岡山県赤磐市 両宮山古墳
(Ryoguzan Burial Mound, Akaiwa City, Okayama)
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July 2011 撮影/文: 野崎順次
岡山県赤磐市和田・穂崎
国史跡
撮影日: 2011年7月2日
備前地区最大規模、全長206m、5世紀後半の前方後円墳である。岡山県内では5世紀前半に造られた造山古墳(岡山市新庄下:350m)、作山古墳(総社市三須:283m)とともに吉備の三大古墳の1つとして数えられている。
両宮山古墳の墳丘には、一部が埋没して水田化しているものの、水をたたえた周濠が巡っている。平成14〜16年度の確認調査の成果によって、この周濠の外側で、新たに周濠の存在が発見され、築造当初の両宮山古墳には二重の周濠がともなっていたことが明らかになった。二重の周濠をもつ古墳は、墓域の拡大や荘厳化を目的に畿内の天皇陵とされている大王墓などを中心にみられ、大王との近親関係によって採用されたものと考えられ。また、墳丘の平面形は大仙古墳(伝仁徳天皇陵)の大きさの5分の2の大きさに設計されており、こうしたことからも、両宮山古墳に埋葬された人物は、大和政権の有力首長と強い結びつきをもっていたと思われる。
両宮山古墳の墳丘は三段築成であり、前方部の南西側は保存状態が比較的よく、中段と下段のテラスが残っている。また、墳丘の両側のくびれ部には極めて高い造り出しをもっている。
墳丘上の調査はこれまでに実施されていないが、墳丘裾部の堆積層の状況や平成14〜16年度の確認調査の成果では、これまでに葺石も埴輪もみつかっていない。このことは古墳築造の最終作業が行われなかった可能性があり、両宮山古墳の謎となっている。速断はできないが、何らかの原因で通常の埋葬が実施されなかったのかも知れない。
パンフレットとアプローチ(岡山からバス)
現地説明板。
両宮山古墳を南から東へ右回りで見て行く。
北から見る。
西から見る。
東南の小山古墳辺りから見た両宮山古墳の遠景
両宮山古墳周辺の古墳
両宮山古墳が築かれた平野をみてみると、同じく古墳時代中期の後半頃に造られた古墳が両宮山古墳の周辺に集中し、1つの古墳群を形成していることわかる。これらの中には両宮山古墳の陪塚と考えられている古墳もありますが、それぞれの古墳に埋葬されている人物が、両宮山古墳の埋葬者の親族や政権を支えた官僚的人物、あるいは両宮山古墳の埋葬者とは別系統の首長であるのかなど、はっきりとわかっていない。
和田茶臼山古墳(和田)
両宮山古墳の後円部北側に造られた、墳丘全長55m、後円部径(推定)41.5mの帆立貝形古墳。後円部の高さは北西のくびれ部から5.65mをはかる。後円部は二段築成と思われる。両宮山古墳と同様に葺石や埴輪は伴わず、また、外濠が両宮山古墳の外濠と一部共有する二重周濠がめぐっている。こうしたことから、この古墳の埋葬者は、両宮山古墳の埋葬者と親密な関係であったと想定される。5世紀後半〜末の築造と考えられる。
東から西北に回ってみて行く。
森山古墳
墳丘全長82m、後円部径63m、同高さ12.1m、総長136mの帆立貝形の古墳。後円部は高さが際立ち、二段築成の可能性がある。周囲には周濠を巡らしていた。両宮山古墳と異なって葺石と埴輪が伴っている。形象埴輪では蓋(きぬがさ)・家が、朝顔形埴輪では肩部に鹿が描かれた破片が出土した。5世紀後半の築造と考えられる
東から西へとみて行く。
廻り山古墳
墳丘全長47mと推定される前方後円墳で、高さ5mの低い丘陵の頂部に造られている。墳丘は畑の開墾が著しいが、大きく開いた前方部を北に向けている。墳丘を取り巻く周濠をもつ古墳は、周辺ではこの古墳が最後と思われる。未調査のため、埋葬の主体部や葺石や埴輪などの外表の様子は不詳であるが、6世紀前半の築造と考えられる。
西から東へとみて行く。
小山古墳
墳丘全長67m、後円部径42m、同高さ7.9m、総長89mをはかる前方後円墳で、二段築成の前方部と三段築成の後円部をもつ。低い丘陵の先端部分に築かれ、前方部を南に向けている。後円部にある社殿の裏側には、熊本県の阿蘇産の溶結凝灰岩製である家形石棺の身と蓋が破片となって残されている。埴輪が列状にめぐっており、5世紀末の築造と考えられる。
現地説明板と北からの全景
南から墳丘に登り家形石棺の破片を見る。
東から見る。
西から見た小山古墳、そして、アジサイと田んぼのカブトエビ。
参考資料
赤磐市の文化財HP
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