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岡山県津山市 本源寺

(Hongenji Temple, Tsuyama City, Okayama Pref.

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津山市小田中1373 本源寺 本堂 重文 近世以前/寺院 桃山 慶長12(1607) 桁行25.3m、梁間18.9m、一重、入母屋造、南面唐破風庇付、南面東玄関附属、桟瓦葺 棟札1枚 20130807

津山市小田中1373 本源寺 庫裏 重文 近世以前/寺院 江戸中期 延宝(1673-1681)頃 桁行20.0m、梁間12.0m、一重、一部二階、切妻造、妻入、南面庇付、東北西面下屋及び西面渡廊下附属、桟瓦葺 20130807

津山市小田中1373 本源寺 霊屋 重文 近世以前/寺院 江戸前期 寛永16(1639) 桁行三間、梁間三間、宝形造、向拝一間、軒唐破風付、背面位牌壇附属、銅板葺 20130807

津山市小田中1373 本源寺 霊屋表門 重文 近世以前/寺院 江戸前期 寛永16(1639)頃 四脚平唐門、銅板葺 20130807

津山市小田中1373 本源寺 中門 重文 近世以前/寺院 江戸前期 17世紀中期 一間薬医門、切妻造、桟瓦葺 20130807


Dec.3,2020 瀧山幸伸  source movie

                               

                        


October 2,2016 大野木康夫 source movie

所在地 岡山県津山市小田中1373

本源寺 五棟

本堂、庫裏、霊屋、霊屋表門、中門

本源寺は津山市街西部に所在する臨済宗妙心寺派の寺院で、津山城主森家の菩提寺である。津山市神戸にあった安国寺を前身とするが、慶長8年(1603)に森忠政が美作に入封し、小田中の丘陵地へ移転して森家の菩提所に定め、同12年に現在地へ移転、龍雲寺と改称した。天和3年(1683)忠政50回忌に際し、忠政の院号より本源寺に改められた。

南の総門から参道が北に延び、中門を開く。中門の奥に本堂が建ち、その東に庫裏が並び、渡廊下で接続する。本堂の北西が森家の墓所で、本堂西の霊屋表門の内に霊屋が南面して建つ。本堂及び庫裏は平成21年11月25日付けで津山市指定重要文化財、霊屋、霊屋表門は森家墓塔、石敷の参道及び石灯籠とともに平成21年3月10日付けで岡山県指定重要文化財になっている。

本堂は慶長12年(1607)に上棟した。桁行25.3m、梁間18.9mの方丈形式の本堂で、屋根は入母屋造桟瓦葺で軒は一軒疎垂木とする。柱は太さ六寸角で面取が大きく、長押と貫で固め、上部桁を直接受ける。平面は六間取を基本とし、正面は奥行5.9mの広縁で北半を畳敷、南半を板敷とする。中央南室を21畳の室中とし、北の仏間に仏壇を置く。仏壇裏は西半を位牌堂、東半を物置とする。東列は南北に12畳室を並べ、北室は北面にトコを設け、東面に一間幅の畳縁を付す。西列南室は12畳で、北室を西に一間ずらして仏間背面への通路をとる。西列北室は御座間とし、奥に上段と位牌壇を設けるなど位牌堂の機能を取り込む。正面西寄りに御成玄関を付し、7畳半、御次を経て御座間へ至る。天井は室中、仏間及び正面広縁北半を鏡天井とし、他は棹縁天井とする。内部の建具は付樋端の鴨居で建て込む。室中は正面中央間と東、北、西の室境に筬欄間を嵌める。正面広縁表側の柱間装置、南面東隅の玄関など後世の改変もあるが、軸部や梁組、平面構成は慶長建立時の位牌堂を取り込んだ方丈形式の本堂の特徴をよく留めている。

庫裏は、延宝(1673-1681)頃の建設とみられる。桁行20.0m、梁間12.0m、一部二階、切妻造桟瓦葺で、南面妻入とし、出入口に庇を付す。軒は一軒疎垂木、正面妻面は一間毎に柱が立ち、妻桁上に束を立て、中央二間に重梁を載せ、扠首付きの棟束で棟木を支える簡素な意匠を示す。平面は南から二間半が土間で、西から四間の位置で東西に区画し、西土間の東北隅に大竈を据える。土間から北一間半を板間とし、その北の居室は西列が12畳2室、中列が南から10畳、6畳、8畳、東列は8畳を3室取る。土間は吹抜とし梁組を見せるが、他は棹縁天井または根太天井とし、つし二階を設ける。屋根東面には屋根を切り上げた煙出しを2箇所設ける。本堂と接続する渡廊下は桁行12.5m、梁間5.8m、切妻造桟瓦葺で北に東から4畳半2室と6畳の3室を並べ、南側を板敷の廊下とする。庫裏は南面を除く3面に居室、便所及び浴室など居住のための改変があるが、軸部や梁組、平面の構成は建設当初の状態を良く残す。

霊屋は、森忠政の没後5年を経た寛永16年(1639)の建立である。桁行三間、梁間三間、宝形造銅板葺で、軒は一軒疎垂木とし、正面に唐破風屋根の向拝を付す。平面は中央を八畳の上段とし、正側面は一間幅の畳縁、奥は畳敷の仏前とし、位牌壇を背面に張り出す。仏前西脇は小間、東脇は納戸である。南面及び西面に濡縁を廻らす。天井は、上段は折上格天井とし、中央を円形の縁をまわした鏡天井とし龍を描く。仏前は棹縁天井、畳縁は鏡天井とする。正面中央には朱漆塗の桟唐戸を吊り、両脇間には花頭窓を開ける。向拝は柱頭部には金襴巻状の地紋彫、頭貫に亀甲模様の地紋彫を施し、破風や垂木は精緻な彫刻で飾る。

霊屋表門は、霊屋と同時期の建立とみられる。一間一戸の四脚平唐門で屋根を銅板葺とする。本柱を円柱、控柱を角柱とし、石製礎盤上に立て、頭貫及び腰貫で繋ぎ腰長押を廻す。控柱上には台輪を置き、組物は出三斗を置き梁と桁を支える。妻飾りは板蟇股とし、桁下中備えには中央に出三斗、両脇に蟇股2基を置く。扉は桟唐戸である。霊屋同様に頭貫や桟唐戸幕板の地紋彫、蟇股彫刻や冠木先の八双形彫刻など精緻な細工を施す。

中門は、江戸初期の建立とみられる。一間一戸、切妻造桟瓦葺の薬医門である。五平の本柱で冠木を受け、直交して梁を4本渡す。本柱頂部は前後に肘木を出し、皿斗で梁を受ける。妻飾りは板蟇股とし、中間部梁上の大瓶束は頭部四方に拳鼻を付ける。軒は一軒疎垂木とし、垂木は反りを持つ。扉は格子戸で腰を板張とする。

本源寺は、慶長期に遡る方丈形式の本堂を中心として、庫裏、中門や、精緻な彫刻で飾られた森家代々当主を祀る霊屋など桃山時代から江戸中期までに整備された建造物が一体で残されており、地方において大名家の菩提寺として建てられた臨済宗寺院建築の初期の遺構として価値が高い。

(国指定文化財等データベース詳細解説)

椿高下から城西地区へ向かう途中の民家

  

旧中島病院本館(登録有形文化財)

所在地 岡山県津山市田町122

大正6(1917)年建築、平成21(2009)年改修

木造2階建、鉄板葺一部スレート葺、建築面積127㎡

津山城西方の市街地に所在。木造2階建で、東正面にポーチを付け、その屋根をドーム状につくる。当初はスレート葺で、ドーム部分に名残を留める。壁は小豆色のモルタル掻き落としで、コリント式の柱や窓飾り等を人造石とする。城下の町並に彩りを添える洋風建築。

(国指定文化財等データベース)

  

藺田川、イベントで賑わう橋は翁橋(登録有形文化財)

  

本源寺到着

イベントは「津山・城西まるごと博物館フェア」で、本源寺も中門が「城西お宝さがし」のスタンプ所となって賑わっていました。

  

表門

    

中門(重要文化財)

17世紀中ごろの建築

一間薬医門、切妻造、桟瓦葺

                    

本堂(重要文化財)

慶長12(1607)年の建築

桁行25.3m、梁間18.9m、一重、入母屋造、南面唐破風庇付、南面東玄関附属、桟瓦葺

                    

本堂左手(西側)が霊屋

霊屋表門(重要文化財)

寛永16(1639)年頃の建築

四脚平唐門、銅板葺

                   

霊屋(重要文化財)

寛永16(1639)年の建築

桁行三間、梁間三間、宝形造、向拝一間、軒唐破風付、背面位牌壇附属、銅板葺

表門右手(東側)の入り口から入ることができます。

                        

庫裏(重要文化財)

延宝(1673-1681)頃の建築

桁行20.0m、梁間12.0m、一重、一部二階、切妻造、妻入、南面庇付、東北西面下屋及び西面渡廊下附属、桟瓦葺

本堂の左手(東側)です。

          

本堂と庫裏

 

城東地区へ向かう道中

洋館は作州民芸館(旧土居銀行本店)で登録有形文化財

所在地 津山市西今町18

大正9(1920)年の建築

木造2階建、鋼板葺、建築面積284㎡

明治30年設立の土居銀行の社屋として建てられた。ルネッサンス様式を基本としながら,多様なモチーフを用いる。木造であるが西洋古典様式風のオーダーが付く石造風の外観である。現在は資料館として用いられ,その特異な外観からひときわ目を引く存在である。

(国指定文化財等データベース)

       


July 18,2015 瀧山幸伸 source movie

                                                                                                          

   


May 5, 2014 野崎順次 source movie

岡山県津山市小田中1373

臨済宗妙心寺派

東海山 本源寺

初代津山藩主は森忠政で、本能寺の変で戦死した森蘭丸の実弟である。

森氏は、清和源氏八幡太郎義家の六男義隆の後裔で、義隆が相模の森の庄(神奈川県)を領していたことから「森」を苗字とした。

忠政は元亀元年(1570)美濃金山(岐阜県兼山町)城主森可成の六男に生まれ、可成、兄長可の死後、秀吉の命によって天正十二年(1584)金山城主になった。天正十年(1582)信長と共に本能寺の変で討死した蘭丸、坊丸、力丸の三兄弟は忠政の実兄である。

慶長三年(1598)秀吉の死後は家康に仕え、功をもって慶長五年二月信濃川中島十三万七千五百石の大名になり、同年八月の関が原決戦での功績を評価され、慶長八年(1603)二月、美作国十八万六千五百石の国主大名として津山に入国した。

森家は初代忠政から四代長成まで九十五年間美作国を支配し、築城、城下の町造りを行なうとともに、民生の安定、産業の振興に努め、この間に形成された美作の歴史は現代の郷土発展の基礎となっている。

(現地「森家大名墓説明板」より)

本源寺は、津山市街西部に位置する臨済宗妙心寺派の寺院で、津山城主森家の菩提寺として、慶長12年(1607)に現在の境内が整備された。境内中央に本堂が建ち、東に庫裏が並ぶ。本堂北西が森家の墓所で、霊屋と霊屋表門を配す。本堂は、慶長12年上棟の方丈形式の本堂で、六間取を基本として、北西に御座間、位牌壇を配する。正面は改造されているが、柱や梁組などの主要構造は当初の様子をよく留めている。庫裏は本堂よりやや下り、延宝(1673〜1681)頃の建築とみられる。霊屋は、寛永16年(1639)建立で正面の向拝に精緻な地紋彫を施し、内部も優美に飾る。本源寺は、桃山時代の本堂を中心として、庫裏、中門、霊屋など、江戸中期までに整備された建物が残されている。地方における大名家菩提寺として建てられた臨済宗寺院建築の初期の遺構として価値が高い。

(国指定文化財等データベース)

出雲街道から少し入る。

   

総門

    

説明板

   

国重文 中門 江戸前期 17世紀中期

一間薬医門、切妻造、桟瓦葺

       

国重文 本堂 江戸前期 慶長十二年(1607)

桁行25.3m、梁間18.9m、一重、入母屋造、南面唐破風庇付、南面東玄関附属、桟瓦葺

                  

国重文 庫裏 江戸中期 延宝頃(1683-1681)

桁行20.0m、梁間12.0m、一重、一部二階、切妻造、妻入、南面庇付、東北西面下屋及び西面渡廊下附属、桟瓦葺

      

鐘楼

  

国重文 霊屋表門 江戸前期 寛永十六年頃(1639)

四脚平唐門、銅板葺

                       

国重文 霊屋 江戸前期 寛永十六年(1639)

桁行三間、梁間三間、宝形造、向拝一間、軒唐破風付、背面位牌壇附属、銅板葺

                        

市重文 森家大名墓

森家ゆかりの人々の石塔で、典型的な戦国大名の墓であり、江戸初期の大名墓の特徴をよく示している。

                     

その他のお墓

   

近くの旧中島病院本館、津山最古の病院建築

  

参考資料

国指定文化財等データベース

現地説明板

 

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