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岡山県倉敷市 倉敷美観地区周辺

Kurashiki historic area, Kurashiki city,Okayama

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 General
 
産業と文化と歴史が調和した街
 Nature
 
 
 Water   倉敷川の美観を大切に維持
 Flower
 
 Culture
 
商人の伝統と文化
 Facility
 
 
 Food
 
 


倉敷市中央1-2-1 旧大原家住宅(岡山県倉敷市中央) 主屋 重文 近世以前/民家 江戸後期 19世紀前半 "居室部 正面14.4m、側面16.8m、一部二階、丁字形入母屋造、四面庇付、本瓦葺、背面突出部附属、座敷部 桁行13.4m、梁間6.6m、北面入母屋造、南面居室部に接続、桟瓦葺" 塀3棟 19710311

倉敷市中央1-2-1 旧大原家住宅(岡山県倉敷市中央) 内倉 重文 近世以前/民家 江戸後期 19世紀前半 土蔵造、桁行6.8m、梁間3.9m、二階建、切妻造、本瓦葺 19710311

倉敷市中央1-2-1 旧大原家住宅(岡山県倉敷市中央) 離座敷 重文 近世以前/民家 江戸末期 19世紀中頃 桁行8.8m、梁間5.6m、入母屋造、西面及び北面庇付、本瓦葺 19710311

倉敷市中央1-2-1 旧大原家住宅(岡山県倉敷市中央) 倉 重文 近世以前/民家 江戸末期 19世紀中頃 土蔵造、桁行8.6m、梁間6.2m、二階建、切妻造、西面庇付、本瓦葺 19710311

倉敷市中央1-2-1 旧大原家住宅(岡山県倉敷市中央) 新倉 重文 近世以前/民家 江戸末期 19世紀中頃 土蔵造、桁行7.1m、梁間6.2m、二階建、切妻造、西面庇付、本瓦葺 19710311

倉敷市中央1-2-1 旧大原家住宅(岡山県倉敷市中央) 中倉 重文 近世以前/民家 江戸末期 19世紀中頃 土蔵造、桁行12.2m、梁間6.2m、一部二階、切妻造、西面庇付、本瓦葺、内中倉との取合部附属 19710311

倉敷市中央1-2-1 旧大原家住宅(岡山県倉敷市中央) 内中倉 重文 近世以前/民家 明治 明治 土蔵造、桁行16.4m、梁間6.0m、切妻造、本瓦葺 19710311

倉敷市中央1-2-1 旧大原家住宅(岡山県倉敷市中央) 北倉 重文 近世以前/民家 明治 明治 土蔵造、桁行11.0m、梁間5.5m、二階建、切妻造、本瓦葺 19710311

倉敷市中央1-2-1 旧大原家住宅(岡山県倉敷市中央) 壬子倉 重文 近世以前/民家 大正 大正元(1912) 土蔵造、桁行6.9m、梁間4.9m、二階建、切妻造、妻入、本瓦葺 19710311

倉敷市中央1-2-1 旧大原家住宅(岡山県倉敷市中央) 西倉 重文 近世以前/民家 大正 大正 土蔵造、桁行9.5m、梁間5.6m、二階建、切妻造、本瓦葺 19710311

倉敷市中央1-40 井上家住宅(岡山県倉敷市本町) 主屋 重文 近世以前/民家 江戸中期 18世紀初期 "居室部 正面16.9m、側面20.4m、二階、丁字形側面入母屋造、背面切妻造、四面庇付、西面湯殿及び便所附属座敷部 桁行11.4m、梁間6.9m、一部二階、入母屋造、東面居室部に接続、南西北面庇付、北面三階蔵間廊下附属本瓦及び桟瓦葺" 土塀2棟、家相図1枚 20020523

倉敷市中央1-40 井上家住宅(岡山県倉敷市本町) 三階蔵 重文 近世以前/民家 江戸中期 18世紀初期 土蔵造、桁行7.5m、梁間5.6m、三階建、切妻造、本瓦葺 20020523

倉敷市中央1-40 井上家住宅(岡山県倉敷市本町) 井戸蔵 重文 近世以前/民家 江戸中期 18世紀初期 土蔵造、桁行4.0m、梁間3.4m、切妻造、本瓦葺 20020523 


Mar.21,2023 野崎順次 source movie

倉敷美観地区

5年ぶりに昼過ぎに児島からのバスで着いた。春分の休日、天候は曇りで、人出は少なめだった。倉敷音楽祭のステージがあったが、これから始まるのかもしれない。

                                                                        

 


March 21, 2023 野崎順次 source movie

 

岡山県倉敷市中央1丁目2-1
語らい座 大原本邸


語らい座大原本邸(旧大原家住宅)は、これまで閉ざされてきたものでも、新しく建てられたものでもない、
ずっと人が生活を続けてきた、生きた重要文化財です。過去を振り返るにとどまらず、時代時代の先端性・本質性を表現し、今とこれからを考え語り合う場、すなわち“触媒”(catalyzer)でありたい―
大原美術館の正面、倉敷美観地区に新たなメッセージ。

パンフレット
       


建物外観
       


入口
     


土間 ~ふりそそぐ言葉~
ふりそそぐのは大原家5代壮平、6代孝四郎、7代孫三郎、8代總一郎が語った言葉。
「十人のうち七人も八人も賛成するようなら、もうやらない方がいい。」
「感情を出発点とした政策には賛同できない。」
「うーん」と唸るもの、「これだっ!」と納得するもの、「?」首をかしげるもの…みなさまは何を感じていただけるでしょうか。
      


つみあがる必然
        


どま
     


この家で
    


井戸へ
         


倉前の通路
               


中倉1 ~大原家の全仕事~
大原家8代の歩みを年表形式でご紹介しています。
       

中蔵2 10年先の見えた人
7代大原孫三郎をご紹介するお部屋です。
   

内中倉 ~哲学する経営者~
8代大原總一郎をご紹介するお部屋です。
            

通路
     


ブックカフェ(内中倉)
大原總一郎の書斎をイメージしたカフェスペース。
總一郎の好きだった「鳥類」「民藝」関連の書籍を含め、蔵書約2,000冊を展示しています。(お読みいただける本もご用意しております) 本に囲まれた落ち着いた雰囲気の中で、「語らい座 大原本邸」ブレンドのコーヒーをお楽しみ下さい。
            


離れ座敷の前
    


離れ座敷 ~思索の、間~
7代孫三郎がお茶を楽しみ、8代總一郎はレコード鑑賞と代々の当主がくつろいだ離れ座敷。目の前に広がる日本庭園は孫三郎が自ら作庭に関わったもの。松の古木とたおやかなもみじから零れる光が、庭一面に生えた苔を照らします。
賑やかな倉敷美観地区にあってここは別世界。喧騒を離れゆったり流れる時間の中で、街歩きの疲れを癒し、またご自身の過去を振り返り、これからを考えてみてはいかがでしょうか。
離れ座敷では、お抹茶もお召し上がりいただけます。
                          


Mar.21,2023  野崎順次 source movie

大橋家住宅

岡山県倉敷市阿知3-21-31

国指定重要文化財 主屋・長屋門・米蔵・内蔵

大橋の歴史
代々中島屋平右衛門と称し、水田・塩田を開発して大地主となり、かたわら金融業を営み大きな財をなしていきました。
天保の飢饉(概ね1833~1836江戸四大飢饉の一つ)には金千両を献じて名字を名乗る事を許され(当時農民・町民は名字を名乗ることが出来ませんでした)、加えて讃岐(現香川県)の直島に塩田十二町七反余りを開いてその功で、帯刀(刀を腰にさすこと)をも許され、江戸時代の末期 文久元年(1861)には倉敷村の庄屋をつとめました。
※ 金千両=当時の物価で換算すれば約1億円
※ 十二町七反=38,100坪=126,000㎡(東京ドーム3個弱)
※ 江戸四大飢饉=江戸時代に起きた長期にわたる冷害・旱魃(干ばつ)・水害などの悪天候や害虫の異常発生火山噴火などでの凶作の連続による飢饉の内、最も被害の甚大であったものをいう。寛永・享保・天明・天保の四つとされるが、寛永年間のものを除いて3大飢饉とされることもある
※ 庄屋=村落の長=納税その他の事務を統轄
(公式ウェブサイト)

建物の歴史
大橋家は倉敷町屋の典型を示す代表的な建物で、主屋・長屋門・米蔵・内蔵の4棟が、昭和53年(1978)国の重要文化財の指定を受けています。
街道に面して長屋を建て、その内側に前庭を隔てて主屋を構えた建物の配置が特色となっています。主要な出入り口がその長屋を貫くように作られているため「長屋門」と呼ばれ、通常の町屋では許されない事が行なわれていることは、当時倉敷代官所の許可があったわけで、その格の高さが偲ばれます。
主屋は入母屋造(いりもやづくり) で本瓦葺き、屋根裏に部屋と厨子(ずし)を設けた重層の建物が主体となり、東には平屋建ての座敷があります。
用材の多くは地方産の松を使い、化粧材はケヤキ、杉などを用いて鉋(かんな)仕上げにして、簡素ではあるが行き届いた建物となっています。
「普請覚」のほか,棟札・墨書等の資料から寛政8年(1796)より寛政11年(1799)にかけて主要部分が建築され, その後,文化4年(1807), 嘉永4年(1851)の2度にわたって大改造が行われたことが判明しています。
平成3年~7年にかけて,3年4カ月を要した建物の解体を含む保存修理工事が行われ,最も屋敷構えの整った嘉永4年(1851)の姿に復元され 当時の格式の高さと繁栄ぶりを伺い知る輝きを取り戻しました。
※ 普請覚=建築・土木工事の覚書
※ 入母屋造=2階上部の屋根が2方(開いた本を逆さにした形)へ勾配した切妻(きりつま)構造と、階部分の屋根が4方へ出た寄棟(よせむね)構造で造られていること
※ 厨子=屋根裏・天井裏の物置場
(公式ウェブサイト)

パンフレットと現地説明板
       


裏の駐車場から内蔵を見つつ、正面に出て、長屋門
              


中に入って振り返ると長屋門は赤っぽい塗り壁、正面に主屋、左手に米蔵
            

右手に入って、「おおざしき」前の庭園、そして神社
            


戻って、米蔵と展示
                       


主屋の中へ、「どま」とそれに沿って「みせのま」、「なかのま」、「いま」そして「だいどころ」
                           

「どま」を抜けて振り返ると、米蔵、井戸、主屋
       

主屋の奥へ、「こざしき」、「おおざしき(下の間)」、「おおざしき(上の間)」
           


中庭
          


中庭をめぐって
      


「しょさい」
    


さらに奥へ、坪庭
     


「しんざしき」
                 


内蔵の手前、ミシンと金庫
          


ポーランドからのツーリストグループに遭遇、とても楽しそう。
                                

脱いだ靴が整然と並んでいる。靴だけ見ると小学生グループかと思う。
   


帰途、JR倉敷駅まで徒歩数分
       



July 2020 酒井英樹

倉敷川畔伝統的建造物群保存地区
 
 倉敷は中世から近世初期にかけて干拓で開かれ、高梁川と児島湾を結ぶ運河として倉敷川が作られ内陸の港町になった。
 天領として備中松山城の城番で備中代官であった小堀政一が陣屋を構えた後、代官所がおかれた。
 舟運を利した港の機能より年貢米の集積地とし、倉敷が商人の町として発展した
 倉敷代官所は旧来の「古禄」(井上家など)と18世紀に台頭する新興勢力の「新禄」(大原家、大橋家など)と呼ばれる豪商たちによる自治を認め優遇したため、倉敷川畔を中心に発展した。

 つし二階で本瓦葺の主屋や土蔵など伝統的な建造物が建ち並ぶ。
 塗屋造で、庇屋根の上などにも瓦を貼ったものが多い。
 
                                                                                                                                                                                                                                                                   

 

 大原家住宅 

 大原家住宅は中世から近世初期にかけての干拓された土地で江戸時代は天領であった倉敷川の北側一帯にある。
 大原家は大地主として資本を蓄積し、反物を倉敷屈指の豪商となった。
 屋敷は寛政年間に移り、敷地を拡大し現在の規模となった。
 「古禄」と呼ばれる倉敷の政治を主導した旧家の一つ。


<主屋>

 

          


 《内部》

         

<離座敷>
 

 《内部》

         

<内倉>

 
<倉>
  



<新倉>
     


<中倉>
     


<内中倉>
     


<北倉>
  


<壬子倉>
 


<西倉>



***主屋裏倉群***
    

 

井上家住宅

July 2011 
 
 井上家は信濃に発し、文禄年間に倉敷に移ったされる。
 「古禄」と呼ばれる倉敷の政治を主導した旧家の一つ。



<主屋>
            



March 19, 2017 野崎順次 source movie

お彼岸のお墓参りを午前中にすまして、児島からバスで来たら賑やかである。倉敷音楽祭とやらで、美観地区では水上ステージがあり、茶屋町の鬼や素隠居にも会えた。

茶屋町の鬼

茶屋町の鬼は、倉敷市茶屋町地区に200年以上前に起こった民俗文化です。様々な形相の鬼面に、家紋等をあしらった胸当て・手甲・脚絆(きゃはん)の装束に派手なタスキを背中に垂らした姿で、杖やこん棒を持ち、神社の境内や茶屋町駅前に現れたり、お神輿とともに町内を歩き回ったりしていましたが、昭和30年代から40年代にかけて衰退していました。

 その後、町民有志の熱意により、昭和50年(1970年)に「茶屋町の鬼保存会」が結成され、茶屋町の鬼の保存や推進を目的とした鬼装束の作成や管理、地域の催しへの参加や、茶屋町の鬼を中心としたイベントの企画・運営を行うようになりました。その結果、茶屋町の鬼が安定して現れるようになりました。

(「くらしき地域資源ミュージアム)ウェブサイトより」

素隠居

元禄5年(1692年)、阿智神社にほど近い戎町の宰領を務めていた沢屋善兵衛が寄る年波に勝てず、人形師の柳平楽に頼んで「翁」(じじ)と「媼」(ばば)の面を作らせ、店の若者にこの面を被らせ、主人の代理として御神幸の行列に参加したことに始まるとされている。素隠居という呼び名は明治以後誰彼となく、この「じじとばば」のことを呼びはじめたようだが、ただの御隠居という意味で「素の隠居」であったり、「素晴らしい隠居」であったり、「素朴な隠居」というような意味が語られている。

この素隠居の面は見た通り、らっきょうの形に似ていることから怯えながらもこの素隠居を挑発する子供達は「すいんきょ、らっきょう、くそらっきょう」とはやしたてて逃げまどう。素隠居が持っている渋うちわで頭を叩かれると、賢くなるとか、健康になるとか言われている。

また、別の言い伝えには、この素隠居は神代の昔、天孫降臨の御先導を承った塩土翁の由縁にちなんで、御神幸の通路を清めて悪魔祓いするのだという説もある。

(ウィキペディア「素隠居」より)

高砂橋に水上ステージ

         

鬼がいたので驚いたが、これが茶屋町の鬼。

     

人だかりがあるので見ると、狭い道に入ってしまった乗用車

   

ちょっと横道に回り込んでから、中橋へ行ったり来たり

                              

中橋から今橋へ、アオサギがいた。

                          

今橋あたり、大原美術館、旧大原家住宅、有隣荘など

               

中橋に戻る。

      

中橋から高砂橋

                                   

船倉町から児島行のバスに乗る。

  

倉敷川沿いに梅じゃなく桜にしては早咲き過ぎる花並木がある。以前にはなかったまだ幼い。河津桜だそうだ。入船橋(美観地区の南端)から粒栄橋まで約3kmの川沿いに、約1000本が植樹されているそうだ。いずれ倉敷名所となるのだろう。

            


Feb.21,2017 瀧山幸伸 

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東町の東端を起点に、本町、美観地区、アイビースクエアの順に周り、元に戻る。最後に鶴形山へ。

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                      


September 22, 2015 野崎順次 source movie

岡山県倉敷市

倉敷美観地区

(Kurashiki Bikanchiku, Kurashiki City, Okayama Pref.)

倉敷川畔。今年も川面に萩の花が映える季節がやってきた。

       

花嫁花婿

          

中橋を過ぎて

                 

今橋あたり

               

中橋に戻る。

             

本町通りから有鱗荘裏通りを経て倉敷川畔

                                  

何故か、再び、本町通り

      

中橋に戻る。可愛い着物姿の外人娘など。

       

倉敷川畔

            

高砂橋あたり

      


May 4, 2015 野崎順次 source movie

岡山県倉敷市

倉敷美観地区、東町から本町

(Higashimachi to Honmachi in Kurashiki Bikan Area, Kurashiki City, Okayama Pref.)

電柱がなくなってすっきりした通りを東町から撮影を始めた。

             

本町通り

                                    

広い通りになる。

               

中国銀行を通過して商店街の方へ直進する。

        

誓願寺山門の人馴れしたネコ

       

あの好きな裏路に寄り道

   

商店街に戻る。

  


May.28.2014 中山辰夫

中世、浅瀬であったこの地は、時の藩主・宇喜多秀家による潮止め工事で新田が開発され倉敷村が誕生した。

倉敷川の水路で発達した倉敷の町は、かつて米や物資の集散地であった。大坂冬の陣、当時この地を治めていた小堀遠州が十数万石の兵糧米をここから徳川方に送ったことから幕府直轄地(天領)となった。その後、急速に発展するなかで優れた商人や事業の成功者たちを多く輩出することにつながった。

川沿いには白壁の米蔵が立ち並び、往時の賑わいを彷彿させる。

■■倉敷美観地区

伝統的構造物保存地区

伝統的建造物群保存地区(倉敷川周辺)は倉敷川畔伝統的建造物群保存地区の名称で国の重要伝統的建造物群保存地区として選定されている。

江戸時代初期の1642(寛永19)年、江戸幕府の天領に定められた際に倉敷代官所が当地区に設けられ、以来備中国南部の物資の集地として発展した歴史を持つ。明治維新後は徐々に衰退。新たな産業として「倉敷紡績所」が1888(明治21)年に設立された。

旧市街地は戦災、災害に会うことがなく、「商人の町」で知られた倉敷は新たな経済の時代を迎えたが、街並み保存の重要性に着目した大原孝四郎・大原孫三郎氏の尽力で現在の保存活動へとつながった。

1930年(昭和5年)に建てられた日本最初の西洋美術館、大原美術館や1888年(明治21年)に代官所跡地に建てられた旧倉敷紡績工場の建物を改修・再利用した観光施設倉敷アイビースクエア等も当地区を代表する建築物である。

■■散策は、倉敷中央通り、美観地区の入口から始める

■倉敷川沿線

     

■倉敷物語館

長屋門や土蔵など、江戸から昭和初期にかけての構造物が残っている古民家。東大橋家住宅の母屋と4つの土蔵、中庭を改修した文化施設。

     

■中央通りをさらに進む

情緒あふれる街並みやのどかな風景を味わう。

    

■大原美術館

1916(昭和5)年倉敷の実業家大原孫三郎氏が設立した。西洋武術・近代美術を展示する日本で最初の市立西洋美術館。ギリシャ神殿風の本館である。

旧友の洋画家・児島虎次郎の渡欧と名画の収集を全面支援した。

            

■有隣荘

大原家旧別荘。建設費用は美術館のおよそ5倍ともいわれる。内装は児島虎次郎が担当。大原孫三郎が病弱な妻を気遣い「落ち着いた住まいを」と、美術館の

向かいの本邸の隣に建設した。瓦の色調から地元では「緑御殿」とも呼ばれる。独特の製法で焼かれた瓦は、見る角度によって緑色に光る。

  

■■倉敷川今橋〜中橋までの周辺

■大原家住宅(国重文)・倉敷館・加計美術館・倉敷民芸館などの主要構築物が見える。

               

■人気の川舟下り

  

■倉敷考古館

中橋から見る正面の姿は、倉敷美観地区を象徴する景色である。側面の「張り瓦」も見事である。

    

■■中橋〜高砂橋までの周辺

美観地区を代表する店舗が並ぶ。日本郷土玩具館・倉敷民芸館・星野仙一記念館・からくり博物館などが見られる。

江戸の風情と新時代の産業・文化が入り混じって町並みを構成している。

                

■■倉敷アイビースクエア散策

1889年(明治22年)に江戸幕府の代官所跡に倉敷紡績工場が建設され、 1973年(昭和48年)に改修されて現在の観光施設になった。

赤レンガと蔦が印象的な施設内には、ホテル、レストラン、多目的ホール、倉紡記念館、児島虎次郎記念館、オルゴール館等がある。

■毅然として建つ赤レンガの外壁概説

    

■倉敷アイビースクエアの案内

 

■児島寅次郎記念館

大原コレクションに尽力した児島寅次郎画伯は大原コレクションに尽力した。

   

■倉敷記念館

国登録文化財

倉敷紡績の明治時代からの資料を展示。建物は昔の原料倉庫である。 紡績所に続く石畳の道は江戸時代の米俵の運搬道で轍が出来ないようにしている。

    

■見事な蔦が覆う構内

赤レンガを覆う蔦は紡績工場であった頃に工場内部の温度調節の為に植えられた。

       

■スクエアー正門と目立ったもの

      

■■本町通り〜東町通り

倉敷川を挟んでの本町通りとは感じが異なる。

倉敷川の畔から鶴形山南側の街道一帯に白壁なまこ壁の屋敷や蔵が並び、天領時代の町並みをよく残している。1969年に倉敷市の条例に基づき美観地区に定められ、1979年(昭和54年)に県内2件目の重要伝統的建造物群保存地区として選定された。

■続く家並み

古い建物を利用した店や民家が並ぶ。往時は賑やかな街道だった。その面影が感じられる。

          

■阿智神社

倉敷市本町12

美観地区の一角、鶴形山に鎮座し、旧倉敷の総氏神を祀る。祭神は海の守護神である。鶴形山が、瀬戸内海に浮かぶ島だったことから阿智神社は今でも海の守護神とされる。その名残がいくつかある。石灯籠はかっては川灯籠であったという。

        

■■東町界隈

現本町とともに、東町通りは旧街道に沿っており、近くには街道の道標も残っている。明治24年鉄道が開通してからは商業の中心地が駅前に移るが、戦前までは東町通りが幹線道路でボンネット型のバスが通っていた。

東町通は昭和54年に「重要伝統的建造物群保存地区」として国の選定を受ける。平成22年電線地下埋設工事が完了し、一晩中街灯がともる明るい街並みになる。

■東町通りへと進む

阿智神社からさらに東は、町家を利用したカフェやギャラリーが多くなる。じっくり見ると歴史を伝えるスポットも多くある。

            

■『ひやさや』

ひやさいとは細路地の事で、差し込む日が弱く「陽(ひ)が浅い路地」もしくは「ひさしが合わさるほどの細い路地」が語源といわれる。

 

■石道標

「はしまや呉服店」を過ぎた所にある石道標は、江戸時代の道路標識で、ここから右は由加神社、左は吉備津神社へ続くことを示す。往時はメインストリートだった。

 

■はしまや呉服店

倉敷市東町

楠戸家(はしど)住宅 国登録文化財「主屋他5棟」(主屋・米蔵・炭蔵・道具蔵・塀) 創業1869(明治2)年

楠戸家住宅は、標高36.8mの鶴形山の南山麓に位置し、周辺一帯は阿知の潟と呼ばれる浅海であったが、高梁川の沖積作用による堆積が進み、1584年(天正12年)宇喜多秀家による潮止め工事が大々的に行われ新田が開発された。

楠戸家は、この新田開発で出来た農地での綿の栽培を受け、紺屋を営む。綿花栽培がますます盛んになり、機織りが行われ、機織屋で反物を買い販売する呉服店を1869年(明治2年)創業した。

    

■船着場跡

倉敷市東町

本町通りを東に進むと左側に見える石段。ここは元船着場で、かつてはこの辺りまでが海だった。この石段を上った所で荷物の荷揚げが行われていた。今は神様が祀られている。

 

■倉敷川

    


Feb.2014 瀧山幸伸

                   


August 24,2013 大野木康夫

倉敷市芸文館から倉敷川沿いに北へ

柳の緑が雨ににじんで少し幻想的でした。

                 

旅館鶴形の西の小路から倉敷本通りへ

   

井上家住宅(重要文化財)は平成24(2012)年から6年間の保存修理が始まっており、覆いの中でした。

 

倉敷本通りを東へ

    

阿智神社の石段からの眺め

   

阿智神社

     

アイビースクエアの西の通り

         

川沿いの通りを西へ

        

 

旧大原家住宅

大原家は、倉敷において江戸時代後期から台頭した「新禄」と呼ぶ町人層の中でも筆頭に位置する豪商で、主屋はじめ十棟が重要文化財に指定されている。

屋敷は十九世紀初めから大正にかけて順次整えられたものであるが、倉敷の現存する町家の中では最も規模が大きく、附属屋も完備していて、いかにも倉敷らしい商家の構えを保っている。

(国指定文化財等データベースより)

非公開なので、外観のみの撮影です。

主屋(重要文化財)

江戸後期、19世紀後半の建築

居室部 正面14.4m、側面16.8m、一部二階、丁字形入母屋造、

四面庇付、本瓦葺、背面突出部附属、

座敷部 桁行13.4m、梁間6.6m、北面入母屋造、南面居室部に接続、桟瓦葺

よくわかりませんが、内部で複雑な構造になっているようです。

                  

内倉(重要文化財)

江戸後期、19世紀前半の建築

土蔵造、桁行6.8m、梁間3.9m、二階建、切妻造、本瓦葺

離座敷(重要文化財)

江戸末期、19世紀中頃の建築

桁行8.8m、梁間5.6m、入母屋造、西面及び北面庇付、本瓦葺

この2棟は外から見えませんが、屋根の一部でも見えればと阿智神社の絵馬殿から撮影しました。

衛星放送のアンテナが立っているのがおそらく主屋の座敷部で、その右(西)の土蔵壁が見える切妻屋根が内倉、さらに右(西)の左右(東西)に伸びる瓦屋根が離座敷だと思います。

   

他の土蔵群はすべて外から見ることができます。

倉(重要文化財)

江戸末期、19世紀中頃の建築

土蔵造、桁行8.6m、梁間6.2m、二階建、切妻造、西面庇付、本瓦葺

主屋の北側、曲がり角に面しているので撮影しやすい建物です。

         

倉からは小路に面して土蔵が並んでいます。

新倉(重要文化財)

江戸末期、19世紀中頃の建築

土蔵造、桁行7.1m、梁間6.2m、二階建、切妻造、西面庇付、本瓦葺

倉の西隣の土蔵です。

    

中倉(重要文化財)

江戸末期、19世紀中頃の建築

土蔵造、桁行12.2m、梁間6.2m、一部二階、切妻造、西面庇付、本瓦葺、内中倉との取合部附属

新倉の西隣の土蔵です。

  

内中倉(重要文化財)

中倉の西隣の土蔵です。

写っている取合部(黒木の戸が設けられている所)は中倉の附属になっています。

   

北倉(重要文化財)

明治期の建築

土蔵造、桁行11.0m、梁間5.5m、二階建、切妻造、本瓦葺

西北角に位置する土蔵です。

       

壬子倉(重要文化財)

大正元(1912)年の建築

土蔵造、桁行6.9m、梁間4.9m、二階建、切妻造、妻入、本瓦葺

北倉の南隣の土蔵です。

    

西倉(重要文化財)

大正期の建築

土蔵造、桁行9.5m、梁間5.6m、二階建、切妻造、本瓦葺

壬子倉の南、少し奥まったところにある土蔵です。

   

鶴形山各所から撮影した旧大原家住宅の屋根

        


July 14, 2013 野崎順次 source movie

えびす商店街から本通り商店街

                  

本町通り、電信柱と地上電線がなくなっていくのがよい。

                    

旅館鶴形、有隣荘、大原家邸宅の裏通りは、いつも人が少なく、別世界のようである。

                     

突然、スコールのような雨が降ってきた。

                             

雨が上がって、むしむしする熱気が戻る。

                                 

川舟

                                             


Dec.2 2012 田中康平 source movie

大原美術館と倉敷市倉敷川畔

Ohara Museum,Kurashiki city,Oksyama pref.

岡山県倉敷市

2012.12.2-3 撮影

倉敷市倉敷川畔 伝統的建造物群保存地区 選定年月日:1979.05.21(昭和54.05.21)

解説文: 天正12年(1584)宇喜多秀家により新田の開発が行われ、のち備中松山藩の港として上方への物資の輸送中継地となった。寛永19年(1642)、天領となる。元禄から文政の約130年間に人口は2倍となり、本瓦葺塗屋造の町並みが形成された。

大原美術館 

実業家大原孫三郎が私財を投じて建設した。薬師寺主計の設計にて、1930年11月完成。

                       


Sep. 2012 野崎順次 

美観地区の夏

(Bikanchiku in Summer, Kurashiki City, Okayama Pref.)

撮影日: 2012年8月13日、26日

今年の夏は暑かった。美観地区でも、もちろん、暑かった。

                                                                                           


July 2012 野崎順次 source movie

岡山県倉敷市 倉敷美観地区

(Kurashiki Historic Area, Kurashiki City,Okayama Pref.)

撮影日: 2012年7月7日

雨上がりの七夕の日。

                                                                           


July 2011 酒井英樹

井上家住宅

 井上家は信濃に発し、文禄年間に倉敷に移ったされる。
 「古禄」と呼ばれる倉敷の政治を主導した旧家の一つ。


<主屋>
    

旧大原家住宅

  

 


June 2011 野崎順次 source movie

撮影日: 2011年6月4日

人々が集まって何やら見ている。新緑の倉敷川で白鳥のヒナが寄り添って昼寝してた。違うところでは、鳩が人間の親子に寄り添っていた。梅雨の合間、すっきり晴れた午後でした。

            


May 2011 野崎順次

撮影日: 2011年5月4日

今年のゴールデンウィークは東日本大震災の影響で観光客が西に流れ、倉敷はすごい人出だった。

JR倉敷駅より、えびす通り、本町通り商店街を通る。

                       

美観地区。

                       

何やら催しがあり、倉敷小町がほほ笑んでいた。倉敷商工会議所青年部が毎年コンテストをして小町を選ぶらしい。

          

美観地区をうろうろ

                                                      


Dec.2010 川村由幸

訪問日:Dec.8, 2010

大原美術館の鑑賞に訪問しました。

もちろん美術館の内部は撮影できません。倉敷の美観地区を撮影。

川沿いによく整備された美しい街並みが並んでいますが実は、この通りから一本裏に入った吉井旅館のある通りのほうが趣があると感じます。

                     


Oct.2010 野崎順次

岡山県倉敷市中央

倉敷美観地区の萩の花

(Bush Clover at Bikan Historical Quarter, Kurashiki, Okayama)

撮影日: 2010年10月23日

                              

 


Aug.2010 野崎順次

旧倉敷銀行

(Former Kurashiki Bank Head Quarter, Kurashiki, Okayama)

岡山県倉敷市本町3−1

国登録有形文化財 

撮影日: 2010年8月12日

竣工: 1922年(大正11年)

設計: 薬師寺主計

倉敷の町では、今でも、この銀行を本店と呼ぶ人がいる。それは明治年間に大原孝四郎、孫三郎二代に亘っての倉敷銀行本店が、ここにあったからである。江戸時代、天領の町、倉敷は、ゆたかな米の生産に支えられ、倉敷川の舟運を中心に、その河畔が大いに栄えた。倉敷銀行は、その金融を一手にまかない倉敷紡績の発展や、大原美術館創立にも寄与し、やがて現在の中国銀行の源流となる。美しいステンドグラスをもつこの建物は今、中国銀行の倉敷本町支店として使われているが、建築は大正11年、ルネッサンスの様式を備え、当時としては珍しく、いかにも大原孫三郎の気宇を窺うに足るものと思われる。

薬師寺主計 (やくしじかずえ )1884年-1965年

岡山県総社市に生まれ、大学在学中に倉敷紡績社長の大原孫三郎と出会い、大原美術館の設計など倉敷のまちづくりに多大なる貢献をした。 また、近代建築の巨匠ル・コルビュジエに会った最初の日本人といわれている。

建物外部

                 

建物内部

        

参考資料

中国銀行説明

倉敷観光地域情報HP

倉敷館

(Kurashikikan, Kurashiki, Okayama)

岡山県倉敷市中央1丁目4−8

国登録有形文化財

撮影日: 2010年8月12日

1917(大正6)年に倉敷町役場として建てられた洋風木造建築。現在は観光案内所として観光ガイドや宿泊施設の紹介を行うほか、無料休憩所として自動販売機やコインロッカー、トイレを備えています。観光の起点や情報収集に便利なスポットです。

                                        

参考資料

倉敷市 倉敷観光WEB

岡山県倉敷市本町7-2

倉敷アイビースクエア(旧倉敷紡績工場)

(Kurashiki Ivysquare, Kurashiki, Okayama)

撮影日: 2010年8月12日

1889年(明治22年)に江戸幕府の代官所跡に倉敷紡績工場が建設され、 1973年(昭和48年)に改修されて現在の観光施設になりました。 赤レンガと蔦が印象的な施設内には、ホテル、レストラン、多目的ホール、倉紡記念館、児島虎次郎記念館、オルゴール館等があります。

倉敷アイビースクエアのシンボルでもある赤レンガと蔦は、紡績工場であった当時、 大原孫三郎氏の「自然と調和しながら健康的な労働環境を」という信念の基に植えられていました。 夏は赤レンガに覆い茂り暑さから守り、冬は落葉して赤レンガに外気を当て、 内部の温度調節を蔦が見事に果たしています。

                                       

国登録有形文化財 倉紡記念館(旧原綿倉庫)

1969年(昭和44年)にクラボウ創立80周年の記念事業として設立されました。 元々は社員の教育の一環として設立された記念館ですが、1971年(昭和46年)から一般公開されるようになりました。 館内には1888年(明治21年)からのクラボウの歩みと紡績産業の歴史が年代順に紹介されています。 この展示施設には、クラボウの創業当時に建てられた原綿貯蔵用の土蔵倉庫が再利用されています。

   

国登録有形文化財 児島虎次郎記念館(旧製品倉庫)

倉敷アイビースクエアの一角にある大原美術館の別館。児島虎次郎室では児島虎次郎画伯の作品を、オリエント室では、児島氏が集めた古代エジプト美術と中世イスラム美術、故水野清一京都大学教授の協力で収集した先史イラン美術を見ることができる。建物は明治39年に倉敷紡績が5度目の工場増設を行った時、製品倉庫として建てられたもの。煉瓦造り(一部木造)の平屋建物で、建物入口の擬石洗い出しのアーチなど、往時の姿をよく留めている。

   

参考資料

倉敷観光地域情報 WEB

近代建築Watch HP hardcandy.exblog.jp


May 2010  瀧山幸伸 source movie

 

倉敷の街並

Kurashiki townscape

A camera

大橋家付近

  

美観地区へ

                                                       

本町通

   

井上家住宅

     

                         

東町

                             

代官所跡、アイビースクエア付近へ

                           

美観地区

                                    

阿智神社

        

B camera

                                                                                                                                                                                

大橋家

Ohashike

  

A camera

                                                                 

B camera

                                                                       


May.2009  野崎順次

井上家住宅 

Inoueke

国指定重要文化財 

住所:倉敷市本町1−40

建築年代:江戸時代中期

    

外部

        

内部(表屋土間)

       

説明パネル

       

路地(ひあい)と蔵(井戸蔵、三階蔵)

  


May.2009  野崎順次

楠戸家住宅

Kusudoke

国登録文化財 倉敷市重要文化財 

住所: 倉敷市東町

建築年代: 明治時代中期

店舗兼住宅の特長

厨子二階建て塗屋造り庇付き切妻本瓦葺き屋根

虫籠窓

倉敷格子(親付き切子格子)

通し梁

通りに面する土間部分の広い出入り口

明治2年創業のはしまや呉服店である。その明治期の伝統的建築様式に惹かれ、バーナード・リーチ、サルトル、ヴォボアール、ロックフェラー三世、柳宗悦、司馬遼太郎、小倉遊亀など多くの文化人が訪れた。

            

はしまや呉服店には七つの蔵があるが、その内の一つを改装して作ったのが「ギャラリーはしまや」である。一階に喫茶店と家具店がある。訪問時には二階でトルコ絨毯展示会が開催されていた。

              

東町の街並

   

 


Mar.2008 撮影:高橋明紀代

白壁や古い建物の店の玄関の構え。陰影が美しい

  

春の雨で、しずけさと落ち着きが増す街並

   

大橋家住宅 (国重要文化財)

   

夜もガラス越しに眺められる店々のひな人形

   


Dec.2003 美観地区  瀧山幸伸 source movie

四百年前は寂しい漁師町だった倉敷。13軒の村から始まり干拓で農地を拡大していったのだが、天領で税が安かったことが幸いし大いに村勢が拡大した。

現在のアイビースクエアの場所に倉敷の代官所ができたのは延享3年(1746)とずっと後のことだが、商人とお代官様との癒着や派閥抗争など不名誉な歴史を持つ。

その後も商人町として発展し、明治以後はクラボウの紡績で栄えることとなる。

今日の倉敷は国際的な観光都市として伝統と文化の資源を大切にしている。

近江八幡と同様「映像になる街並」の倉敷にもフィルムコミッションがあるように、美観地区、倉敷川に沿った大原美術館や観光案内所は地域を代表するランドマークで、歴史の街並に西洋文化が融合された雰囲気を醸し出している。

あるいはアイビースクエア、明治22年に建てられた旧倉敷紡績工場であるが、かつての近代化遺産は廃墟となっていた。

これが観光向け宿泊・展示・工房の複合施設として立ち直ったのは1974年(昭和49年)。産業遺産の有効活用事例としては先駆的だった。

倉敷川に沿った街並も美しいが、それ以前に遡る商人文化の源泉を探ってみるのも面白い。

一歩足を伸ばして、本町、東町、大橋家住宅など、倉敷の街の遺伝子を今に伝える街並を探訪してみよう。

 

案内図 (倉敷市資料)

 

【大原美術館付近】

江戸時代中期からの大地主で倉敷レイヨン社長だった大原総一郎が、昭和35年自宅の蔵を改造し、世界的陶芸家の浜田庄司、バーナード・リーチ、富本憲吉、河井寛次郎を呼び寄せたことが倉敷文化の源流となっている。

その後別の蔵で棟方志功が展示されるなど、大原総一郎の功績は偉大だ。

文化を擁護する人は歴史に残る。経済人であるとか、東大で教えていたとかではなく、今日も今後も、文化教養人としての大原総一郎の名は倉敷とともに残っていくであろう。

  

大原邸 国重要文化財

 

観光案内所 倉敷館

 大正6年に倉敷町役場として建てられた。

 

【有料観光ガイドの是非】

オーストラリアから来訪した青年が「ボランティアだと思ったらビジネスなんだ。バッジまで着けているので紛らわしいね。開発途上国の客引きと同様な行為は文化都市として残念」と言っていた。厳しい意見だ。

図書館隣の観光休憩所では無料のガイドサービスが利用できるので、客が公平に選択できるように、有料ガイドも観光休憩所内で営業してもらうのが良いだろう。

有料と無料のサービスとスキル、料金の違いを明確にすれば良い。

路上での営業は、似顔絵や大道芸と同様、賑わいを演出する地区では良いのだが、美観地区のように景観とムードを重視する場所では是非を議論すべきであろう。

 

【倉敷川に沿った街並】

近江八幡、柳川、佐原などのような船の往来は無いので、少しばかり寂しいのが残念。歩行者専用道路の標識は無粋だ。

   

   

【倉敷川沿いから本町へ】 美しいなまこ壁を抜けて行く

  

【本町の街並】

中国銀行倉敷支店倉敷本町出張所

 第一合同銀行の倉敷支店として大正11年に竣工した。

 

井上家

 国重要文化財。18世紀初頭の建築。江戸時代には地主で村役人を兼ねていた。主屋は大型で上質な造りで、倉敷を代表する町家。通りに面した表屋(おもてや)、背後の角屋(つのや)からなる居室部、角屋西の座敷部からなる。

 

電柱と通過交通がなければ個性的な街並が活きるのだが。

       

虫籠窓、なまこ壁が街並にアクセントを与えている。

   

東町の街並 通過交通も少なく落ち着いている 

  

道しるべは今となってはストリートファニチャーとして重要店の屋根にある玄関灯は、車の往来で破壊され避難した結果。本来は軒下から道に突き出していた。

  

蔵を改造したインテリア用品の店舗

 

 

【大橋家住宅】 

 国重要文化財。 塩の商人大橋家は塩田・新田の開発と金融で栄え、備中一の豪商と言われた。最近修復され公開された。

 

       

懐かしい柱時計 

 

中庭、床の間、障子、欄間、唐紙、窓に気品が満ちている。

          

召し太鼓

 

       


Dec.2004 まとめと提言 瀧山幸伸

 

倉敷は大好きな町だけに、最近の沈滞状況には落胆する。今後の期待をこめて、このように変わって欲しいとの願いを述べてみたい。

【倉敷の現状と問題提起】

 平成16年12月に倉敷市がまとめた観光アクションプラン(pdf形式)によると、倉敷観光の現状は

・観光客は減少傾向(入込み人数1000万人から640万人に)

・観光客の評価は「期待はずれ」

・滞在時間が極めて短い

・消費単価が減少傾向

・観光事業の連帯感が不足

・基礎データが不足

という結果が現れている。

団体周遊型観光に頼ってきたつけが回ったと宣言しているに等しい。ほとんどの観光客は短時間倉敷川沿いに歩くだけ。

大橋家を訪れる観光客はごく少数で、たとえ訪問しても数分で去って行く。このような客をたくさん集めても効果があるのだろうか。

観光事業者と、観光に無関係な市民との間に意識のずれがあるそうだが、観光業に携わっている人が潤えば市の税収も増え、市民全員が恩恵にあずかれる。

「観光で市の経済を発展させる」という明確な方針を市民全員が共有する必要がある。

以下、簡易にアクションプランの検証を行ってみたい。倉敷の観光行政に資すれば幸いである。検証の方法論として、行政の最上位概念である「理念(施政方針)」から具体的な各論である「戦術」まで順を追って検証する。

 

【観光客のトレンド】

 全国各地を調査し、地元の方から話を伺って感じることだが、これからの観光は

・短期から長期へ

・団体から個人へ

・単発からリピートへ

・「目」の観光から自己実現体験へ

という潮の流れの変化がある。

倉敷のポジションを他の代表的観光地と比較して図解してみよう。基本路線を変えないと生き残れないことがわかるだろう。

 

【理念(ポリシー)の確立】

アクションプランには数々の客数増加策が提示されているが、期限と数値目標、そして予算が無い「アクション」プランは「ノーアクション」プランになりはしないか。

倉敷の観光事業者 (ホスト)側の視点で論理展開されているが、お客様(ゲスト)側の視点、例えば、観光客は倉敷に何を求めているのか、の分析が足りない。

アクションプランの端々に「旅行会社とタイアップ」「宣伝」「交通機関とのタイアップ」「観光セールスマン」「送客力ある旅行会社の販売促進に頼る」という言葉が登場するように、旅行代理店主導の団体・歓楽消費型大量集客モデルに執着している。

観光に携わる人々は過去のビジネスモデルから抜け出せていないようだ。

理念の根幹であるアクションプランの題目も「観光都市くらしきの復活を目指して」となっているが、「文化都市くらしきの進化を目指して」がふさわしいのではないか。

「観光」では競合と差別化できないし、市民と訪問客の目指すべき方向(共有価値)も一つにならない。

「芸術文化の街倉敷」、その青写真完成までには100年かかっても良いので、人口に膾炙する、わかりやすい理念を掲 げたい。

今後は保養充電、自己実現型の個人リピーター客がターゲットであり、それらの客はクチコミの広報マンとなりうる。

行動科学的に見てもマス広告、マス集客ではなく、 "Content customer is the best salesman."(満足したお客様のクチコミこそ最大の営業)という格言はブランド戦略として重要だ。

インターネットの社会では、ますますクチコミが重要となるし、客にとっては「何のために倉敷を訪問するのか」が重要である。

倉敷に必要な処方箋は、由布院と同様、団体客を敬遠する「デ・マーケティング」かもしれない。

現在の基盤があれば、個人客に「倉敷で自分を磨く、倉敷で充電する、倉敷で癒されたい」と言われるようになるまで、それほど時間がかからないであろう。

【目標と戦略 データに基づいた数値目標とアクションプラン】

基礎データが不足しているということだが、その気になれば観光客へのアンケートや統計は簡単に取れる。

日本ではあまりなじみが無いが、ハワイなど観光で成り立っている外国のノウハウを学べばよい。

例えば、入込み人数ではなく、延べ滞在人数、平均滞在日数、平均消費単価を指標とするべきだ。

手元に基礎データが無いので、仮定の数字で目標と戦略を議論してみる。実数はデータを取ればおのずと確定するので。

仮説目標: 「10年で観光収入5倍増アクションプラン」 (現状観光収入140億円/年を740億円/年にするために10年で100億円投資する)

・入込み人数 640万人を最盛期の1000万人に

・平均滞在日数 1.1日/人を1.2日/人に(「10人に1人が一泊」から「10人に2人が一泊」に倍増) 現在の宿泊施設は質量ともに潜在需要に応じていない。

・延べ滞在人数 700万人を1200万人に(上記の計算結果)

・グループ:個人比率 7:3を3:7に逆転させる(客の滞在時間、文化度向上等により消費単価増)

・国際観光者 2%を10%に(国内外の知識層、メディアに国際観光拠点としての地位を認識させ、国の観光・文化支援を得やすくする)

・市内での1人1日あたり消費単価2000円を日帰り客は5000円、宿泊客は1.2万円/日に

以上の計算結果として、観光収入140億円が740億円となる仮説が生まれる。

年間740億円の収入が実現できれば、観光を基幹産業に位置づけることに疑問を持たないであろうし、税収増加分を観光関連に拡大再投資するのも理にかなっており、100億円程度の投資は現実的だ。

【戦術 アクションプランに織り込むアイデア】

 しかしながら、それを実現するためにやらなければならないことはたくさんある。市のアクションプランに不足している考え方やアクション項目をアトランダムに列挙する。

・本町や東町を歩行者天国にする

個人客がのんびりと散策したり食事したりする憩いの場所はあまりない。

・本町通りの電柱を撤去する

国内外を問わず、電柱を撤去した街並と比較すれば一目瞭然である。

・街角や軒下に潤い(水と緑と花)や芸術文化の香りを。

文化の町というイメージが先行しているが、観光客ががっかりするのは、本町通りの各建物や街路に芸術文化や緑、花、水を取り込む努力が不足しているからではなかろうか。

例えば新潟の村上で始まった新しい動きは注目に値する。住民が自発的に始めた「町屋の雛飾り、屏風飾り」を展示する月間イベント、これは村上市も観光協会も無視していたが、今や多くの観光客が訪れる「祭り」に成長した。

小諸でも、観光協会と市の観光行政は小諸懐古園の「観光客」に固執しているが、市民有志はこれと決別し、北国街道の歴史的な街並と文化を活かした町おこしのコミュニケーションイベントを始めている。

蕎麦屋の2階で永六輔と寄席を楽しむ、このような文化活動は、文化都市倉敷ではなおさら相乗効果があり、好ましいのではなかろうか。

・鳥のさえずりを復活する

旧い街並みを歩行者専用にして車の騒音と恐怖を排除しても、他の騒音に悩まされる。

全国の調査ビデオから音だけを抜き出して、その街特有の音を分析しているが、残念ながらほとんどの旧い街並を訪ねても大都会のようにカラスの騒音に悩まされ、非常に居心地の悪さを感じる。

しかし、一部の街、例えば奈良の五條では1キロに及ぶ街並を歩く道すがら、小鳥のさえずりが心を和ませてくれる。

おそらくゴミ処理などをきちんと行っているのだろう。倉敷にはぜひ耳に心地よい小鳥のさえずりを復活してほしい。

そうなれば宿泊客も小鳥の声で目覚め、早朝の散歩にも小鳥の声を楽しむことができる。

・町全体を芸術文化の無料テーマパークと位置づけ、一日では回りきれない街を創る。

宿泊の経済効果は大きい。そのために、芸術文化と相乗効果のあるアクションを拡大し、それにマイナスの現象やアクションを解消する。

例えば、チボリ公園は可及的速やかに改造すべき施設だ。倉敷の風土や資源との相乗効果を戦略的に捉え、日本一特色ある、和風文化芸術を結集した無料テーマパーク「智慕里(ちぼり)」に改造する。

参考例として、愛知万博至近の足助には、かつての手仕事を復活して真のものづくりを問いかける「三州足助屋敷」というテーマパークがある。

チボリ公園では少しずつ芸術文化のテーマ施設を増やしていく。そこへの訪問者は、結婚記念日などの夫婦のアニバーサリー客をメインターゲットに据える。

夫婦客、記念日だから、個人宿泊客とリピーターの需要が創出でき、市全体の宿泊誘導と消費単価アップを図る。

カップルが施設来訪のたびに記念寄付を行う「アニバーサリーメモリアルプログラム」を実施する。

例えば、自分たちが寄進した植樹や建築物などが成長したり形を作っていく、その過程を見るのは楽しみなことだし、世代を超えてメモリアルな場所になるので、次世代の来訪にもつながる。

・芸術文化を重視した「ピクチャースポット百選」、「サウンドスポット三十選」を選定進化させる

これは難しい手法ではない。最初はつまらないものでも、徐々に進化を遂げていく。

そうなれば、数年に一回は訪れたくなるのは人情だ。三景、八景、三十景、百景など、今で言えばスタンプラリーだが、芸術文化的な数揃えスポットの訪問人気は歴史が証明している。

現在、「倉敷百景」の写真がホームページに掲載されているが、それがどこなのか、地図もなければ、解説も無ければ、写真のアングル、撮影の日時、露光など、写真趣味の人であれば当然知りたい情報が全くない。

これではピクチャースポットとして趣味人を呼ぶことはできない。

・温泉の宿で宿泊誘導と夜の活性化

古い街には温泉が似合うが、そのような情緒的な理由ではなく、滞在客誘引策として至急温泉掘削を行うべきだ。

温泉は国内外から広く個人の宿泊客を誘引することにも寄与する。

既存の宿泊施設は概して個人保養向けではないので、これを多大な投資で個人向けの充実施設に改変するのではなく、温泉付きのB&B(朝食のみ提供するBed and Breakfast)施設とし、夕食は街中での飲食施設を充実させて対応すべきである。

大型旅館のようなセルフコンテインド型(タコツボ型)施設で、客の行動と消費を館内で完結させるような手法では、夕方の街の賑わいが生まれない。

夜の街歩きが楽しい街を目指すべきだ。また、チボリ公園とアイビースクエア付近には宿泊兼用の温泉テーマパークも必要だ。

古い街での宿泊施設付設型温泉保養施設の参考事例として、民営ではルネス金沢、公営では馬籠のクアリゾート湯船沢が挙げられる。いずれも観光拠点として大成功している。

【ホスピタリティ】

客の質を問うということは、倉敷人のホスピタリティも問われると言うことだ。

アクションプランでもホスピタリティの向上を宣言しているが、今の倉敷市民は本当に個人レベルで訪問者と友達になることまで望んでいるのだろうか。

倉敷の人が現状の団体客と親しくなる機会は限られている。団体客もそれほど親しくなることを望んでいないだろう。

やはり、芸術文化など同じ趣味、同じ価値観を共有する者同士であればこそ、時間をかけて交流できるのではなかろうか。

観光に携わる人ばかりでなく、その町の全員にホスピタリティ精神が浸透していないとうまくいかない。

例えば島根県津和野のおまわりさん。街並と水路と森鴎外で、かつてはアンノン族のメッカとなり、一世を風靡した観光の町だが、興ざめなパトカー警官に遭遇した。

写真撮影のため一瞬停車した観光客に対して、大きなスピーカー音で「そこの車をとめてる人、早くどかしなさい」風の、戦前のような威圧的な言葉を使っているのを見た。

彼らにはホスピタリティなどという概念は無いのであろうか。訪問者にとっての印象は悪くなる。

逆に、よそ者ナンバーの訪問者には親切にしてくれるおまわりさんがいる町は心地良い。

地方行政全体のマネジメントに関わってくる問題である。

違う視点で見れば、登校中の小学生やお年寄りが見知らぬ観光客に「おはようございます」と挨拶するかしないか、それがその街のホスピタリティの指標と実感される人は多いのではなかろうか。

子供が挨拶する街は大人も挨拶する。

今まさに倉敷人の真価が問われている。新潟の村上や山形の金山を参考に、倉敷人の心意気をかけて全員参加の個人ボランティアを実践してみよう。

・ 「ホスピタリティスポット百選」を選定する

「個人客のみ」をおもてなしするために、無料の湯茶と菓子・漬物と床机を備えたホスピタリティスポット(休憩所)を百か所作ってはどうか?

その場所を運営するのは、ボランティアプログラムとして小額の委託謝礼で参加する各商店や民家だから、彼らが持つ伝統的な品物、例えば古い民具、着物、陶磁器、人形などを、町屋の窓際に展示してはどうか。

一服休憩すれば、おいしいお店、訪ねるべきスポット等々、訪問客と住民の会話が生まれる。

このような試みが1年以内に実行できれば、倉敷は日本一ホスピタリティ溢れる町になるのではないか。

そうすれば徐々に個人客が増え、流れが変わる。

もしこれが団体客相手であれば、大声で客に呼びかける店員と我先に走り回るグループ客とが倉敷の雰囲気を台無しにしてしまうのではないだろうか。

【コミュニケーション】

・倉敷の情報集約本(4カ国語)を発刊する 

芸術文化を愛好する訪問客の知的好奇心を刺激する、内容の濃いガイドブックが必要である。

このようなガイドブックは海外では一般的である。国内の旅行ガイドはカラーで美しいが歴史や文化芸術などの中身が薄い。

芸術文化祭、ビエンナーレなど、世界的な文化人、日本の作家等芸術文化関係者に対し執筆論評等を積極的に働きかける。

・情報集約本の内容で総合ウェブを作成する

個人客向けの情報ツールとしてウェブは機能しているだろうか。現状の団体旅行のパンフレットをスキャンしたような情報では足りない。

個性の無い一方的な情報のホームページはホスピタリティからは遠い。

情熱的なメルマガやブログによるライブ感のある双方向メディアも見当たらない。

そのようなツールを使って、倉敷人のパーソナリティを紹介することが必要だ。

例えば、個人が質の高い地域情報を発信している「足助からの便り」などが参考になろう。

没個性的、官僚的な広報手段では芸術文化を志向する顧客の心に響かない。


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