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Monthly Web Magazine Oct. 2022


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■蟇股あちこち 30 中山辰夫

建築彫刻が全般的に大発展をしたとされます桃山時代に入ります。蟇股も輪郭より内部彫刻に注力が注がれ、華麗精巧その極に達したものが多いとされます。
この時期は、欄間や懸魚にも同様優れた彫刻が見られます。地方への広がりも見ものです。順不同ですが並べて行きます。
今月は北野天満宮(京都)、禅林寺(永観堂 京都))、生善院(熊本)です。


1607 北野天満宮 
京都市上京区馬喰町 神紋:星梅鉢紋

北野天満宮は菅原道真を祭神としています。
「縁起」によると、北野の地に菅原道真の御霊を祀ったのが947年で、当社は道真の霊を慰める御廟として創始されたとされます。
道真は民間人として初めて神として祀られた第一号です。九州の大宰府神社と共に、道真を祀った神社の双璧です。

社殿は、本殿・石の間・拝殿・楽の間よりなる権現造の代表的な遺構で、「石の間造」あるいは「八棟造」とも呼ばれ、最古のものです。
この形式は平安後期に成立していたとみられ、近世になって数多くの霊廟建築に採用されました。

現在の社殿は、豊臣秀頼が桃山時代の1607年に造営したものです。建物の雄大さ、豪華さは桃山建築を代表する遺構です。
  写
一の鳥居 1921年建立 左右の狛犬の台座には、梅の木の文様
  
鳥居の高さは11.4m、幅8.4m、笠木の長さ14.7m、柱直径90㎝、柱高さ9.45m、継ぎ目なし、木曽産花崗岩とのことです

観音寺本堂・礼堂 元は北野社の神宮寺 通称東向き観音寺 現在は真言宗泉涌寺派 
     

楼門 左右に随身像が祀られています。掛額二は道真をたたえる文言が刻まれています。
  

宝物殿 1927年 万燈祭の記念事業として建立されました
       

絵馬所 市指定文化財 建立:1700 京都在中の最古の絵馬堂 平安時代より絵馬を奉納する風習が広がりました
   

中門(三光門 表側)) 国重文 建立:1607 四脚門 入母屋造 前後千鳥破風 軒唐破風 檜皮葺
       

中門(浦側 拝殿側)
 

三つの星
正面に後西天皇宸筆の「天満宮」の勅額が飾られています。日(太陽)・月・星の三つの光の聴講があることから三光門とよばれます。
天神信仰を物語る門とされます

北側破風の彫刻に波上を飛ぶ二匹の兎の中央に三日月ですかね? 兎は月の象徴でともいわれます。
 

後西天皇の御宸筆の天満宮の直後が掲げられた裏面の梁に真っ赤な太陽と相対する位置に星ですかね?
  

彫刻は2002年の道真1100年祭のときに彩色が施されました。箇所は木鼻、唐破風、蟇股です

唐破風
      

蟇股
     

木鼻
  

 

社殿は、前に正面七間の拝殿、奥部に三間四面の本殿があって、その間に弊殿(石の間)を連結してエ字形の平面を成した、権現造の形式を表しています。
屋根は各面とも入母屋造とし、正面中央には千鳥破風を配し、拝殿向拝の軒には唐破風を設け、拝殿の両側には東西に一段低くした楽の間(がくのま)を配しています。
       

北野天満宮の彫刻は、桃山文化の満開期で、黄金時代であり、善美を尽くしたものです。中でも蟇股は、拝殿・石之間・本殿の内側と外廻りに百を下らないほど多数施されています。見応えのあるものばかりです。
蟇股は本来建造物の水平材の間に設置される圧力を支える部材で、天平建築より使われました。、藤原時代になると支重的機能が装飾的に変化しました。
板蟇股から内部をえぐり抜くタイプに、されに鎌倉時代になると、両脚に唐草様の透彫を加え、室町時代になると牡丹や蓮を意匠化した絵画的なものとなり、桃山時代には花鳥や故事人物などを題材に豊富な表現を伴ったものとなりました。

拝殿 国宝 建立:1607 桁行七間 梁間三間 一重 入母屋造 正面千鳥破風付 軒唐破風付 向拝七間 檜皮葺 左右に楽の間を置く
    

拝殿正面の蟇股 立ち牛
 
天神さまの使いとして、境内には神牛の像や彫刻が数多くみられます。
これは菅原道真公が丑年生まれであったことと、大宰府でご生涯を閉じられた際、道真公の御遺骸をお運びする途中で車を引く牛が座り込んで動かなくなって、やむなく付近の安楽寺に埋葬したという故事に由来しています。
この伝説から神牛は臥牛(伏した牛)の姿であらわされていますが、なぜか立った姿の神牛が拝殿正面の最も目立つ欄間に刻まれています。
蟇股の外方の空間には、松と紅梅・白梅の精巧な極彩色彫刻を施しています。

七間の向拝と蟇股
    
蟇股 中国の神仙列伝の仙人が並びます。

拝殿正面奥の蟇股 桃、亀乗り仙人、鉄拐先生、王子喬、菊慈童、蝦蟇仙人、王質、瓜。
        

蟇股 獏、海馬、龍、虎、麒麟が並びます
    

木鼻 獅子と虎
    

手狭 鸞(別の鳥の可能性あり)、 鳳凰、天女、迦陵頻伽
   

提灯
   

本殿 国宝 建立:1607 桁月五間 梁間四間 一重 入母屋造 右側面三間庇付 檜皮葺
    

東・西妻部
     
蕪懸魚を吊るし、虹梁の上に蟇股を入れています。蕪懸魚は蕪のような形状の下垂れ部分に人の字型の筋彫刻を施したものです

繰り返しになりますが、
北野天満宮は全国の天満宮の筆頭に立つ神社で、祭神は菅原道真です。
平安時代以降の歴史を誇る神社ですが、今の社殿は豊臣秀頼(1593~1615) による造営です。

さて、装飾ですが、
拝殿正面の向拝唐破風には菅原道真を表わす牛、手挟には鸞(別の鳥の可能性あり)、 鳳凰、天女、迦陵頻伽、木鼻には獅子と虎、蟇股には獏×2、海馬、龍、虎、麒麟があります。

拝殿正面(向拝奥)蟇股は桃、亀乗り仙人、鉄拐先生、王子喬、菊慈童、蝦蟇仙人、王質、瓜です。
拝殿右側蟇股は鴨×2、鷺×2、松に楓、雀、鶯、亀。本殿右側蟇股は鳳凰×2、鶴×2、本殿後方蟇股は リス×2、鸞×2、梅。
拝殿左側はタンポポ、孔雀、松と梅、 鴛鴦、牡丹、栗、鶯、万年青、雀とあります。
本殿左側は脇殿に当たるためか、無いです。

仙人は神と人の間を表現しているでしょうか。神社に天女などはおかしいかもしれませんが、神仏習合の名残です。
鶴は神々の乗り物、鳳凰や鸞は霊鳥。その他は何を示すか、ただの飾りなのか、何らかの意味があるのかわかりません

 

楽の間 国宝:建立:1607 東西各桁行正面二間 背面三間 梁間二間 一重 一端入母屋造 他端拝殿に接続 檜皮葺 東西同一仕様 
    
拝殿の両脇東西に配置され、格桁行7.2m、梁間4.8mで円柱を立て腰三面に高欄付の廻縁を設け、蟇股に万年青の彫刻があります。

蟇股 
        

万年青(おもと)の蟇股
 
万年青(おもと)はユリ科の多年草。山地に自生し、肥厚した地下茎から多数の濃緑色の葉を出します。めでたい、縁起のいい植物とされています。
1606年、徳川家康が江戸城本丸に入城の際に、万年青3鉢を献上され、床の間に飾ったという故事が知られています。

久能山東照宮石の間の万年青の蟇股
 

石の間 国宝 建立:1607 桁行三間 梁間一間 一重 両下造 檜皮葺 
写真15~16
石の間は両下造(りょうさげづくり)とし、天井は化粧屋根裏歳、大虹梁を架け渡しています。

蟇股
                

社殿はすべて素木造ですが、蟇股は特に彩色を施し、肘木腹は白粉塗りとし、各部の絵様彫刻は精巧を極めています。

透塀 国重文 建立:1607 折曲り延長十四間、檜皮葺、潜門一所を含む 一棟 本殿を取囲むように造営されています。
   

欄間
    
彫刻は32個、内容は鯉 亀 錦鶏 山鳥 鹿 兎 椿 瓜 牡丹 楓など水に関するものや動物、植物です。

後門(うしろもん) 国重文 建立:1607 一間一戸平唐門(側面を唐破風とする門)
    

廻廊 国重文 左右各桁行折曲り延長十六間、梁間一間、一重、切妻造、檜皮葺、潜門一所を含む
    
板蟇股が配されています。

東門 国重文 建立:1607 幅5.2m 高さ8.7m 四脚門 切妻造 銅板葺 御前通に面して建っています。
    

向拝周辺
     
妻部
  

中央部の蟇股 阿吽の獅子
  

木鼻の彫刻が素晴しい
          

摂社・末社
天満宮の摂社・末社は49社程を数えます。摂社は三光門の手前に、末社は本殿の後方に並びます。 若干を紹介します。

摂社・地主社 現社殿は豊臣秀頼公の造営になり、由緒・規模とも天満宮第一の摂社です。正面の蟇股は牡丹 万年青も見られます
      
摂社 老松社
   

末社 十二社社 小社ですが、すべてに蟇股が配されています。
      
摂社 野身宿彌者
  

稲荷社
  

他にも蟇股を配した多くの末社がありますが省略します。

 


1607 禅林寺(永観堂) 阿弥陀堂
京都市左京区永観堂町

南禅寺の北にある浄土宗西山禅林寺派の総本山です。一般には永観堂の名で知られています。紅葉の名所です。
853年空海の弟子真紹が真言宗の道場として開創しました。七世永観が念佛道場として中興し、浄土系寺院として発展しました。
阿弥陀堂は、1597年に大坂の四天王寺に建立された曼荼羅堂を、豊臣秀頼が1607年に現在地に移築、その後改修されて現在に至ります。
本尊の「みかえり阿弥陀」像(国重文)を安置しています。2010年に修復工事で、彩色修理が行われ当初の姿に復元されました。
境内には地形の高低差を生かして多くの建物が建ち、それらの間は渡り廊下でつながれています。

阿弥陀堂 京都府指定文化財 再建:1607 桁行七間 梁間六間 一重 入母屋造 向拝三間 本瓦葺 
境内側から見ました
   
1235年に建立された阿弥陀堂は応仁の乱の戦火で焼失。正面三間向拝、正面・側面半蔀式戸 貴族の邸宅風の建物です
浄土宗本堂の典型的な空間構成をもち、側(がわ)廻り建具や内・外陣境、天井仕様などに古式が伝えられます。
堂は全体に彩色が施され、特に百花図が描かれた内陣天井や、装飾文様のある内陣軸部は華麗な空間を創出しています。

向拝周辺
      
堂内から見ました
    
別名「十字架文」とも呼ばれる幾何学模様「花久留子文(はなくるすもん)」が外陣と内陣との境の鴨居(全長17m)正面部分に発見されました。
曼荼羅堂時代のものと確認されました。信長の死以降、キリスト教が弾圧されると、家紋の中に十字架をカモフラジュして信仰を続けました。
堂内は、極彩色で、格天井には「百花」が描かれています。両端の長方形の部分だけは白く塗った「散り蓮華」です。

細部
       
極楽浄土の荘厳を表現したとされます色彩が美しいです。 牡丹、模様、瑞鳥、龍、虎、迦陵頻伽 飛天、亀甲文などの数々の模様が描かれています。

堂内も彩色されています 「みかえり阿弥陀」
  

方丈(御影堂) 建立:1629 桁行九間半 梁間七間 一重 入母屋造 桟瓦葺 1912年再建::総欅造
正面と妻部
  

向拝の蟇股
   

身舎四面の蟇股と堂内の蟇股
    

勅使門 再建:1830 向唐門 檜皮葺
      
大工:尾州竹中泉正敏 内部を刳り貫いた木鼻は当時の京都では新しい意匠で、他地方の大工の影響が認められます 中間に獅子、象、龍を彫られています

鐘楼 京都府指定文化財 建立:1707 桁行一間 梁間一間 一重 切妻造 本瓦葺 梵鐘は1743年鋳造
     

水屋?
     

玄関
     

浴室
  

中門 建立:1713一間薬医門 切妻造 本瓦葺
  

総門
    

 


1625 生善院観音堂
熊本県球磨郡水上町大字岩野

生善院は、人吉盆地の北東部、球磨川の上流域に位置する真言宗寺院です。寺に残る伝説から「猫寺」の通称があります
謀反の疑いで日業の死をとげた普門寺盛誉と、後を追って死んだその母玖月善女を祀るために、1625年に人吉藩主相良氏により創建されました。(諸説あり)
創建当初の建物は観音堂と山門の二棟が現存しています。観音堂はこの地方の近世前期の仏堂を代表するものとして価値が高いとされます。

全景
    
観音堂は、内外を漆塗りとした霊屋的な意匠をもち、保存状態も良好で、同時に造られた厨子と共に豪華な造りで、地方の近世前期を代表する建築とされます

山門 狛犬に代わり、狛猫が置かれています
   

観音堂 国重文 建立:1625 桁行三間 梁間三間 一重 寄棟造 茅葺 向拝一間 桟瓦葺 厨子一基
    
茅葺の三間堂で、内日に厨子を安置しています。厨子や須弥壇を始め、内外ともに漆仕上げとし、彫刻等に極彩色や金箔を施した豪華な造りです。
内外ともに黒を基調として要所に朱を用いた漆塗りが施されています。各部の彫刻には極彩色画、内部には金箔も施され全体に荘厳さが感じられます。
四方に擬宝珠高欄付の切目縁を廻し、正面中央部分の縁を前方に延ばし、登高欄付の木階を付ける。軒は、二軒垂木で、垂木は強く反っています。

向拝
 
円柱、柱間を木鼻付の虹梁形頭貫で結び、組物は出三斗、中日は間斗束で、その正面に力士像の彫刻を付ける。本屋とは海老虹梁で繋いでいます。
    
向拝琵琶板・力士像・木鼻・実肘木

本殿正面中央間虹梁彫刻細部
      

本殿背面中央間蟇股・琵琶板彩色
   

観音堂竣工時内部―厨子
 
須弥壇 来迎壁正面壁に張りだし折衷様須弥壇。 東間正面三間、側面二間、正面を蕨手に造る擬宝珠高欄を設けています。

厨子 国重文 建立: 桁行一間 梁間一間 正面入母屋造 杮葺 禅宗様厨子
全体は黒漆を基調とし、斗栱等に朱漆、柱、尾垂木等に金箔、彫刻は極彩色 正面に桟唐戸を入れ、その小脇板に登り・下り龍の彫刻を入れています

須弥壇嵌板彫刻(猫が彫刻されています
    

須弥壇小壁板彫刻
    

社務所?
   

未確認
 

参考
伝説 (ウイキペデイア)
創建は寛永2年(1625年)、相良氏第20代相良長毎(頼房)によるもので、次のような由来をもつ。
この地にあった普門寺の住持・盛誉法印は、天正10年(1582年)3月16日、相良氏より無実の罪によって殺され[1]、寺にも火をかけられた。 息子の死を恨んだ法印の母・玖月善女は、相良氏を呪い、断食して市房神社で37日間(21日間とも)の咀呪をなし、指を噛み切って神像に
を塗り、愛猫の黒猫「玉垂」にも因果を含めて自分の生血をすすらせ復讐を誓い、猫とともに淵に身を投げて死んだ。
その後、相良氏が化け猫に悩まされるようになり、盛誉親子らの霊を鎮めるため、普門寺跡に建てられたのが生善院だという。初代住持は願成寺第16代の尭辰。藩では盛誉法印の命日3月16日に藩民に寺への参詣を命じ、藩主自らも参詣したので、祟りは止んだと伝えられる。


 

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