JAPAN GEOGRAPHIC

沖縄県那覇市 首里

Shuri,Naha city,Okinawa

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那覇市首里石嶺町1-62-4・14、67-1 伊江御殿墓(沖縄県那覇市首里石嶺町) 重文 近世以前/その他 江戸中期 康煕26(清)(1687) 石造墳墓 墓室、サンミデー、ナー、周囲石垣よりなる 19991201

那覇市首里真和志町1-7 園比屋武御嶽石門 重文 近世以前/その他 室町後期 正徳14(明)(1519) 石造一間平唐門、左右石牆附属 古材12個 19720515

那覇市首里当蔵町1-2 天女橋 重文 近世以前/その他 室町後期 弘治15(明)(1502) 石造単アーチ橋、高欄付 19720515

那覇市首里当蔵町2-1 旧円覚寺放生橋 重文 近世以前/その他 室町後期 弘治11(明)(1498) 石造一間桁橋、高欄付 高欄親柱に大明弘治戊午歳春正月吉日建立の刻銘がある橋前後参道延長6.0m、池周辺石積及び石畳延長62.4m 19720515

那覇市首里金城町1-3 玉陵 墓室 重文 近世以前/神社 室町後期 弘治14(明)(1501) 石造、切妻造、瓦葺、前壇及び階級附属 石獅子1対、石碑1基 19720515

那覇市首里金城町1-3 玉陵 墓室 重文 近世以前/神社 室町後期 弘治14(明)(1501) 石造、切妻造、瓦葺、前壇及び階級附属 19720515

那覇市首里金城町1-3 玉陵 墓室 重文 近世以前/神社 室町後期 弘治14(明)(1501) 石造、切妻造、瓦葺、前壇及び階級附属 19720515

那覇市首里金城町1-3 玉陵 石牆 重文 近世以前/神社 室町後期 弘治14(明)(1501) 四面一周、延長192.0m 19720515

那覇市首里金城町1-3 玉陵 石牆 重文 近世以前/神社 室町後期 弘治14(明)(1501) 第一門を含む 中門左右延長41.2m 19720515


Sep.2020 酒井英樹

 

玉陵
Tamaudoun


玉陵は、首里城西側に所在する琉球第二尚王統の玉陵で、見上森陵に葬られていた初代尚円王を移葬するために、三代尚真王が築いた。
 石碑銘から弘治14年(1501)の築造とわかる。
 築造後は、石牆と石扉の修理、北面石牆外の東・西御番所設置などを経て、近代に至るまで当初の状況をよく保持してきたと考えられる。
 沖縄戦において各所を破損したが、昭和52年(1977)に全面的な修理が実施された。

 東西42m、南北57mを石牆で巡らせて、南奥に3室の墓室を築き、北側を前庭とし、石牆北辺の中央西寄りに第一門を開く。
 前庭の中央東寄りに中門を構え、その東西に延びる石牆で前庭を南北に画し、墓室のある南半を内庭、北半を外庭とする。内庭には珊瑚礫を敷詰める。

 墓室は東室、中室、西室の3室が並び建つ。
 いずれも岩尾根の洞穴の前面に石灰岩切石積の壁を精緻に築き、切妻造の屋根を架け、前面に軒や入口を設けて平入りとする破風墓形式。
 中室は最初に遺体を安置する墓室で、洗骨後、王と王妃は東室、他の王族は西室に納骨された。
 東室はほぼ北面するが、中室と西室はやや北東に振れた軸線で配する。東室の北東隅に、下半を切石積、上半を岩盤現しとした塔状の張り出しを造り、東室と中室の間には切石積みで円筒状の塔を建て、西室北西に、隅丸に積む石垣を張り出しいずれも頂部に石獅子を据える。
 墓室前面に高さ約1.8m(東室のみ2.1m)、奥行約2mの前壇を築いて、前端に切羽目に龍などの霊獣を陽刻した石造高欄を巡らす。各墓室の入り口正面に石階5級を設ける。
 墓室前面に二重に広い庭を配し、石牆平面や門の配置を非対称とするなど、琉球のグスクに似た独自の空間構造を形成している。

             



<東室>
 正面壁の間口9.8m、石灰岩切石(高さ50㎝×厚さ40㎝)を積み、上下2段の軒を表す。屋根は平瓦葺。二重軒の外観や西室や中室に比べ内部は複雑な平面構成を持ち王や王妃の墓として3棟のうち最も格調高く造られている。
    

<中室>
 正面壁の間口8.3mで中央東寄りに入り口を設ける。3棟のうち最も建ちが低い。軒は一軒形式で屋根形式は東室と同じ。
   


<西室>
 正面壁の間口8.2mで中央に入り口を設ける。軒は一軒形式で屋根形式は東室と同じ。
   


<石牆>
 外周の石牆は高さ3m前後(南に行くに従い高くなる)、底部厚約1.8m。四隅をグスク同様の円弧状平面とする。石灰岩による相方積。第一門廻りは切石による精緻な布積。
 中央の石牆は中門の東西に高さ1.9mに築く。石灰岩による相方積とし、中門廻りは切石による精緻な布積。

 《石牆(外周)》
     

 《第一門》
 切石布積で左右の石牆より一段高く積み上げる。
 楣石の下面両側に円弧の繰形を施したアーチ状の開口とする。
      


 《石牆(中央)》
    


 《中門》
 第一門同様に切石布積で左右の石牆より一段高く積み上げる。
 寄棟造厚板葺形式の石製屋根を載せる。開口部は楕円アーチ。
    

 

園比屋武御嶽石門

            


旧円覚寺放生橋

 

天女橋

         



Mar.29,2018 蒲池眞佐子

〇守礼の門

  

〇歓会門 端泉門 漏刻門 日影台 万国津梁の鐘 首里森御獄 等

                           

〇首里城正殿

             

〇番所から入り、奥書院へ(

              

〇唐玻豊から2階御差床へ(

            

〇首里城模型図

   

〇おせんみこちゃ

説明員の方が「首里城はどんどん修復工事をしているんですよ」と言って窓を開けてくれた。

窓の奥には現在復元中の建物の工事が行われていた。

    

〇首里城正殿の遺構

   

〇1階御差床 上御茶の間御飾

       

〇北殿

         

〇淑順門 寄内ノ御獄 ガマ遺構 その周辺

                  

〇アカギの大木

  


Sep.29,2016  田中康平

沖縄県 那覇市 首里城跡

Syurijyou castle ,Naha city, Okinawa pref.

沖縄県那覇市首里金城町1丁目

世界遺産(琉球王国のグスク及び関連遺産群)、国指定重要文化財(建造物)

国指定文化財等データベース解説文(世界遺産): 那覇港を眼下にした丘陵上に地形を巧みに利用して築城されたグスクです。三山鼎立時には中山国王の居城で、1429年に琉球王国が成立した後は、1879年まで琉球王国の居城として王国の政治・経済・文化の中心的役割を果たしました。これまでの発掘調査などの成果から、14世紀中葉から後半の築城であることが判明しています。

 グスクは内郭と外郭からなり、正殿や南殿、北殿などの中心的建物群は内郭に配されています。正殿は琉球独特の宮殿建築で、戦前は国宝に指定されていましたが、第二次世界大戦で焼失し、平成4年に復元されました。正殿前の御庭は、冊封をはじめとした国の重要な儀式が行われた場所です。

国指定文化財等データベース解説文(重要文化財): 園比屋武御嶽石門はかっては国王が外出のときここで旅路の安泰を祈願したといわれ、元來門としての機能をもつ建物ではなく、沖縄固有の原始宗教である御嶽を拝する場所である。戰前国宝に指定されていたが戰災で大破し、一九五七年旧位置に復旧された。石造平唐門の左右に短い石牆を付けた形式からなり木製の扉を構える。

 この石門は御嶽信仰の遺構として最も完備した形式を示すとともにその意匠、構造もたくみである。

    

守礼の門

    

歓会門 付近

             

漏刻、広福門、日影台、万国津梁の鐘 付近

          

琉球舞踊

           

正殿、その内部

       

久慶門 周辺

         

沖縄県 那覇市 玉陵

Tama udun ,Naha city, Okinawa pref.

沖縄県那覇市首里金城町1丁目

世界遺産(琉球王国のグスク及び関連遺産群)、国指定重要文化財(建造物)、 国指定史跡

首里城跡の近くにある琉球王朝歴代の陵墓。

堂々たる建造物でよく保存されている。訪れる人は多くはなく静か。

国指定文化財等データベース解説文(史跡): [玉陵]たまおどん: 首里城西方の丘陵上にあり、尚真王が先考尚円の遺骨を[[見上森]みあげのもり]より移送するために築造したのに始まり、尚円王統歴代の陵墓となった。現在も外郭にたっている「たまおどんのひのもん」(弘治14年、1501)によれば、尚真は、その王統のうち、尚真・尚真妹・尚清およびその兄弟ら9人の子孫は永久に玉陵に葬られる資格ありとし、尚維衡とその子孫のみ除外した。これは尚円−尚真−尚清の王位継承を明らかにしたものである。内郭の自然崖壁を利用して築造した三墓堂は、中央には洗骨前の遺骸をいれ、その左には洗骨後の王・王妃、右にはそれ以外の家族の遺骨を納めた。今次大戦でかなり破壊されたが、内外郭と墓堂はさすがに堂々たるもので、沖縄の歴史・墓制を考えるうえにきわめて貴重である。

同解説文(重要文化財): 弘治14年(1501)建設の墓室と石牆からなる尚円王統歴代の陵墓。墓室は、洗骨前の遺体を安置する中室、王と王妃の遺骨を安置する東室、その他王族の遺骨を安置した西室より構成され、その周囲を石牆で囲む。墓室正面は切石積で、中央に石扉を構える。意匠、構造に見所を持ち、沖縄における最大規模の墓の遺構。

 玉陵は沖縄における最大、最良の墓陵で建築としてもその意匠、構造に見るべきものがあり、また、石獅子をはじめとする石造彫刻や石碑も見事である。

                           

沖縄県那覇市 園比屋武御嶽石門

The stone gates of Sonohyan-utaki ,Naha city, Okinawa pref.

沖縄県那覇市首里真和志町1丁目

世界遺産(琉球王国のグスク及び関連遺産群)、国指定重要文化財(建造物)

首里城跡の一角にある琉球王朝の御嶽の石門。御嶽の礼拝場所であった。

首里城巡りでは気づかずに通り過ぎるかもしれない門だが、礼拝所とされたこの場所そのものが琉球王朝にとって意義深かったように感じられる。

      


May 14,2015 中山辰夫

■玉陵 

Tamaudun

那覇市首里金城町1−3世界遺産に登録 国重要文化財守礼門にも近い

  

1501年頃に造営された第二尚王統代の墓陵。霊御殿である。「玉」は尊い死者の霊を指し、「御殿」は格別の施設のこと。特別な人々の眠る墓の別称。

碑文には尚真王以下9人の名があり、その子孫だけがこの墓に入ることが出来るとある。

沖縄で最大規模の自然の岩壁をくりぬいて造られた破風墓である。墓域全体に珊瑚砂利(ヨネまたはウルという)が敷かれている。

シンプルなデザインである。柳宗悦が、「日本最美の霊廟」と絶賛した。中世「石の文化」の極致がこの玉陵に殺生していると言われる。玉陵奉円館

      

墓の変遷や墓室内部の写真などを紹介している。前門

     

入口は1ケ所。遥拝所は外にある。後門とその周辺

        

玉陵碑

  

大きな台座の上に、中国より舶来の青石(輝緑石)で制作されている。

この碑文は1501(弘治4)年に建てられた。玉陵に葬られるべき人々を規定したものである。尚真王他8人の名が記され、この書付に背くと”天に仰ぎ、地に伏して祟る可”と結んでいる。王族の範囲を明示し、王位につくべき資格者を限定した。碑文には長男・次男の名が見えず、王室内に勢力の対立があったことが分かる。

意匠

     

墓室

平面図

 

墓室には三つの入口がある。向かって左手より東室・中室・西室に区画されている。

王や王族が死去すると、葬儀を終えてまず中室に亡骸を治めた。数年経過後に、骨を洗い清めて(洗骨という)、石製又は陶製の厨子に納める。

全体の造りは、当時の板葺き屋根の宮殿を表した石造構造物になっている。沖縄戦で大きな被害を受けたが、修復工事で往時の姿を取り戻した。

東室

    

洗骨後の王と王妃を安置する所。

中室・西室

 

中室は亡骸を安置する部屋。西室は洗骨後の王族を納める所。、墓前の庭の玉碑に記されている限られた家族が葬られた。

墓所を守護する雌獅子と雄獅子

  

屋根の3カ所に設置されている。安眠を妨げる邪力を払う意図こめられているとされる。琉球では王族といえども個人墓をつくるのでなく、血統のつながる一門が利用する集団墓の様式が支配していた。また、洗骨の風習は庶民レベルでも行われていたので、玉陵も琉球伝統の葬制・墓制を体現している。

参考資料≪パンフレットより引用≫

■ 園比屋武御獄石門

Sunuhyan utaki ishimon

那覇市首里真和志町1-7 世界遺産に登録 国重要文化財守礼門後方の御獄。裏手に所在する那覇市立城西小学校の敷地を含めて、その一帯はかつて神が降臨する聖なる森だった。

降臨する神に祈るための宗教施設として整備されたのが園比屋武御獄石門で、石製の扁額に尚真王代の1519(正徳14)年に建立と刻まれている。

 

構造形式:石造一間平唐門、左右石牆附属 建立:1519(正徳14)年

      

解説: 園比屋武御嶽石門はかっては国王が外出のときここで旅路の安泰を祈願したといわれ、元來門としての機能をもつ建物ではなく、沖縄固有の原始宗教である御嶽を拝する場所である。

戦前国宝に指定されていたが戦災で大破し、1957年旧位置に復旧された。石造平唐門の左右に短い石牆を付けた形式からなり木製の扉を構える。

この石門は御嶽信仰の遺構として最も完備した形式を示すとともにその意匠、構造も巧みとされる。

■ 金城町石畳道

Kinjo Ishidatami 沖縄県指定史跡 日本の道百選

那覇市首里金城町にある“石畳道”は琉球王国時代の歴史を感じさせる石畳の道。琉球王国尚真王の治世である1522年にその建造が始まった。

本来は真珠道(まだまみち)と呼ばれ、首里城から南北に真玉橋(まだんばし)を経由して那覇港の南岸まで貫く軍道であった。

完成当時は約10キロメートルにも及ぶ琉球石灰岩で舗装された道で、琉球王朝の土木技術を結集して作られた。

現在では、戦火を免れた約300メートルの石畳が当時の面影をとどめている。

石畳道の両側には古い石垣、赤瓦屋根の家屋などの沖縄情緒溢れる建物も多く存在している。この石畳道は日本の道百選にも選ばれた。

また、この道は2001年に放映されたNHKの連続テレビ小説「ちゅらさん」のロケにも使用された。

     

首里城守礼門の石門を起点に那覇方面に続くかつての重要道。琉球石灰岩の石畳道。道には年月を経て光沢を帯びた琉球石灰岩の平石が敷きつめられたままで、沿道には近世以前の石垣も多く現存する。首里城守礼門東南脇の石門を起点に、金城橋を目指して歩く。結構な高台にあって、見晴はいい。道幅は約4m

     

古道はアップダウンが結構ある。急な勾配のところでは、石の表面に滑り止めの横線の刻みを入れたり、階段をつけたりしている両側は民家が連なる。

石垣は琉球石灰石の「あいかた積」である。

     

石畳道はモザイク状にびっしり石灰石が敷きこまれ、それを挟みこむように立つ石垣も豪快である。赤レンガの屋根は減少気味である。

    

『石敢當 イシガントウ』、この石柱を沖縄では家の門口でよく見かける。魔除けである。シーサーは屋根に置かれ、台風による風水害を少しでも減らしたいとの願いである。

琉球石灰石の説明と金城村屋「集会所兼休憩所」

     

苔むした石垣やすり減った石畳に、500余年の歴史を感じ、首里城まで行き来していた人たちの息遣いが感じられる。

      

入口でもあり出口でもある金城橋。

   

金城橋の歴史

                

石畳道を歩く中、民家の軒先には種々の花木が植えこまれ癒してくれる。詳しい説明書までつけてある。

NHK人気ドラマ「ちゅらさんに登場した民家もここに含まれる。

脇道も全て石畳で、お花が植え付けてある。その一角に金城町の大アカギがある。

  

金城の大アカギ

Kinjo Akagi

国天然記念物指定(1972)金城の石畳道

     

金城の石畳道から約20〜30m横にそれた東西約50m、南北約15mの地域に大赤木6本、琉球榎1本の巨木が見事に繁茂し、苔むす石畳や赤瓦屋根の民家とともに、古都首里の城下町を思い起こさせる。

      

大アカギのうち最も大きいのになると、樹齢が300年、胸高周囲5.2m、樹高13m、枝ばり17mにも達している。

   

沖縄ではアカギは普通に自生していたが、現在このような大木群が人里に残存している例は他にない。

樹幹にはホウビカンジュ、ハブカズラ、シマオオタニワタリ、クワズイモ、ハマイヌビワなどが着生している。

第二次世界大戦前までは首里城内、および城外周辺にもこのようなアカギの大木が生育していたようだが、戦争でほとんどが消失してしまった。祠

ここは内金城御獄(うちがねぐすくうたぎ)の境内である。

鬼となった兄を、妹が餅で退治するという鬼餅伝説の発祥の地。鬼を退治した旧暦の12月8日には、沖縄では厄払いの日として鬼餅(ウニムーチー)をたべる。

巨大なアカギの根っこに大きな穴の祠が出来ており、そこに仏像が置かれている。何時頃からの事は不明。立板に説明がある。

     

金城大樋川(かなぐしくうふふぃーじゃー)

石畳道建設当時は、真水の確保に苦労していたが、その後、石畳に降った雨が地下に浸透する間に濾過され、その傾斜を利用して共同井戸に集める仕組みが出来た。その大きな共同井戸が金城大樋川である。

金城村屋の場所はかつて広場で、坂道を上下する人々が樋川の水で喉を潤し一息入れた場所。 石畳に落ちた雨水が浸透、濾過された地下水を急な崖の下から二つのかけ樋で導き出している。石積みで囲まれた半円形の貯水池が設けられていて、その前には石敷きの広場がつくられ、入り口中央には排水溝がある。 現在でもきれいな水が流れていて、魚も泳いでいる。

   

道中の直線部は300m前後の距離であるが、脇道も石畳道でこれを加えると結構な距離になる。歩き辛い石道でもある。

首里城 

那覇市首里首里城は14世紀末に創建された中国や日本の文化も混合する琉球独特の城。沖縄戦で焼失したが1992年11月3日に復元された。

2000年に首里城跡、園比屋武御獄石門、玉陵が世界遺産に登録された。位置図

  

歴史

  首里城は、1429年から1879年まで琉球王国の国王の居城だった。王城は琉球の政治、外交、文化の中心として栄えた。

発掘調査の結果、首里城は14世紀の末頃までには築かれていたことが明らかになった。首里城は地形を巧みに活用して内郭と外郭に分けて築かれている。

城壁は、琉球石灰岩の切石で築かれ、その総延長は約1080m、高さは6〜15m、厚さは凡そ3mである。

歓会門が大手門(正門)で、西側城壁にある。城内には、正殿、北殿、南殿などの主要な建物が御庭(うなー)を囲んであり、正殿は1925年に国宝に指定され、歓会門、瑞泉門、白銀門、守礼門も指定された。しかしこれら建物は沖縄戦ですべて焼失し、1972年に復元された。

アプローチ

    

守礼門まで続く「綾門大通」 500mほど。

守礼門

     

三間の望楼 入母屋造 本瓦葺 2層 日本と中国それぞれの特長を取入れた沖縄独特の建築様式、1958年復元された。

「守礼之邦」の扁額が掲げられた第2の坊門。「守礼之邦」とは、平和の民としての沖縄を象徴している。

創建は1529年頃とされ、琉球国王の即位を認定する中国の使者、冊封使を迎えるために創建されたとされる。2000円札でおなじみである。

途中に重要文化財指定の「園比屋武獄石門」がある。

歓会門

     

城郭内へ入る第一の正門。創建は第二尚氏・尚真王の時代で1477年〜1500年ごろ。石造のアーチ門の上に木製の櫓をのせた日本では珍しい中国風の櫓門龍樋

     

「樋」は河川などの水を放出させる管。龍口から湧水が湧き出ている。樋口の龍は約500年前に中国から持ってきたもの。

瑞泉門

     

第二の門。名前は「龍樋」の湧水に由来する。断ち切った城壁の上に直接櫓をのせている。アーチ門より古い形式とされる。一対の石獅子は最古のシーサー。

漏刻門

     

第三の門。「漏刻」とは、かつて櫓の中に水時計があったことに由来する。晴天時には「日時計」、雨天時には「水時計」を用いた。時間になると太鼓を打った。

日影台眺望

    

日影台 日時計

  

供屋・万国津梁の鐘

   

広福門

    

首里城内第四の門 中央が2階建 赤レンガ葺 入母屋造 現在は入場券売り場泰神門

       

正殿に至る最後の門。御獄を取囲む建物の一つで、「君誇御門 きみほこりうじょう」とも呼ばれる楼門、3つの入口があり、中央は国王や中国からの冊封使などの専用の門。上殿が正面に見える。

下之御座

  

広福門と 奉神門の間に位置する。首里城正殿前に広がる「御庭 うなー」の控の場所や、城内での建築・工事の際の資材搬入・置き場に使われた。

現在はイベント会場に使われる。首里森御獄(すいむいうたき)

    

下之御座にある祈りの場。御座は沖縄の聖地または拝所のことで、首里城には10ヵ所あった。ここは男女が祈願できる国の最も重要な拝所だった。

全体

 

御庭 (ウナー)

    

元旦の式典や中国からの使者を迎える儀式をはじめとした外国の儀礼などが行われた広場。王朝文化をしのばせる朱と石の白のコントラストが美しい。

敷かれているタイルは「磚 せん」という敷瓦で、この色違いの列は儀式の時に諸官が位の順に並ぶ目印だった。

中央の道は「浮道 ふどう」といい、国王や冊封使など限られた人のみが通ることが出来た。首里城正殿

              

創建年代は不明。この城を拠点に尚巴志が琉球を統一し、琉球王国を樹立した第一尚氏時代にはすでにあったとされる。 琉球王国の象徴である。

3層から出来ており、城内最大規模の建物である。王が政治や重要な年中行事を行う場所として使われた。

屋根の龍頭棟飾や龍の文様、朱を中心としたきらびやかな色彩は中国の影響を、構造形式や正面の唐破風屋根は日本の影響をうけている。

     

正面石段の両脇の龍の彫刻を「大龍柱」といい、その奥にもう一対の「小龍柱」があり、その他にも龍は沢山あり首里城の中心的な建物にふさわしい彫刻。沖縄戦でも全焼したが、1992年、沖縄本土復帰20周年に合わせ、綿密な考証を基に復元された。建築面積:637㎡、延べ面積:1199㎡

南殿・番所外観

   

平屋部分が番所、二階部分が南殿。番所は取次ぎの役目をした。南殿は、別名「南風の御殿」ともいい、日本式の年貢・節句などの行事、薩摩藩の役人の接待が行われた。創建は17世紀前半で日本風の建物で、朱塗りがされてない。正殿内部にはここから入る。

北殿概観

  

「北の御殿」とも呼ばれ、平常は中央政庁として多くの役人が出入りした。中国からの冊封使をもてなす宴が催された。ペリーが来航した時ここで式典が行われた。

創建は16世紀初めで、中国風の建物となっている。

南殿内部と奥書院

        

撮影不可の部分あり。南殿は琉球時代の文化が蘇る展示がされている。廊下で書院・鎖之間・庭園や奥書院・庭園と結ばれている。

廊下で書院・鎖之間は国王の執務室や往時の控室。奥之院は国王が執務の間に休憩する部屋。正殿内部

番所から入り、南殿・奥書院を過ぎて入口がある。撮影は許可された場所のみである。3階よりなる琉球最大の木造建築である。

 

正殿1階は「下庫理 しちゃぐい」と呼ばれ、主に国王自ら政治や儀式を執行する場、2階は「大庫理 うふぐい」と呼ばれ、国王と親族・女官らが儀式を行う場、3階は通気を目的とした部屋である。

正殿3階

通風のための空間で実際には使われなかった。

  

正殿2階

    

2階御差床(うさすか)

         

国王が座る玉座。国王専用の階段を使い2階から御座床に出御。左右の柱には龍が描かれ、その周りには雲が配色されている。

王の椅子は、1477〜1526年まで在位した尚真王の肖像画をもとに再現された。

唐破豊

     

御差床の正面にある部屋をいう。正月の儀式や中国皇帝への親書を送るときなど、国王が椅子に座り、御庭に並ぶ諸官とともに儀式を行う重要な場。

国王の王冠と王印

     

正殿1階

   

「下庫理」と呼ばれ、重荷国王自らが政治や儀式を執り行う場。中央の華麗な部分が「御差床 うすさか」と呼ばれ玉座である。

左右には国王の子や孫が着座した「平御差床」がある。

正殿北殿

    

沖縄サミットの晩餐会に利用された。かつては「北御殿 にしのうどうん」と呼ばれた。創建は1506〜21年とされ、焼失し1712年頃再建された。

通常は王府の行政機関で、役人が働いていた。館内ではパネルで冊封式典などを解説し、映像による展示も行っている。

淑順門

     

国王やその家族が暮らす御内原(おうちばら)と呼ばれる場所への表門で、門のつくりは櫓門形式、入母屋造、本瓦葺。2010年に復元された。

右エキ門(うえきもん)

   

首里城・北殿近く、石畳の上に建つ。かつては国王や親族が暮らした正殿裏側の"御内原"への通用門であった。双璧の門の上に櫓が設置されている櫓門。

創建は15世紀頃。1992年に城壁部、2000年に櫓が復元された。久慶門まで長い石畳の坂道が続く。

久慶門(きゅうけいもん)

       

「喜び誇る」を意味する「ほこり御門」ともいわれる。国王や外国の使者など男性が通用する「歓会門」に対し、久慶門は主に女性が利用する通用門の役割を担ってきた。創建は1477年〜1526年の尚真王の時代。1983年に復元された。

中央が石造アーチ門で、その上に木造の櫓がのる。

樋川

   

門の両脇にある城内の水源として重要だった湧泉や龍樋。  


首里城

Shurijo

July 2007 瀧山幸伸 

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守礼門

Shureimon

   

園比屋武御嶽石門

Sonohiyanutaki ishimon

      

首里城址

Shuri joushi

歓会門

Kankaimon

     

瑞泉門

Zuisenmon

    

漏刻門

Roukokumon

 

    

奉神門

Hushinmon

  

           

{          

右掖門

Uekimon

 

         

久慶門

Kyukeimon

  


首里城周辺

Shurijo area

July 2007 瀧山幸伸  source movie

石畳道

Ishidatami

        

弁才天堂、天女橋

bennzaitendou, Tennyobashi

        

旧円覚寺、放生橋

Kyu enkakuji Houshoubashi

    

  

龍潭

Ryutan

  

玉陵

Tamaudun

  

                

       

   

首里の街並

  

金城の大アカギ群落(天然記念物)

Akagi

      


首里城花祭り

Feb. .2006 撮影:さちおさん

        

首里文化祭

Nov. .2005 撮影:さちおさん

                    

Jan.2003 撮影:さちおさん

         

那覇の三線教室 撮影:さちおさん

       


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