JAPAN GEOGRAPHIC

大分県津久見市 保戸島 

Hotojima,Tsukumi city,Oita

Category
Rating
Comment
 General
 
 
 Nature
 
 
 Water
 
 
 Flower
 
 Culture
 
 
 Facility
 
 Food
 
 


May 19,2018 瀧山幸伸

Edited Movie Download YouTube

source movie

■遠洋マグロ漁業で栄えた島

津久見港から北東約14kmに位置し、周囲約4km、面積0.86km2、最高地点は標高179mの遠見山である。人口は978人(2010年国勢調査)で、マグロの遠洋漁業の基地として知られている。また、島の一部は日豊海岸国定公園に指定されている。明治25年(1892年)から昭和26年(1951年)までは、保戸島村として独立した一自治体であった。

平地がほとんどないため、海岸に迫る急な斜面に3階建てのコンクリート造の建物がひしめくように建ち並んでおり、その風景は地中海の漁港を連想させる。保戸島集落は「未来に残したい漁業漁村の歴史文化財百選」に選定されている。

柳田國男は大正9年(1920年)にこの島を訪れた時の島の自然や生活の様子を、『海南小記』(1925年)にて描写している。

(wikipedia)

■太平洋戦争の悲劇の地

保戸島国民学校の悲劇

保戸島空襲は、第二次世界大戦中の1945年(昭和20年)7月25日午前10時頃、大分県津久見市保戸島に対して行われたアメリカ軍による空襲。

当時の保戸島には豊後水道を通って瀬戸内海へ侵入する連合国軍の潜水艦を阻むため、これを探知する海軍の施設(レーダー受信基地・潜水艦聴音施設・見張り所)が置かれていた。アメリカ軍の攻撃目標はこれらの軍事施設であり小学校爆撃は誤認とされるが、真相は今もって不明である。

本空襲で、空母ランドルフの艦載機であるグラマン戦闘機が投下した3発の爆弾の1発が授業中だった保戸島国民学校(現・津久見市立保戸島小学校)の西側校舎を直撃し、児童124人(1年生と5年生の全員と他学年生数名)教師2人(高橋ミヨ子訓導、林シゲ子訓導)幼児1人が即死し(死者数は田邉國光『忘れ得ぬ保戸島の惨劇』による)、75人の児童が重軽傷を負った。

さらに戦闘機により児童に対し機銃掃射も加えられた。現在、同校体育館入口には慰霊碑が建立され、毎年慰霊祭が執り行われている。

(wikipedia)

■以下、「保戸島小学校100年の歩み」より

保戸島の歴史

 保戸島小学校百年祭の記念誌の編集に当り島の歴史の一端を述べて見たいと思います。

 保戸島は津久児市より海路14粁、北緯33度6、東経132度1に在りて島の形容は東西1.2粁、南北1.6粁余周囲約4粁、面積0.843平方粁で標高184米の遠完山を項点とす急峻な傾斜地は過去、日本の離島が辿った貧しさを其の儘に、段々畠は連なり耕して天に至っている。

 北及び南東側の海岸線は絶壁となり海上に浮ぶ高甲岩を初めとする小岸礁郡は豊後水道の潮流に洗われ、大潮時に於る激流は渦汐となり、永年に亙る怒涛に浸蝕された三郡の高甲岩は眺望に価いする奇観を形造っている。

 集落は西側谷問の中腹迄続き、戦後離島振興法の発効と遠洋漁業の復興に依り急速な発展を遂げ離島には珍らしい過密状態となり、漁港岸壁を初め、コンクリートで囲まれて密集した集落は、さながら西欧の孤島を思わせる景観を呈している。

 其の昔、12代景行天皇が熊蘇征討のみぎり此の地に舟を倒留どめになり美しい海藻を御覧になり其の美しい海の藻を取れと勅し兵は勅に応じて海藻を取って差し上げると天皇は舟を御進めになりた(箋釈風土記)此の麗わしい海藻(ほつめ)の故事から此の海峡を最勝海勝門(ほつめのと)と言い後に最門と言い穂門と書く様になりた。

 当時は津久見〜津久見浦〜四浦〜上浦〜大入島を含めて穂門郷と呼ばれ何時の間にか呼限が狭められて保戸島のみが其の名を留どめている(風土記、豊後国史)

 文化7年(1810)伊能忠敬測量記、2月29日幕府の測量巡航士(伊能忠敬)来航、西泊人家4軒を経て保戸崎に至る。人家多数イ有り一周を測す。28丁7間2寸、風波に依り見切り5丁ばかり船寄せず上陸を得ず、一同8ツ頃に津久見浦に帰宿す(豊後国史)

 保戸島に何時頃から人が住み若いたかは不l明であるが、日本の離島に人が住み着いた共通の事情として次の事が挙げられる。

 (1)中央で戦いに敗れた—族が政治的な弾圧を逃れて島に移り住む

 (2)宗教的な弾圧(禁教令等)に抗し得ず白由を求めて住み着く

 (3)本土や他の島から季節労働に来たり遭難等に依り漂着して住み着く

 保戸島に祭神(加茂神社)が勧請されて創立したのが天文4年(1553)であることから、其れ以前に島に人が住み着き集落が出来ていた

事は容易に想像される(室町中期頃と思われるも現存記録無し) 当時中央に於て闘い敗れた一族が政治的な弾圧を逃れて南下し島に移り住んだ事が考えられる。そして当時の名残りとして島の部落に遺る。 上渉路西小路浜小路等の地名や島に伝わる慣習及び方言の数々に再び帰ることが無いであろう遠い故郷(京)を偲ぶよすがとした一端をうかがい知ることが出来る。

 村社加茂神社は島の守護神として天文4年(1553)5月吉日に京都の上加茂神社(現在の京都市上京区)より別雷命が遷移勧請された。(現在の花崗岩製手洗水針の記名及び橋佐古氏蔵書)当時の加茂神社は中央(京)に於て皇室と民衆の尊崇高く伊勢神宮に次ぐ畏敬ある神社であった。

 保戸島は幕藩時代は臼杵藩に所属していたが関ヶ原戦後の慶長6年(1601)に佐伯に転封された毛利氏は着任直後に臼杵の稲葉氏と津久見の1部(津久見の中心地の警固屋)を交換した。佐伯領の警固屋を手放し、臼杵藩から保戸島を人手したことは海の開発と海上交通の拠点として保戸島が重要と考えたからと思われる。以来佐伯藩の所領として維新を迎えた。

 明治4年廃藩地県の際、第4大区第17小区となり用務所の管轄に属した。

 明治22年4月1日町村制実施に際し四保戸村となる。

 明治25年10月四保戸村を分離して保戸島村と改称、

次いで昭和26年4月1日、津久見町、日代村、四浦村ともに合併し津久見市大字保戸島となる。

 明治36年4月4Π水産業共同組合法に基ずき保戸島漁業協同組合を設ける。

 大正4年2月に組合規約を改正し共同販売事業を実施、昭和11年に名称を保証責任漁業協同組合となる。

 明治42午に保戸島郵便局が開設され大正13年に電報が開設された。終戦迄は無垢島迄電報を配達した。現在は島内のみである。

 明治43年に病院が開業され従来よりの無医村は解消された。其の後島の人口増加に併い一軒と二軒を繰返して現在は—軒(安藤医院)で二代目である。

 大正12年に臼杵通いの発動機関付の渡海船が初めて就航して毎日一往復した。臼杵町との貨物の移入は別の帆走船が就航した。

 大正12年に保戸島に電灯が開設されて島内の全家庭に電灯が点灯された。

 大正14年3月、現在の保戸島の戸数460戸で人口は2,194人であった。

 昭和36年4月10日に念願の水道が完成して、古来よりの島の水汲の風習に終止符が打たれた。

 昭和48年2月海洋汚染防止のため中島に共同の塵挨焼却場が設けられた。

古老の話

私達が小学校に入学した頃は現在の大波磯の角に平家建の2教室の小さい校舎でしたが、現在は其の面影を偲ぶよすがは無い。

 其の頃は4年生迄でしたが、当時の島の生活環境から完全に学校に通って卒業する人は極めて少数でした。

特に戦争(日露戦争)に父兄が出征している家庭では、政府援助の皆無であった当時としては学校へ通えない実状でした。

学校に通っても出席簿を先生が採り終ると授業を受けずに帰る人もあり従って完全に授業を受ける生徒が甲で出席簿を採り終って帰る生徒を乙としていた。

入学して2年頃から6年生制となり後に地理、読本、修身、算術、珠算に水産が出来たが、教科書だけで、生徒は23人程度でした。

そして後に高等科になりました。当時は男の生徒は少なく殆んど女子の生徒で良く弟妹の子供を背負って授業を受けた。従って背中の子供が泣き出すと教室の外に出たり、家に授乳に帰って又教室に入って授業を受けると言う状態でした。

当時は1人の先生が2級を受持っていて2年を教える時は1年生は自習していたが、背中の子供が泣く時以外に自習中に教室外に出る者は無かった。現在の様な男女共学でなく、男女が別々に並んでいたので、男子生徒が特に悪戯する様な事はなかった。

服装は全て男女共に「ネル」の着物に藁ゾウリ履きで教科書は風呂敷に包んで女子は腰に結び、男子は肩に巻いて学校に通った。祝祭日以外に袴を着けているのは先生だけでした。

年1回の運動会は瀬の浜迄家族連れで—日中着物スタイルで飛んだり、走ったり色々と競技して楽しんだ。当時としては結構盛大に催さ

れていた。現在の近代化された校舎や運動場の設備には比較すベくもないが、そして学校から帰る時は先頭が旗を持って並んで帰宅した放課後は家の手伝いと、子守りで、子供を背負って縄飛びや「マリ」突等と色々の遊技をして遊んだ。

そして夏休み以外に麦苅りや甘庶堀り休み等があり、其の頃になると—日中、手伝い主に子守りをした。

電灯の無かった当時はランプ生活の為に夜間は自分—人で灯火を独占出来なかったので家庭で勉強する機会は無かった。入学して2年後に6年制度になり生徒の数も幾らか宛増加していた。

当時の生徒が先生に対する信頼感は絶対でした。従って生徒が先生の教えに違背する事等は皆無で、生徒にとって先生は神様の如き存在でした。父兄の先生に接する態度も又同様でした。授業中に男子生徒が悪戯をすると、教室に立たせる罰を先生は与えた。特に悪戯が過ぎる教員室に呼び付けて注意や訓戒を与えていた。

日常生活も現在では想像も出来ない程簡素なもので、子守や其の他の御手伝い奉公に島外に出ていた。6ケ月の子守奉公が4円50銭で、主として四浦方面で旧杵町に行く者は殆んど無く特に現在の津久見とは交流は無く、島で生産出来ない食糧品は旧杵町から櫓船や帆走船で移入していた。手紙等も旧杵迄運んでいた。

其の頃の沿岸漁業は主として餓釣りで時期的に鯛や師が釣れていた。

此の頃から「カジキ」漁の大型船(?)が旺んになり、大型船と言っても帆走の無動力船でした。島に船が不足して佐伯の大島から借船して操漁していた。

漁場は長崎県の対馬方面に時期を追って出漁していた。此の頃に初めて、動力船(木炭ガス動カ)が—隻出来た。当時の言葉でコツトリ船と呼ばれていた。

そして初めての取換者(操機者)に1人の殉職者が出た。(恐らく炭酸ガス中毒と思われる)其の頃は串ヶ脇の戸数が50ヶ位で現在の新地は串ヶ脇側は全て海で満潮の時は海沿いの道が通られず、山道を歩いて帰っていた。其の辺は小浜と呼ばれ、サザエやアワビ等の魚介類が豊富で夏休み等は1日中海で水泳や魚採りを楽しんでいた。

此の頃、既に島に安藤医院が開業されており特別の場合を除いて町の病院に通う事もなかった。

其れと最も印象に残っている想い出として2年の頃(明治29年)に擔任して項いた安藤彌吉先生が10余年振りで「アメリカ」から法事で帰国され、夫人同伴で保戸島を訪問された事である。昔の教え子達で先生御夫妻を接待した時、夫人が正座することが出来なくて足を伸ばしていたのが今も瞼に残っている。

此の頃に高等科が新設されて現在の神社の涯下広場(船曳場)に2階建の木造校舎が出来上った運動場が狭い上に暴風雨の時は防波堤を越えて波が運動場に浸入する為に授業を中止して休校する事が1年に何回かありました。

その頃は「梶木」漁期になると、殆んどの就漁家庭が—家を挙げて季節的に長崎県の対馬に渡島して行った。

当時は櫓船と帆走船で1週間余を要して漁場対馬に向けて保戸島を後にした。

従って此の頃になると島の人口は激減し生徒数も減少していた。そして其の内の何軒かは対馬に定着した。

対馬に渡って現地で学校に通ったが男子生徒は保戸島同様に極めて少数でした。

後年保戸島に遠洋漁業が旺んになり、参拾屯以上の大型発動機船(当時としては)になり船長、機関長の海技試験を受けるに際し文字を解しない人が多く、何故あの当時に学校で真面目に勉強しなかったろうかと切歯して残念がる人が多かった様でした。

そして一時期にもせよ対馬で小学校に通った頃が思い出される。

対馬の交通機関は、現在でも時々「テレビ」で照会される通り、現地産の「馬」で前の袋に子供を入れ背に人が乗っていたが、暗い夜道でも眼を閉じていると家迄運んで呉れた。

現地対馬の人達は、対馬名物言うならば「トンビ、カラスに屋根の石」と良く言っていた。そして此の頃(大正11年頃)から土佐清水沖の「トンボ縄」が始まり、保戸島へ続々と引揚げが始まり対馬小学校の先生や級友達が懇親会を開いて別離を惜しんだ事が今も思い起される。

此の頃から新地の海の埋立てが始まり護岸工事が施行されたが、現在の様な工事技術が無い当時の事で夏に護岸して冬に激浪で壊される状態の繰返しで何時も建設業者が帯在して補修工事に当ってぃた。現在の埋立て護岸工事の状態を見る度に、当時を思い隔世の感—入と言った所です。

保戸島小学校爆撃の記録 昭和20年7月25日

豊後水道に浮ぶ保戸島小学校(当時国民学校)で、学童124人を含む127人が死亡、75人が負傷すると言う信じられない惨劇が起ったのは7月25日朝の事でした。

其の日保戸島小学校では、午前8時半から朝礼が始まる全校児童96O人が校庭に集まって先生方の話しや注意が終ると児童は列を正して先生の後に続き各教室に流れて行った。

そして午前9時頃に、かすかな爆音、銀色のB29が学校上空を北上するのが見えたが危険無しと認めて授業は其の儘続けられた。

次第に遠ざかり行く爆音に「ホット」した時、突然「空襲」と言う村人の叫び、同時に金属性の耳をつんざく轟音と「ドカーン」と地響きのする爆発音があった。

学校の北西側の角の2階建て校舎を直撃した爆発音であった。

四機編隊のグラマン投下爆弾4発の内1発が学校を直撃した。

時刻は午前9時20分頃であった。

此の時の死傷者は死者 教師2、学童124其の他1重傷者教師1学童 9軽傷者教師5学童 60今は遠洋漁業でうるおう平和な島に決して癒える事の無い戦争の悲しい痛恨事であった。

其の後、殉難学童の父母有志に依り慰霊碑が建立され、再び戦争の悲惨を繰返さない様語り継がれ供養を続けている

保戸島マグロ漁業のあゆみ

保戸島の漁業が保戸島沿岸から外に出たのは、明治23年に清田寿松氏が長崎県(当時対馬の国)下県郡船越村賀谷に渡り、主として鱶縄を始めたのがその発端と言われ、その時期、小寺藤吉氏も夫婦で櫓船(約1屯)にて賀谷に移り、いかつり漁をしていたが、梶木まぐろが多い事を知り、いかつりから梶木まぐろ獲りに切り換ったとの事。この事を知った保戸島沿岸漁民3隻が後を追って梶木まぐろ獲りに参加し、漁船の改造、漁具の改良等が加えられ、4人乗組みの櫓船(約3トン)で梶木まぐろを突き、あるときは6反帆を巻き上げ4丁櫓にて豊漁に恵まれ対馬地区では—流の漁船として名声を博した。

漸次この漁業が発達し、明治36年、10隻、明治37年には20隻を数えるに至りました。しかしこの漁業は春期が盛漁であることから春期以外の時期の漁業を考えていたとき、高知県土佐清水市(当時高知県清松村字清水)にネブト漁があることの報に接し、4隻にてこの漁場を視察したところ可成の漁が見込まれることから25隻余で集団操業を実施していたとき、ネブト漁操業中「トンボシビ」や「メバチマグロ」が釣れる事を知り、又、価格がネブト魚に比ベ「トンボシビ」や「メバチマグロ」が高いのは解り乍らも、はえなわ漁具の購入資金が極めて困難であったが漁具の共同購入等により思い切って、まぐろはえなわに転換したのが、まぐろはえなわ漁業の始めと言われております。

大正7年、15馬力の無水焼玉機関の漁船1隻が建造され、船の大きさは約8トンで、7名から8名が乗組み、対馬の梶木突きや清水のまぐろはえなわ漁業を時期によって操業し、大正9年にはこの型の漁船が21隻に増加しており、大正11年には、35馬力で約12トンの大型船が建造され、まぐろ漁業が年間を通して操業出来るよう漁場の開拓を図るベく大分県より補助金30円を受け三陸沖に出漁、釜石港を基地として、まぐろはえなわを操業、大漁の成績にて帰島し、保戸島を賑わしたとの事であります。

この漁に刺戟され大正12年には27隻の船団を組み、7月より10月まで三陸沖及び北海道沖を漁場とし11月から翌年5月まで清水沖—紀州沖を漁場としてまぐろはえなわ漁業の操業型式が固定化する時代となったのであります。

大正13年、梶木まぐろ突棒漁船及び、まぐろはえなわ漁船の総教は70隻余となり乗組員500人余となり第—期保戸島遠洋漁業の

最盛期となったのであります。

昭和8年から昭和18年までが第二期保戸島遠洋漁業の隆盛時代であり、船型も30トンから40トン級の漁船となり、その数89隻、乗組員1,000人余となり、年間300万円余の総水揚金額を収めるに至り、北は北海道沖から南は大東島付近まで出漁し、全国にその覇を競って生産の大勢を決し、まぐろはえなわ漁業においては日本—と折紙をつけられた保戸島漁民でありました。

然し、昭和18年以後、戦争により是等多数のまぐろ漁船は軍の徴用、その他漁業資材等の不足により悉く消減し、戦後は止むなく沿岸一本釣漁業に依存しなければならない情況となったのでありますが、余りにも多数の沿岸漁船と戦後急激に増加した人口により漁場の狭溢は申すまでもなく漁場の争奪と密漁船の横行により年々漁獲の減少を期し、益々沿岸漁民の生活を脅やかすものとなったのであります。この窮情打開の対策として、昭和26年に漁業法の改正のもと国が漁業権の買上げを行い、この資金約560万円を基金として農林中央全庫の融資を受け、当初深海瀬魚釣及び突棒漁業を目的とし漁業組合自営にて25トン級木造漁船4隻を建造し、後にまぐろはえなわ漁業に転換させたが、この自営漁業を昭和39年に廃止し、漁民個々のカを発揮出来る体制を整え、又、国の行政指導のもと「沿岸から沖合へ、沖合から遠洋」への復活を計画し漁民が漁業組合に結集して水産系統融資を仰ぎ、昭和54年3月31日現在では、まぐろはえなわ漁船19トン型36隻、49トンから79トン型まで101隻、合計137隻を擁し、年間総水揚高106億円余となっており、第三期保戸島遠洋漁業時代を続けておりますが、まぐろ業界を取巻く環境は国際的にも国内的も非常に厳しいものがあり、国際的には200海里間題、国内的には魚類流通機構の複雑さによる魚価の不安定と種々間題をかかえ乍ら、これからの保戸島まぐろ漁業は正に正念場を迎える時代に差しかかっていると言えるのではないでしょうか。

以上の通り、保戸島まぐろ漁業が歩んだ道程の中には先輩の開拓精神と海に生きる漁民としての信念と努力が今日の保戸島まぐろ漁業の礎であった事を私たちは感謝しなければならないと同時に、海難事故によって尊い生命を犠牲にした方々のご冥福を心からお祈り申し上げます。

今はマグロ漁の活気はなく、ひっそりとした島。

住居のほとんどは3階建て鉄筋コンクリート造りで、東洋のリビエラと例えられるように美しい風景だが、リゾートとして再評価されることもなく、空き家が多く過疎化に悩んでいる。

  

津久見港から定期船で島へ

                   

保戸島

港付近

やたらネコが多い。

                                             

山と海に挟まれた路地を南側の小学校方面へ歩く

            

島でたった一人の赤ちゃん

  

海徳寺へ

保戸島国民学校爆撃の犠牲者が眠る

   

70代のおばあさんに寺を案内していただく。兄と姉が爆撃の犠牲になった。

車が使えない島内では背負いカゴが主要な運搬手段。

       

爆撃で死亡した人たちの骨が埋まる。供養の地蔵が悲しい。毎年7月25日に盛大な供養が営まれる。

                                 

寺の裏山と墓地

                                     

再び小学校方面へ

狭い通路は車が通れないが、県道の表示がある。

やたらネコが多い。

                                                                    

小学校付近

       

やたらネコが多い。集団で近寄ってくる。

      

小学校隣の祠

        

小学校にある戦没学徒慰霊碑付近

やたらネコが多い

                                                                    

小学校と中学校は隣接

細い迷路をさらに進む。

           

小中学校と隣接する海

                       

テングサ取り

     

82才のおばあさんに爆撃当時の話を伺う。

小学校3年生の時に爆撃されたが棟が違ったので助かった。弟と妹は犠牲になった。

当時の学校は大変立派だったとのこと。それゆえに誤爆されたのかもしれない。海軍の施設は山頂にあった。

児童たちは近づいて来たグラマンに手を振っていたが、直後に爆弾されたなった。

海は血の色に染まり、遺体が見つからない児童も多かったとのこと。

     

やたらネコが多い。

                                             

港付近に戻る

                  

島の北側へ

                

防空壕跡

   

マグロ船乗組員の住居など

インドネシアからの労働者も多かった

   

トンネルを抜けて北端へ

                   

丘を登り神社へ

                                 

港へ下る

                                                           

帰路

           

   All rights reserved 無断転用禁止 登録ユーザ募集中