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大分県日田市 広瀬淡窓墓

Hirosetanso haka,Hita city,Oita

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Dec.24,2016 瀧山幸伸 source movie

史跡

広瀬淡窓は亀井南溟、同昭陽等に就て儒教を学び詩文を良くし旁ら仏老を喜び其の文名は当時海内に高かつた。早くから家塾を開いて多数の子弟を教授し文教の興隆に貢献するところ多く塾は数度移転したが、文化14年に始り、明治年間にまで及んだ。咸宜園は特に著名で淡窓は安政3年11月1日園内の春秋園(旧秋風庵)に於て沒した。

墓は咸宜園跡の東北方約180メートル、淡窓が生前選定しておいた長生園に営まれた墓石は総高約5尺7寸5分、正面に「文玄広瀬先生之墓」右側面に「安政3年歳次丙辰11月朔午時卒」と刻してある。傍に養子林外、弟旭荘等の墓が並び存し、又墓に向つて左前方には淡窓自選の墓誌銘を刻した碑が建てられている。高さ5尺5分篆額及び銘は旭荘の筆にかかり林外が沒年等の記事を補つている。

平成25年3月27日追加指定分

 廣瀬淡窓旧宅は廣瀬淡窓の思想を育んだ淡窓の生家である。

廣瀬淡窓(天明2年〈1782〉〜安政3年〈1856〉)は、豊後国日田郡豆田町魚町(現、日田市豆田町)に、商家廣瀬家の当主三郎右衛門の長男として生まれ、亀井南冥・昭陽父子に儒学を学んだ。病弱であったため、文化2年(1805)、家業を弟久兵衛(第6世、南?(なんがい))に譲り、豆田町の長福寺学寮を借りて開塾した。塾は幾度か移転したが、文化14年(1817)、堀田村(現、日田市淡窓)秋風庵(伯父月化(げつか)夫妻の隠宅)の隣に居を構え、私塾咸宜園(かんぎえん)を開き、ここで多くの門下生を育てた。淡窓は安政3年11月1日に秋風庵において没し、生前選定の墓地(長生園)に埋葬された。

           

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