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岡山県笠岡市 真鍋島

(Manabejima Island,Kasaoka city, Okayama)

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Sep.2014 瀧山幸伸 

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ネコだらけ

A camera

岩坪

本浦へ

B camera


June 2012 中山辰夫

真鍋島

岡山県笠岡市真鍋島

真鍋島は、岡山県の西南端、瀬戸内海の中程に位置し、岡山県の西部、笠岡港から19㎞の笠岡諸島の

島列南端に浮かび、南を香川県との県境に接する周囲8㎞、面積僅か1.65Km2の島である。

わが国最初の国立公園として昭和9年に指定された『瀬戸内海国立公園(笠岡諸島等の島々)』の区域内に

あって1000年以上の歴史を有する島である。

本州笠岡より20km、四国多度津より20kmの距離にあるため五里五里とも呼ばれた。

笠岡港から三光汽船の快速船に乗り約45分で到着する。

昭和53年(1978)には、古い漁村の形態を残す島として、岡山県の「ふるさと村」に指定された。

かつて島の人口は約600人。男は漁に、女は畑にという島で、花卉栽培で知られ「花の島」とも呼ばれた。

冬、12〜2月頃は島の斜面が寒菊などの花びらで埋め尽くされ、島中には花の香りが充満していたとされる。

さらに昭和59年(1984)映画「瀬戸内少年野球団」・他の作品のロケ地として有名になった。

だが、今は過疎化が進み、人口約200人。小学生7人、中学生3人で老齢化の進んだ島となっている。

島の遠景

平安時代末期に藤原氏の一族が水軍の根拠地を置いて真鍋氏を名乗り、全盛期には付近の島々をことごとく

治め、現在丸亀市の塩飽(しあく)諸島をも支配下に治めていたという。

島には、源平合戦で平家方に属し滅びた真鍋氏の城趾やその供養のために建てたとされる石造宝塔などが残る。

だが、真鍋氏の系譜・伝承については記録も残らず不明なことばかりで解明に至ってない。

訪れた日はあいにく小雨。

笠岡港から真鍋島港までは約40分岩坪港に到着する。海は静かで穏やか。

瀬戸内海に浮かぶ多くの島々を追い越してゆくが雨のため撮影せず。

直鍋島には二つの港がある。岩坪港と本浦港である。

岩坪港の集落地は、「岩坪(いわつぼ)」と称し、東西の山裾、北斜面に広がり、急峻で斜面に張り付くように

家屋が軒を並べる。本浦港の集落を「本浦(ほんうら)」と称し、埋め立て地に集落が広がった経緯から比較的

平坦で区画も整然としている。

岩坪港と集落の町並

岩坪集落は本浦に比べ平地面積も家数も少ない。傾斜地に建つ家が多く、階段状に家が建ち並んでいる。

僅かな平地は港に面した部分のみだ。地形上石垣が多くみられ、石垣集落の様相を示している。

小雨の中、島内の見物を始める。

「城山 じょうやま」と呼ばれる山裾を上る。幅1m強の石道。その両脇には石積に囲まれた家並みがある。

五輪石塔群

笠岡市指定史跡

平安時代から戦国まで、約62基の石塔をあつめたとされる。風化が進み、解読はできず、全部揃ったものもない。

真鍋城跡

笠岡市史跡

さらに山麓を上ると標高84.5mの城山(じょうやま ジャーマ)の城跡に至る。中世水軍の城の遺構とされる。

当時の城郭の礎石や石垣が残る。

127mの城山(しろやま)からは、本土、塩飽諸島までもよく見えるようだ。

庵寺

来た道を引き返して行く。

真鍋氏代々の墓である五輪石塔群の近くにある阿弥陀堂。

真鍋定友が母の菩提を弔うために建立したとされる。(1338年頃)阿弥陀堂の阿弥陀三尊が真鍋氏の本尊とされる。

つまり、真鍋氏代々の供養塔はこの「五輪塔群」であり、真鍋家の本尊は庵家(阿弥陀堂)の阿弥陀三尊との伝承が残る。

もと来た道を下りて岩坪の港近くへもどる。道沿いに金比羅神社(漁業・航海の神)が祀られている。

海岸通りを歩いて八幡神社を目指す。神社を過ぎた辺りから本浦集落である。

八幡神社

八幡宮は、岩坪集落側の宮の端(はな)上部にあり、「祭神は応神天皇、神功皇后ほか三女神」と記される。

元禄9年(1696)現地に移築してより島民全体の氏神としてその信仰を集め、その後度々の改修を行い現在に至る。

二つの参道がある。二集落それぞれ表参道と称している。

社殿は外観のみ

付設の建屋の意匠がいい。

走り神輿

笠岡市指定の無形民俗文化財

現在は、5月のゴールデンウィーク中に開催される。

八幡神社でおはらいを受けた3体の神輿を若者がかつぎ、速さを競う勇壮な行事である。

元禄時代(1688年から1703年)に始まったといわれている。

石段下の自然石の手水舎と瀬戸内海 雨が恨まれる。

本浦港を前方に見ながら、とこのはな公園、幽鬼の浜を過ぎる。島内1本の舗装道路は平成20年に完成した。

途中、白いコンクリートの建物に出合う。5年ほど前に出来た下水処理場である。

塔が目立つ駐在所。六島を管理している。町家を眺めさらに進む。

昼食 島唯一の漁師料理屋“漁火”。鯛のお頭と海老の入った味噌汁が美味かった。

公民館“五里五里”と協力し合って、訪問客のお世話をしている。

懐かしい木造の校舎! 真鍋小学校と中学校 休憩時間に見学させてもらった。昭和24年(1949)建設された。

現在、小学校は7名、中学校は3名の在校生。高校生になると家族が一緒に島外へ移住するようだ。

島にはお年寄りしか残らない。瀬戸内海のどの島も同じ傾向のようだ。無住者の家が並ぶ。

夏目雅子主演の「瀬戸内海スポーツ少年団」の舞台になった中学校のグランド

真鍋島には“久一”という姓が多いと聞く。この旅館はかなり古い町家である。3日ほど咲く見事なクジャクサボテン

久一旅館の横を行く。

良く見かける井戸がある。ほとんどの家に井戸はなく、以前は共同井戸での水汲みが家事として大きな負担だった。

その先が円福寺で高台にある。本堂と遠景

円福寺から下りて、しばらくするとタイルを敷き詰めた路地に出る。島唯一の化粧通りである。

真鍋家住宅

国登録文化財

真鍋家は、化粧通りの道路、右側にある。

島の旧家であり、明治から大正にかけて建てられた5棟の建物によって構成されている。

明治26年建築。旧郵便局舎の北側にあり、現在の真鍋島郵便局に隣接している。歴代郵便局長をされてきた。

中庭「槐園 かいえん」

天保年間「1830〜44」に島を訪れた京都・大徳寺管長・宙寶(ちゅうほう)がエンジュと勘違いして命名したとされる。

書家でも名をはせた宙寶がその時自筆の書を木彫りにした木額。

真鍋家の主屋は書院造りの座敷を有する木造家屋で、国の登録有形文化財に指定されている。

土蔵造2階建。外壁は漆喰(しっくい)塗(ぬり)で腰を海鼠壁(なまこかべ)とする。

ホルトの木

笠岡市指定天然記念物

その木は中庭にある。部屋は茶室であろうか。

盛り上がった根、葉に覆われた太い枝。その枝が伸びて日差しが届かない。

高さ約15m、幹回り約2.4m 熱帯・亜熱帯性の常緑樹で、夏には小さな花をつける。樹齢約250年

家伝によると、宝暦年間(1751〜64)に平賀源内が師から得た苗木を高松藩に献上。それが丸亀藩から讃岐地方の

大庄屋の手に渡り、真鍋家へ贈られたとある。

真鍋邸近くがこの島で唯一の繁華街?である。本浦港にも近い。古い町並みも見られる。

真鍋家は歴代郵便局長のようだ。

三光汽船の切符場の2階がふるさと村資料館。 曇天をうらやむ!

猫が多いと聞いていた。 イタイタ!

鯛やたこを対象にした漁業一本の島。住民は高齢化、若い人は島を出てしまう。空き家も多い。

県外からの移住者を求めている。今回の島のガイドは他県からの移住者であった。

真鍋島の文化財

今回訪問できなかった文化財についてまとめる。

沢津丸の宝塔 通称:まるどうさま

岡山県指定文化財

沢津丸(祖宇津丸)にある石造宝塔。

銘文、仏像、彫刻が施されていないので時代の判定は難しく、構造、形状から判断して平安時代末期から

鎌倉時代初期のものとされる。

源平合戦で戦死した真鍋氏一門の供養塔と伝えられている。

現在、陸路では通行が困難のため、船で沢洲まで渡ると見ることが出来るとされる。

大島のイヌグス

岡山県指定天然記念物

滞在時間は2時間半。その間は雨模様といえ島の人には会えなかった。平均年齢80歳に近いとも聞く。

島を出た若い人たちは、先祖に対する思いが深いので1〜2ヶ月単位で一回は家に帰ってくるとも聞く。

ガイドも他府県からの移住者が行っている。目立った文化も有しない真鍋島の将来が気がかりである。

参考資料≪パンフレット、笠岡市史、笠岡の文化財、記念講演、ほか・写真は「公民館五里五里」に展示の写真を引用≫

≪参考≫

真鍋島及び水軍関係

真鍋島の歴史については「笠岡市史」に詳しく記載されている。それを参照されたい。

真鍋島は、684年頃、備中国小田郡魚渚(いおすな)郷に属した。魚の古語を(まな)といい、魚がよくとれる辺鄙な島

(まなべ島)の名になったともいわれる。

奈良・平安時代は「真名辺、真那辺、真奈辺)」と三文字、享徳2年(1453)の文献以降は「真鍋」二文字になった。

真鍋島は、平安時代の末期から開発され始めた。この開発者の中核人物が私有田領主、開発領主となり、成長した

姿が武士となった。真鍋氏の祖伝も開発領主であったといえる。

西行法師が真鍋島に来島したのは仁安3年(1168)である。「山家集」に真鍋島を詠んでいる。

『真鍋と申島(もうす)に、京より商(あき)人どもの下りて、様々の物ども商ひて、またしわくの島にわたり、商はんずる

由申(もうじ)けるを聞きて ≪真鍋よりしわくへ通ふ商人はつみをかひにて渡るなりけり』

『串に刺市たる物を商ひけるを、何ぞと問ひければ、蛤を乾して侍(はべる)なりと申(もうし)けるをききて ≪同じくは

かきをぞ刺して乾しもすべき蛤よりも名もたよりあり≫』

西行の時代は平安末から鎌倉初期であるが、この頃には真鍋島へ京都から商人が来島していた。真鍋島が海産物

の豊富な瀬戸内海の要衝であったことがわかる。

この地域の海産とその流通に最も関わっていたのが島名を姓とした真鍋氏である。平安末期頃の瀬戸内海は海賊の

横行が激しく、その追捕に当った平家と真鍋氏との間に関係が生じ、さらに所領を守るため平家の家人となったとされる。

こうした経緯があって、真鍋氏は源平合戦で平家に組した。。

1184年に源平一の谷の合戦で、「まなべ四郎・五郎」の活躍が残されているが、翌年の屋島・壇ノ浦の戦いで平家

は滅亡。 真鍋一族も大敗した。沢津丸に遺る「まるどうさま」は、源平合戦で討死した真鍋一族の供養のために建

てたとされる。

14世紀頃までの真鍋家については活躍の情報もあるようだが、その後は真鍋島から忽然と姿を消したとされる。

真鍋一族については、資料も殆ど残されず、詳細が未解明の状態にあるとされる。

真鍋家・水軍の経緯については、「笠岡市史」が詳しいが、ここでは省略する。

まなべ会

全国各県に[まなべ会]が結成され、(まなべ)を名乗る人が入会している。全国から真鍋情報が入るようだ。

真鍋島で[真鍋]を名乗るのは真鍋禮三氏お一人と聞く。


Aug.2010 野崎順次

笠岡諸島 真鍋島

撮影日: 2010年8月13日

真鍋島には国登録有形文化財に指定されている真鍋家住宅があると云うので、見に行ってみた。高速船に乗って潮風に吹かれてみたかったし。

平安時代、藤原氏の一族が真鍋氏を名乗り 全盛期には付近の島々を 配下に治めたという。

古いコールタールの炭焼きの家が多く残り、 古い町並みの残る集落がある。

映画やドラマのロケで使われることもあり、 映画「瀬戸内少年野球団」は有名。 ロケで使われた木造校舎の小学校も、 ちゃんと残っている。

JR笠岡駅から南に400mほどで笠岡港がある。

ちょうど、午前10時50分発の高速船が出るところだった。

白石島、北木島を経由して40分少しで真鍋島に着く。料金は片道で1710円と高い。

左手にカブトガニ博物館が見える。

細長い入り江を抜けて外海に出て、白石島に向かう。

白石島から北木島へ。

そして、午前11時34分、目的地の真鍋島に着いた。

国登録有形文化財「真鍋家住宅」

船着き場で真鍋家住宅の場所を聞いたが、誰も知らない。「豪邸だと思うのですが」と云うと、「豪邸かどうかは知らないが、ホルトの樹のある家ではないか。」と教えてくれた。200m位先の郵便局の裏にあった。登録有形文化財の表示もあるし、縁側には観光客用の記名帳もあるが、誰もいない。呼び鈴を押しても返答がない。

笠岡市指定天然記念物「ホルトの樹」

小さな中庭に噴き出すように立つ樹齢250年のホルトノキがある。熱帯亜熱帯性の常緑樹で、高さは15m、目通りの幹回りは約2.4m。家伝によると、宝暦年間(1751-64)、発明で知られる平賀源内が師から得た苗木を高松藩に献上。それが丸亀藩から讃岐地方の大庄屋にわたり、真鍋家に送られたという。夏には小さな花をつけるらしいが見なかった。その内、別の訪問者が来たが、何を見るべきか、よく分かってない風だった。とりあえず、ホルトの樹の幹に耳を当てていたが、説明書にある「250年のいぶき」は聞こえなかったようだ。

真鍋家の周囲、真鍋家は代々郵便局長だったようだ。

真鍋島本浦地区の町並み。廃墟に近い建物が多く、のんびりとしている。エアコンのある家が少ないようで、スダレ越しに大声の会話が聞こえる。帰りは午後1時20分の高速船に乗ったので、結局、真鍋島滞在時間は1時間40分だった。

参考資料

笠岡市公式HP 

岡山県公式HP

山陽新聞夕刊記事(2001.3.24.)

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