岡山県倉敷市 野崎浜
Nozakihama,Kurashiki city,Okayama
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野﨑家ゆかりの灯明台と墓碣碑
(Lighthouse and Epitaphs related with Nozaki Families,
Kurashiki City, Okayama Pref.)
JR児島駅一帯には、「塩田王」と呼ばれた野﨑家ゆかりの史跡が多く残されている。その祖である昆陽野(こやの)武左衛門は、寛政元(1789)年児島郡味野村に生まれ、足袋の製造・販売業から、1827年以降塩田開発へと転身し、味野・赤崎沖に約四十八町歩の塩田を完成させた。その塩田は両地名の一字ずつをとって野﨑浜と名付けられ、自らも新たに野﨑姓を名乗った。武左衛門はこの後も児島半島南岸を中心に塩田を開発し、1862年までに約150haの巨大な塩田地主となり、塩・石炭問屋や新田開発も営んだ。
(おかやま人物往来ウェブサイトより)
文久二年(1862)武左衛門66才の時に長男常太郎(35才)が病没する。その7年後に常太郎の墓碣碑が立てられた。その翌年、野崎塩田は142町歩、塩戸70軒となり、元野崎浜灯明台が設置された。元治元年(1864)武左衛門(75才)が歿する。そして、明治5年になって、味野明神島に武左衛門の墓碣碑が設立された。常太郎と同じく、山田方谷撰、宮原竜書である。山田方谷となっているが、実際には3大弟子の一人、三島中洲がほとんど書いたらしい。
市文 旧野崎浜灯明台
この建築は日本式木造灯明台で,味野浜と赤崎浜境の入江の埠頭にあり,文久3年(1863)に塩釜明神の御神燈として,また,浜へ出入りする船の夜間照明のための灯台として建てられました。この地は野崎武左衛門が創始した塩田地帯の東端に当たり,かつては野崎浜と呼ばれ,塩の積出しをする船着場になっていました。灯明台は桁行1間,梁間1間で,宝形造,本瓦葺の屋根には露盤の上に宝珠が据えられています。高さは約9.7mで,灯室の周囲には欄干を巡らし,その下から四面に裾開きに焼板を張り,基礎部分には花崗岩の切石を用いています。こうした木造高灯籠形式のものは全国的にも少なく,西洋式灯台に変わる以前の灯台を知ることができる資料として,貴重な遺構となっています。
少し北に行くと、塩釜明神を祀る塩釜神社がある。塩田ができる前は孤立した島で明神島といわれていたのだろう。その境内の一角に野﨑武左衛門と常太郎の墓碣碑が立っている。
野﨑武左衛門と野﨑常太郎の墓碣碑(山田方谷撰)
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