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沖縄県北中城村 中城城址

Nakagusukujo ato,Kitanakagusuku village,Okinawa

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May 15,2015 中山辰夫

中城城跡(なかぐすくあと)

沖縄県中頭郡中城村字泊川尻原・北中城村字大城川尻原 2000(平成12)年12月2日、「琉球王国ノグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録された。 国史跡

概要については、創築年代:13〜15世紀 創建者:護佐丸 形式:山城 遺構:石積 規模:東西約215m×80m 標高:約160mとされる。 中城城跡は標高160mの丘陵の上にある。石垣の上に立つと、西に東シナ海、東に中城湾(太平洋)を望み、勝連半島、知念半島、更には周囲の洋上の島々まで見渡せる眺望の素晴らしい所である。沖縄県内に約200〜300あるとされるグスクの中で、沖縄城郭史上完成期の貴重な城跡。最も遺構が良く残っている。城は、六つの郭で構成され、ており、城壁は琉球石灰岩の切石で積まれている。その築城技術の高さは、芸術的ともいわれ、高い評価を得ている。

中城城跡は、14世紀後半頃まで先中城按司(さちなかぐすくあじ)が数世代にわたり、西の郭、南の郭、一の郭、二の郭の主な部分を築きあげ、1440年に読谷の座喜味グクスから移ってきた護佐丸によって、北の郭、三の郭が増築され現在見られるグクスの形が完成した。指定面積:約11万㎡、その内約1.5万㎡が城郭の面積である。アプローチ

入口を通り、入場料を払って広場に出る。かつての馬場跡で、明治時代には中城尋常小学校があった。裏門付近

東に向かって建てられた。ペリ—探検隊一行がエジプト式と評した精巧なアーチが美しい。

手前の段差の合う怪談は敵の侵入を妨げる。

北の郭周辺

北の核は、裏門を通って右側にある。通行禁止。護佐丸が井戸を取込み増築したとされる。大井戸があった。城郭内に水を確保していたことがこの城の特長。三の郭

護佐丸によって増設された。周囲は石垣の外側城壁で取囲まれ、広いスペースである。兵隊の詰め所があった。

三の郭は新城(ミーグクス」とも呼ばれ、石積み技法の最も進んだ「あいかた積」(亀「甲乱れ積)によって築かれている。

琉球石灰岩の切石が積まれ、自然の岩石と地形に沿った曲線がで構成されている。語佐丸が注いだ情熱が今も伝わる。

二の郭

一の郭に接続していて御内原(ううちばら いわゆる後宮)として使われた。シライ富ノ御イベと呼ばれる配所がある。

ひときわ目を惹く曲線の美しさが印象的である。曲線を帯びた布積技法で築かれている。この曲線は龍が空を飛ぶ姿に似ているとも言われる。

神を祀った拝所と日露戦争の戦没者を祀った慰霊碑がある。石垣はブロック状に積む布積みである。二の郭から一の郭へ入るアーチ型門

一の郭

二の郭のアーチ門から見た一の郭の広がり。一の郭の東南ノテラス風に突き出た所は観月台が設けられた。

二の郭のアーチ門側の一の郭の広がり

二の郭の城壁が一の郭へと接続する。おりると中城グクスで最も広い場となる。

ここが主郭で、正殿や御庭(ウナー)跡とされ、護佐丸滅亡後、番所や役場として使われた。中城役場も戦前まで置かれていたが、第二次世界大戦で焼失した。

中ノ森御イベ

場内に8つあった拝所の一つ ( 通称;着替御嶽 ちげーうたき )中城城の守りが見である。眺望

太平洋や知念半島が見渡せる。一の郭から南の郭ヘのアーチ門

南の郭

場内で最も神聖な場所で。首里や久高島の神につながっている拝所や、雨乞いをするための拝所がある。囲む城壁の一部拝所

カンジャーガマ(鍛冶屋跡)

広場になっている。大岩の洞窟。鍛冶を行っていたところとされるが定かでない。一説には武器を作っていたところともいわれる。眺望

太平洋や東シナ海がみわたせる。中城城後で最も景色のいい所。廃墟と化す中城高原ホテル

中城城跡の管理、運営を行っていた中城公園組合が、観光客誘致のために計画したホテル。

沖縄海洋博の開催が決定した1970年代前半に建設が開始され、開業を予定していたが、博覧会の開催直前に建設をしていた企業が倒産。また、沖縄本土復帰に伴い、アクセス道路が文化財保護区域に指定されたことから、建設途中のまま工事が中断し30年以上放置されたままになり、廃墟と化している。 西の郭

細長く伸びた郭で、兵馬・弓矢の訓練をしたと言われる。神を祀った三つの拝所がある。接する一の郭の高さ15mもある城壁 ペリ—提督も称賛したとか。今も健在である。

西の郭から南の郭に向かう石段。急坂に造られている

正門

門の上部には木製の櫓が乗っていたとされる。門の両脇から城壁が張り出していて、攻めて来た敵を正面と両側の三方から撃退できる防衛的に優れた造りとなっている。と同時に、その城壁は曲線を帯び、優雅な一面も持つ拝所

島民は今も欠かさず佇む。護佐丸の墓

護佐丸は中城グクスの城主であった。現存する亀甲墓としては最古のものの一つとされる。1686(貞享3)年築造

護佐丸は、中城按司護佐丸盛春。唐名毛国鼎(もらこくてい) 琉球が三山(さんざん)分立から統一へ向かった頃の武将。名築造家で座喜味城、中城城を築く。伝えでは、勝連城主阿麻和利から中山(ちゅうざん)を防御するため、中城の地を賜ったとされる。1458年、阿麻和利の攻略で滅びたとされる。

中城城築城の頃は、沖縄の海外貿易が最も盛んであった頃で、築城技術は朝鮮、中国の影響を受けているが、築城の思想や規模は明らかに日本の城郭の影響があるとされる。

参考資料≪日本城郭大系、パンフレット、沖縄の歴史と旅、沖縄の歴史散歩、など≫


Nov.27 2011 田中康平

沖縄県中頭郡北中城村

世界遺産 国指定史跡

 勝連城主である阿蘇和利を牽制するために、王命によって座喜味城から移ってきた護佐丸が15世紀中期に整備した城(グスク)です。琉球王国の王権が安定化していく過程で重要な役割を果たした当該グスクは6つの郭からなり、県内でも城壁が良く残る城(グスク)の一つです。

 城壁は、琉球石灰岩の切石を使用し、地形を巧みに利用しながら曲線状に築かれ、櫓門や石造拱門の城門があります。1853年に来琉したアメリカのペリー艦隊の探検隊がその築城技術を高く評価したことが文献や絵画に残されています。

(文化庁国指定文化財等データベース解説文)

正門

 

南の郭の壁、南の郭の首里遥拝所 、雨乞いの御嶽

一の郭の門、、一の郭からの展望、一の郭

二の郭,三の郭

裏門

二の郭東側城壁外、三の郭出口階段、三の郭東側城壁外側

城壁のイソヒヨドリ、南の郭からの眺め 中城高原ホテル跡


July 2007 瀧山幸伸 source movie

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