JAPAN GEOGRAPHIC

Monthly Web Magazine  Oct. 2022


■ 「卵」 柚原君子

庭のナツメの樹の下に鶏小屋があった。
小屋に入ると鶏が大きくバタつくので、藁ぼこりと羽毛が目の前に舞い上がった。顔を背けながら、藁の上に二つ産み落とされていた卵を拾う。
バタついていた鶏が侵入者に慣れて少し静かになる。コッココッコと啼く鶏たちの赤い鶏冠(トサカ)が傾いて、一瞬首を傾げたような姿に見える。骨に薄い皮をまとっただけの皺皺の二本の足。その先にある水かきのついた指が奇妙に持ち上がって、鋭い爪がくの字に曲がる。
その足の一瞬の静止を見ながら、卵を手にした私は鶏小屋に張られた金網の戸をお尻で押して出る。鶏たちの死んだような目が一瞬にこちらを見た気がして気味が悪かった。

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私は鶏小屋を出て母屋に入った。
土や石で固められた土間は、ところどころが盛り上がっていて、おまけに石の頭が出ていたりもするから歩きにくかった。卵を持っている日は特に気をつけて歩いた。
早朝に野良仕事を終えてきた父の長靴が、湿った土をつけたまま脱いであった。父は新聞を読んでいた。母は一人一人の茶碗に麦飯をよそって飯台に並べていた。弟は歯抜けのいがぐり頭で、自分の前に茶碗を引き寄せているところだった。

私は卵を祖母に渡した。祖母は棚から木箱を出して蓋を開けると、籾殻(もみがら)で満杯になっている箱の隅を掘って卵を二つとも埋めた。私と弟は祖母の手をじっと見ていた。祖母は手についた籾殻をこすり合わせながら、箱の上で少し止まっていたが、いま埋めた卵の反対側をほじって数日前に埋めた卵をとりだした。私と弟は顔を見合わせてにんまりと笑った。

祖母は小鉢の中に卵を割り、父の前に出した。父は新聞を読みながら体を少し斜めにして小鉢を持ち、卵をかき回した。溶かれた卵は父の麦ご飯の中に入れられた。卵は麦ご飯に透明感を与えながら滑り落ちていった。
「少しもらやぁ」と祖母が言った。
私と弟はそれぞれの自分の茶碗を父の前に出した。
小さじ一杯分くらいを父が分けてくれる。私と弟はそれに醤油を足してかき回して、子ども茶碗一杯の卵ご飯にする。醤油の香りの陰に卵の匂い。口の中にしっとりと広がっていくかすかな甘み。その幸せ感。

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卵が桐の箱に入れられて病気見舞いや極上品のお土産になった時代だった。
我が家が特別に貧しかったわけではなく、一つの貴重な卵をみんなで分けて当たり前の時代だった。
「戦後値段史年表」(週刊朝日編集・朝日文庫・1995年8月発行)によると卵の価格は一個14円とある。他の料金はというとコーヒーが50円、郵便切手が10円、理髪代金が140円、映画200円、などの記載がある。これらの価格が平成の世には7.8倍ないし10倍になっていることを考えると、現在の卵の身分には少し憐憫を覚える。

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小さな幸せを大きな幸せに替えられるように、戦後の復興という名の下で私たちの父や母は必死に働いていてきた。そしてその子どもである私たちは、これまた戦後の高度経済成長という名の下で必死に働いてきた。その結果、大体の人々が普通に暮らせるようになり、卵は冷蔵庫にあって当たり前の時代になれた。家の大黒柱にしか口にしなかった卵を分けてもらうために待つ子どもの姿は、日本の茶の間の風景にはもうない。

しかも、今はさらにその上の、より多くの、しかし必要ではない欲望を満たすために、卵の表面のザラザラにこだわり、白色の殻と茶色の殻にこだわり、黄身の盛り上がり具合や、鮮度や、はたまた同じ形にそろった卵を求め、そしてそのこだわりの卵を一度に幾つも使って作られたオムレツが、テレビ料理番組の目玉になっていたりする。

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卵の値段は一つ14円とそれほどの変化はないのに、人々の感覚は変わり、慎ましやかに暮らそうと思えばできるその部分にまで、無駄な贅沢が入り込んでいるような世の中になった。

一個14円の卵をその時代にあったやりくりをして、多少の不足があったからこそ、家族が温かく暮らしてきた頃のことを、思い出せる大人は思い出してもらいたい。
ついでに卵一つの話ではなく、森が崩されているから山里に熊が出る現実や、広大な森林を壊して、環境に関するパビリオンを建設することは、とても矛盾をしているのに、その万博に浮かれたことや、干潟を埋めたり、川を埋めたりして自浄作用をなくすようなことをしていけば、結局は誰が窒息をするかということをも、考えてほしい。

沸騰点をあふれさせたら、やけどを負うということも。

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