徳川家康の十男である徳川頼宣は紀州藩主になると、南海道の総鎮護として東照大権現を祀る社殿を起工1621年に完成しました。

本殿 国重文 建立:1621社殿の建築様式は伝統的な和様を用い、左甚五郎作の彫刻など様々な彫り物で飾る。 内外部共に黒漆、赤漆を塗り、複雑な組物や彫刻類には極彩色を施し鍍金の飾金具を施す。代表的な江戸時代初期の建造物。狩野探幽作の壁画や狩野派、土佐派の壁画で彩られている。この豪華な社殿は俗に紀州の日光と称されます。石の間・拝殿・瑞垣・唐門はいずれも国重文 建立:1621

108段の石階段を登り切った高台の南端に楼門が南面し、その両端に東西廻廊が建っています。ここから見る景勝地和歌浦の眺めは素晴らしいです。
楼門をくぐると、東側に神輿舎、西側に御供所が建ち、権現造の社殿が正面に拡がります。
   

一段高くなった社地北側は、唐門、東西瑞垣で囲われ、その中に拝殿・石の間・本殿が建っています。
    

社殿の撮影は禁止されていますので、以下は修理工事報告書のコピーを転載させて頂きます。(1998~2000年の間実施)

社殿正面と向拝及び拝殿正面
  

向拝及び拝殿正面 拝殿正側面 拝殿及び石の間東側面
  

本殿東側面・本殿背面
  

本殿内部及び宮殿正面写真13~14
  

蟇股
社殿組物廻り
本殿外部組物廻り・拝殿外部組物廻り・石の間内部組物廻り
   

向拝蟇股 向拝は三間
東間 正面(虎・竹・岩・筍) ・見返し (鶯・梅・竹・岩)
  
中央間 正面(龍・波) ・見返し(飛龍 ・波)
  
西間 正面(虎・竹・岩・梅・筍) ・見返し (鳩・竹・岩)
  

本殿正面蟇股
東間~正面~西間
   

本殿内部 外陣蟇股
東面・西面
  
北面 東間 ・ 中央間 ・ 西間
   

本殿内部 宮殿蟇股 東間~中央間~西間
   

本殿・石の間・拝殿・蟇股(外部) 配置図
 

拝殿南面左端より第一間
  

拝殿北面東端から第一間
  

本殿東面南間
  

石の間南面東間
  

本殿入母屋妻破風廻り―西間
   

拝殿正面千鳥破風廻り
  

拝殿入母屋妻破風廻り―西面
   

唐門と唐門妻蟇股~裏門、蟇股~手水舎・板蟇股
      

組物詳細
    

向拝手狭
  

見取り図
1918(大正七年)に行われました塗装修理で、約300点に及ぶ見取り図が作成されました。
極彩色で描かれ、その上に絵の具の色名が墨で注記されており、各細部の指示が書き込まれています。
     




1631 普賢院 四脚門 

1996年保守修理工事実施
和歌山県伊都郡高野町高野山

普賢院は、高野山のほぼ中心部の千手院谷に所在する、高野山真言宗の寺院です。
院は、1143年に開創され、1149年に火災で類焼し、その後再建されました。しかし1888年の付近一帯の火災で悉く延焼しました。
1889年から1892年にかけて寺院の再建に取り掛かりました。

四脚門は平唐門形式の四脚門で、もと金剛峯寺の裏山の東照宮にあったものを、明治時代に移築したものといわれています。
寛永年間(1624年~1643年)に行人(ぎょうにん)方によって造営されたとされます。

四脚門 国重文 建立:1631 移築:1892 四脚門は平唐門形式の四脚門 檜皮葺 
旧行人方東照宮の遺構とされ、和歌山県内では数少ない四脚平唐門形式の構造で檜皮葺です。

正面と背面の全景と正面・背面軸組詳細
正面側
    

裏側
   

以上の画像は1996年3月の「修理工事報告書」より転載しました

唐門組物詳細
  
軸部は丹塗で、蟇股、木鼻等の彫刻に極彩色を施し、龍、天女、鳳凰の絵彩色が虹梁へ巧みに描かれており、細部の手法に江戸時代初期の特徴を示します。装飾性の強い意匠で、手法は巧み、地方的な特色が見られることで注目されています。

唐門虹梁彫刻
  

側面妻飾り
   
木鼻
   

蟇股 中備の桁行にかかる蟇股

     



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