Monthly Web Magazine June 2022
■ 失われた建造物 =重文跡を訪ねて= 與杼神社本殿 酒井英樹
明治30年(1897)に「古社寺保存法」に基づいて特別保存建造物の指定から125年・・5578棟(令和4年5月答申分を含む)の建造物が重要文化財(古社寺保存法での特別保存建造物、国宝保存法での国宝を含む)に指定された。
しかしながらこの内、第二次世界大戦末期の戦災による焼失などにより滅失で指定解除された建造物は242棟となっている。
重要文化財指定解除後、跡地に再建したものもあれば更地のものも存在している。
そこで、かつて重要文化財建造物のあった場所を訪ね、その現状をかつての雄姿(古写真)と共に紹介していきます。
淀川水系の本川は琵琶湖から流れ出る宇治川(滋賀県内は瀬田川)が石清水八幡宮のある男山の麓附近(京都府八幡市)で木津川と桂川と3川合流して淀川となる。
淀川の名前の由来となる淀は合流点の上流側の中州にある。
彼の地には稲葉家10万石の居城淀城(京都市伏見区淀本町)・・京阪本線淀駅から徒歩で数分のところにあり、この城跡に鎮座するのが與杼(よど)神社。
淀城天守跡
與杼神社
與杼神社はかつて現在地より更に北側の桂川の川べり(淀水垂地区)にあった。
記録では9世紀中半には存在していた。本殿と拝殿は豊臣秀頼が片桐且元を奉行として慶長12年(1607)に再建。(慶安3年(1650)に修理が行われているが、この時に建て替えられたという説もある)
明治になって桂川拡幅工事のため現在地に移座し、本殿と拝殿は移築された。
祭神は與止日女(よどひめ)などの3柱。
移築したにもかかわらず当初部材が良好に残っていることなどから昭和46年(1971)6月22日に本殿と拝殿が重要文化財に指定された。しかし、昭和50年(1975)8月5日、中学生による遊興用の打ち上げ花火(ロケット花火)が本殿の檜皮葺の屋根に着火し本殿は全焼した。拝殿は屋根を一部破損したが、修復され現存している。
與杼神社拝殿(現存)
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焼失した本殿は5間社(正面の柱の間が5つある)流造。中央の3間を内陣外陣に分けて神殿(祭神が3柱のため)とし、両端1間は正面に出入口のない(外陣との間に出入口がある)納殿にした特殊な形状を持っていた。
焼失前の本殿 平面図(基図:『重要文化財13 建造物Ⅱ 社寺-本殿 文化庁監修』より)
手挟・蟇股、妻飾りに装飾的手法が濃く見られた。
焼失前の本殿(『戦災等による焼失文化財 文化庁』より)
正面
写真には向拝部分の蟇股彫刻が施されているのがわかる。また、両端1間分には祭神がなく、参拝用の鈴についた麻縄が見当たらない。
南側妻部分
向拝部分
写真右上に草花の彫刻を施された手鋏が、中央間の蟇股彫刻が見受けられる。
外陣部分
写真中央奥に両端1間分の納殿への扉が見受けられる。
背面部分
写真中央上にある脇障子・・鳳凰の彫刻で充満しているとされるが、残念ながら写真では確認できない。
跡地には、昭和55年(1980)に再建された本殿が立つ。現在の本殿は3間社流造で焼失前の5間社より規模が縮小されている。焼失した本殿の中央3間の神殿を1間にして両側に1間分を納殿と付けた形式の3間社とした。
また手挟や蟇股の彫刻は向拝中央の蟇股以外見当たらなかった。残念ながら再建された新しい本殿には装飾をあまり取り入られなかったようだ。
再建された本殿
内部
與杼神社本殿は元の位置に再建されたが、残念ながら5間社流造を3間社に縮小し、特徴的な装飾を省かれた。
未見のまま消滅した本殿を残された写真からしか往時の姿を想像するしかない。
現地に立って改めて惜しむ気持ちとせめて写真だけでも・・少しでもという後世に・・という気持ちが沸き上がる・・
そう・・JAPAN
GEOGRAPHICのコンセプトを胸に秘め彼の地を後にした・・。
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