JAPAN GEOGRAPHIC

古き良き日本の縮図 〜新潟県佐渡市

June 2009 瀧山幸伸

■ 日本の縮図

佐渡には我々が忘れた美しい日本がそのまま残っている。沖縄本島に次ぐ大きな島で、面積は東京都や大阪府の半分近い。本土からは約50Km、能登からも約100Kmと、海を生業とする人々から見れば目と鼻の先だ。島を覆うように対馬海流が流れ、気温の年較差も日較差も少なく、雪もそれほど降らず過ごしやすい。

北側の大佐渡山地は標高が1000m以上あり、芭蕉が出雲崎から見たように屏風のような威圧感を受ける。山頂付近は氷河期の名残を残す高山植物の宝庫で、深い森に眠っていた杉の巨木群も注目され原始的な雰囲気を漂わせている。その周囲の海府海岸は急峻な山が海に迫り、名勝に指定されている風光明媚な海岸だ。自然景観は、能登の外浦、あるいは新潟から青森を経て北海道の東海岸に至る断崖の海岸風景に酷似している。訪問した初夏はトビシマカンゾウが花盛り。緑のじゅうたんに黄色い花が咲き乱れる様子も共通だが、黒い瓦と外壁でモノトーンに構成された漁村の文化的景観が際立って美しい。

南側の小佐渡山地は比較的なだらかで、暖地性の植生が混じる。小木海岸には小さな入り江が多く天然の良港となっており、こちらも名勝に指定されている。

外海府海岸 二ツ亀とカンゾウ

これら二つの山地に挟まれた中央部が国仲平野で、両山地を借景に農地、屋敷林、建築構造物が構成する美しい農村景観は古き良き日本そのものである。建築構造物の景観美はその意匠と素材にある。両津の周辺に見られる無粋な近代建築を除き中高層の近代建築が少ないこと、民家から寺社に至るまで一様にダークトーンを基調とした建築材を使い、周囲の山海の青、屋敷林や田園の緑と調和しているからだ。このような心和む落ち着いた景観は、我々が忘れ去った「物語の絵巻物」そのままの情景だ。

国仲平野の情景

その絵巻物に登場する主人公の日常の姿は我々と変わらないが、精神は芸術の域に達するほど高く、三界萬霊のアニマとともにあり、都からの流刑文化人の系譜、江戸武家社会と金山の系譜、北前船と漁業の系譜に分かれている。

■ 都からの系譜

 

都からの流刑者は政治犯であり、高度に文化的な人々であった。承久の変(1221)で順徳上皇、正中の変(1324)で徒然草にも登場する日野資朝、ほかに日蓮や老年期の世阿弥も配流された。

国仲平野の真野竹田地区は緩やかな丘陵地に佐渡国府が置かれたまほろばで、都からの文化の系譜の中心地だ。佐渡国分寺、日蓮宗妙宣寺、能舞台を持つ大膳神社などがこの地域の主要なランドマークだが、悲しいかな、観光ツアーで時間に追われていてはこの地の素晴らしさは味わえない。これらを巡る歴史散策路が整備されているので一日かけてゆっくりと味わいたい。朝夕は特におすすめだ。国分寺の森の野鳥のさえずりや巨樹にそよぐ風に癒され、妙宣寺の匠の技に驚き、大膳神社の境内に心洗われる。

佐渡は都の鬼門にあたり、島の南西小木地区の山中には密教の聖地として名高い蓮華峰寺が世俗から隠れるように建つ。九世紀に創建された古刹で、金堂、骨堂、弘法堂、鎮守社小比叡神社などの重要文化財が歴史を語りかけ、境内各所に満ちる霊気が訪問者の精神を浄化してくれる。

妙宣寺

大膳神社の能舞台

能楽はかつて島内に二百以上の能舞台があったほど各集落で盛んにおこなわれてきたが、今でも三十以上の能舞台が神社などに点在する。世阿弥が佐渡に配流されたこと、能楽師の家系の佐渡奉行大久保長安が奨励したことがその理由だ。佐渡では能は鑑賞するものではなく舞って楽しむもの。絵巻物の主人公が村人に憑依するのである。

椎崎諏訪神社の薪能 演目は『羽衣』

能とともに盛んだった佐渡の人形芝居は享保期に国仲に伝わったと言われる。かつて三十以上の座があったものが今日では十ほどに減りはしたが、説経人形、のろま人形、文弥人形という形で重要無形民俗文化財となり伝統的な技法を今に継承している。

主流の文弥人形は、初世岡本文弥(1633‐94)が大阪で始めた古浄瑠璃の文弥節と人形芝居とを組み合わせた人形浄瑠璃の流れを汲むものだ。

その文弥人形をシルバービレッジ佐渡の交栄座で鑑賞する機会を得た。演目は『山椒太夫 母子対面の場』。

幼少の頃読んだ森鴎外の『山椒大夫』の筋書きは、人を誘拐し売買する、奴隷として使う、入水自殺するなど、ショックが大きかった。悲劇の歴史は今でも拉致という形に変わり日本海沿岸で続いている。安寿と厨子王の母はどのようなところで暮らしたのか、それがこの島への旅の目的の一つでもあった。

鴎外の種本となった中世の説経節『さんせう大夫』の筋書きは、安寿が追っ手に捕らえられ拷問を受けて死ぬなど、鴎外のそれよりもはるかに過激で凄惨な描写が連続する。抑圧された人々のおどろおどろしい情念を描き、聴く者の感情に直接訴える激しいものだ。

文弥人形の筋書きは、近松時代の文弥節『さんせう大夫』の佐渡ローカル版で、安寿が生き延びて佐渡に到着し、母と再開するも目の前で息絶えるというものである。

日本各地に残る人形浄瑠璃の中で、積極的に保護されている文楽だけが世界遺産となった。人間国宝の吉田玉男、吉田蓑助演じる国立劇場での『曽根崎心中』はその繊細さが良かった。一方、録音された浄瑠璃とともに演じられる文弥人形は素朴ながらも舞台から至近距離で、しかも貸切状態で鑑賞でき、別の意味で大いに感動した。だが、鑑賞した2009年の翌年、常設小屋だったシルバービレッジ佐渡が閉鎖された。ネット上に多様なコンテンツがあふれる今日、産業として伝統文化を継承することは容易なことではない。

交栄座の文弥人形芝居

■ 江戸からの系譜

江戸武家社会と佐渡金山の系譜は大佐渡の相川に由来し、鉱内に響く無宿人の水替え作業を主旋律に、明治以降の近代化産業遺産を携えて今日に繋がる。世界遺産暫定リストに登録された佐渡金山関連の文化財は多い。奉行所跡、精練所跡、御料局佐渡支庁跡、南沢疎水坑道、大安寺、当時のメインストリート京町、無名異焼など、一日では見学しきれない。鉱山町特有の街並景観はキリコの描く世界を連想させる。

道遊坑、宗太夫坑などの鉱洞はぜひ訪問して学習したい。当時の様子を再現した人形が歌う新鉱脈発見時のご祝儀歌が心に響く。江戸から連行された無宿人は犯罪者ではなく、何らかの理由で地方から抜け出してきた人々。住所不定者と言うだけで強制労働させられた無念さはいかばかりだろうか。

相川の手前、中山峠付近には切支丹が処刑されたと伝わる百人塚がある。確定的な資料が無いので詳しくはわからないが、鉱山に切支丹が紛れ込む、あるいは鉱夫が切支丹となって救いを求めたことは断片的な資料から推察される。無宿人と切支丹、生きるも地獄、死ぬも地獄の世界だったのだろう。

■ 北前船と漁業の系譜 〜船大工の街並

北前船の系譜を引く文化の代表は、小佐渡の南西端に位置する宿根木だ。かつて主要な交通手段は船で、潮の満ち引きを利用してゆっくり航海する瀬戸内に比べ、対馬海流に乗る日本海沿岸の航路は今で言えば高速道路。北前船もこの海流を利用した。能登半島をぐるりと回って富山新潟の沿岸を航行するよりも、能登半島の先端に位置する珠洲から海流に乗って佐渡経由で東北と往来するほうが圧倒的に早い。

重要伝統的建造物群保存地区に指定されている宿根木は風変わりな街並で、1ヘクタールほどの土地に100棟以上の建物が密集する。14世紀頃から交易船の船主や船員が居住する専用の港町として発展したが、江戸時代に隣の小木港が整備されてからは千石船の造船に従事する船大工の町として繁栄した。

ほとんどの屋根は石置木羽葺、外壁は板張りで、中には船板や船釘を使った家があったりと、街並にも船大工の技術が織り込まれている。浜辺の船つなぎ石、白山神社の鳥居や狛犬、水路をまたぐ石橋は、千石船の船底に積んできた船体安定用のバラストである。

明治末期の宿根木

清九郎旧宅は二百年ほど前船大工によって建てられたという公開民家だ。外は狭苦しい路地だが屋内に入ると印象はがらりと変わる。いろりのある吹き抜けのデイ(居間)の形状は船室そのもの。床はまるで船の甲板のようであり、壁は土壁ではなく板壁である。板壁には船箪笥のような頑丈な作りつけ家具が収まる。船箪笥は造船とセットでこの地の特産品となった。外はケヤキで中は桐、周囲を頑丈な金具で固定し盗難に備えている。船の遭難時には海に浮いて漂うことができる、頑丈かつ防水仕様の金庫のようなものだ。

小さな窓は、窓の大きさにより課税されていた時代の名残だが、船の窓を連想させる。これらインテリアの鈍い光沢が目に優しく、居心地の良さと懐かしさを醸し出す。

全ての家が船大工によって建てられたわけではないが、船大工の技術が加わっているのは間違いないだろう。中には深野家のように三角家とも船形家とも呼ばれる家もある。船のデザインを優先したのではなく、狭い敷地に沿って建ぺい率容積率とも最大限建築した総二階の家が結果的にこのような形になった。携わった大工の技術の高さに敬服する。

清九郎旧宅

三角形の深野家

清九郎旧宅の裏庭に回れば、崖に掘られた洞穴が謎かけしてくる。洞穴は天然の冷蔵庫だそうだが、なにやら怪しい。なぜ宿根木の港町は漁港と違う場所に隠れるように作られたのだろうか。なぜ船大工の手で家や蔵が作られたのだろうかと考えると妄想が膨らむ。

この港町は密貿易の秘密基地を連想させる。古来からの密貿易の中継地として商品や人を秘匿する目的に適った立地と建築様式で、土蔵や穴倉に禁制品などを隠していたのではないか。陸地から離れた佐渡の小さな港。航路なので街道のような関所も無い。集落は関係者に限定されている。排他的な立地は盗難や抜き荷などを防ぐ防犯のためということが表向きの理由だろうが、北前船は年に一度の命がけの航海で、各寄港地で商品を売り買いし船主と乗組員がその利益を分け合うシステムだから、いろいろなドラマがあったのではなかろうか。

薩摩藩の密貿易港だった坊津も宿根木も、港は漁港とは完全に分離されており、人目を避けるような立地に交易関係者のみで構成された街並が特徴的だ。

密貿易の定番商品は古今東西「クスリ」だ。軽く、かさばらず、高価である。北前船の時代、ヨードを含む薬として珍重された昆布を薩摩琉球経由で中国に密輸出し、中国から漢方の薬種を密輸入した。佐渡金山から横流しされた金銀も密貿易で扱っていたのかどうか、時代劇にはなりそうだが事実はわからない。

宿根木の造船と北前船の生業には高度な技術が必要だった。船大工は今で言う工学部の技術が、船頭は積荷の売買も仕切るので海洋学部の技術に加え経済学部の技術も身につけなければならない。最奥に位置する称光寺には寺子屋が設けられていたが、幼少の頃からこの産業に従事する人材の基礎教育を行っていたのだろう。宿根木の遺伝子が幕末の世に送り出した逸材が柴田収蔵だ。蘭学を学び医者になった後、蕃書調所で絵図調出役、今で言う国土地理院の仕事で活躍し、嘉永元年(1848)世界地図『新訂坤与略全図』を完成させた。1602年にマテオ・リッチが作成した地図を改訂したものだ。

この街の造船技術と文化は「船大工用具及び磯舟」 として重要有形民俗文化財に指定され、小木民俗博物館に保存されている。館は大正9年に建てられた旧宿根木小学校の木造校舎をそのまま利用したもので、脇には平成10年に復元された白山丸512石が展示されている。白山丸は、安政5年(1858)に宿根木で建造された幸榮丸を当時の板図をもとに忠実に復元した千石船(弁財船)であり、毎年一回船を展示館から引き出して帆を揚げる「白山丸まつり」が開催されている。

白山丸

一方の漁業文化は「南佐渡の漁撈用具」として、同じく重要有形民俗文化財の形で小木民俗博物館に保存されているとともに、「たらい舟製作技術」として重要無形民俗文化財に指定されている。製作作業が見学できないのは残念だが、たらい舟の操船は名勝の矢島経島で佐渡おけさのメロディーをバックに体験できる。素人が漕ぐとたらいが回るだけで一向に進まない。本土の弥彦山と小佐渡の裏山がぐるぐる回る。これが本当の「たらい回し」か。コペルニクスやガリレイが体験したら、「それでも地球は動いている」と言ったかどうか。

佐渡は日本の縮図どころか小宇宙であり、いつまでも天動説の島であり続けてほしい。

矢島経島とたらい舟

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