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岡山県津山市 旧津山藩別邸庭園(衆楽園) 

Shurakuen,Tsuyama city,Okayama

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September 21, 2020  野崎順次 source movie


衆楽園(旧津山藩別邸庭園)


国指定名勝

衆楽園は、津山藩主森長継が明暦年間(1655~1658)京都から小堀遠州流の作庭師を招いて築いた大名庭園です。当時の面積は23,504坪と現在の三倍近い広大なもので、御殿が造られ城主の清遊の場となっていました。津山藩では防備の上から場内に他藩の使者を入れず、ここで応対したので、「御対面所」と呼ばれました。
その後、森氏に代わって入封した松平氏に引き継がれましたが明治三年正月、時の藩主松平
慶倫が「衆楽園」と命名し公園として一般に公開しました。明治四年の廃藩後、多くの建物が取りこわされ規模も縮小して一時「偕楽園」また「津山公園」と改称されましたが、幸いにして園地の主要部分は残り、大正十四年ふたたび「衆楽園」と改称し現在に至っています。
この庭園は京都の仙洞御所を模したもので、明暦の創園当時から伝わる建物としては余芳閣が残っています。南北に長い池に大小四つの島を配し周囲の中国山地を借景とした構成は近世池泉回遊式庭園の典型であり、江戸時代初期の大名庭園の面影をよく残しています。
(現地説明板)

衆楽園 江戸時代初期 池泉舟遊回遊総合式
本園は面積八千八百九十三坪の広大な庭園で、池泉だけでも三千三百八十六坪もあり、丘陵地にこの大池庭を設けたことは特殊な作庭法であり、困難な作庭であったと考えられる。西部に大書院、余芳閣、迎賓館があったが、それらの書院に対して東面して池庭を設けてある。大池庭には中島四個が南北に並び、いずれの中島にも土橋や木橋を架けて回遊される。東部の風月軒を中心として築山が南北に重なり、北部にも築山が多く、渓谷に曲水を設け、北
西部に滝を設けてある。
本園は維新後一時荒廃の極に達したが、明治十七年津山公園として大修理を加え、大正十四年に津山町有となり、今日に至っている。したがって本園は明治以後の改修のあとが多いが、それでも長継時代の作庭石組なども保存される部分が多いので何よりである。
まず本園の細部を一覧すると、北西部滝の付近の石組には、明暦を中心とする江戸初期の手法を伝える石組が見られるが、その上部は改作されている。北から二番目の清涼軒のある中島の西部護岸石組と、三番目の小島の石組には、江戸初期の護岸手法が見られて美しいが、やはり一部には享保頃の手が入っている。また南島の北部の築山の石組や、余芳閣東部の石組も、後世の手が入りながらも美しい。
(重森三玲「日本庭園歴覧辞典、昭和49年」より)

現地説明板と園内案内図
   

表門(正門)あたり
        


南から池を見る。池の水面は蓮で覆われている。
         


一番南の島、紅葉島。石造層塔がある。
            

その次の小さな島は蓬莱(浮島)。護岸の石組に江戸初期の手法が残る。
      


鴨と鷺と対岸の迎賓館
    


東岸中央部の風月軒あたり
    

北から2番目の島、中島。清涼軒がある。
      


東岸北部の曲水
   


一番北の島、霧島。
      


園東北部の曲水や石組の痕跡らしき箇所
                          


裏門あたりからの流れと江戸初期の滝石組らしき箇所(対岸からの遠望含む)
             


裏門から築山の間を西南に進むと、山口誓子の歌碑の前に出る。
          


西岸北部に北から迎賓館、余芳閣、衆楽茶屋と並ぶ。
       


余芳閣の東に残る石組
      


西岸を南に進む。
        


南の紅葉島に渡り、石造層塔を拝見する。
        


池を一周して戻ってきた。
  


July 17,2015 瀧山幸伸 source movie

                                                                                                        

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