大阪府阪南市 波多神社
Hatajinja,Hannan city,Osaka
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阪南市石田167 波太神社 末社三神社本殿 重文 近世以前/神社 江戸前期 寛永15(1638)頃 三間社流造、銅板葺 19931209
Sep.2017 (撮影 Sep.2000) 酒井英樹
波太神社は鳥取氏の祖と伝える角凝命(つのこりのみこと)を主神とする鳥取庄の総社であり、延喜式神名帳にも載る古社である。
元は阪南市桑畑にあったが、天授年間(1375-81)の兵火による炎上後に現在地に移り、阪南市貝掛にあった八幡宮を相殿として合祀したと伝える。
天正13年(1585)の豊臣秀吉の根来攻めの際の兵火で再度焼失し、寛永15年(1638)に至って本格的な復興がなされた。
東面して本殿と末社三神社本殿が並び建ち、前面に拝殿が建つ。現在の本殿は寛永15年(1638)の銘があり、末社三神社本殿も同時期の建立と考えられている。
本殿は規模の大きな3間社流造であり、向かって右脇間を波太宮、左脇間を八幡宮とする。中央間は脇間より少し広く取り,相の間としている。
屋根は元は檜皮葺であったが銅板葺に変えられている。両宮の正面におのおの千鳥破風を飾り、相の間正面は軒唐破風を付ける。
末社三神社本殿も3間社流造であるが、梁間が1間とする小規模な本殿である。本殿同様に屋根は檜皮葺であったが現在は銅板葺になっている。
双方とも外部及び外陣内部を極彩色に施した形跡がみられる。
波太神社本殿及び末社三神社本殿は近世初頭に遡る同時期の本殿が本社、末社ともそろって残る点が貴重と評価され重要文化財に指定されている。
<本殿>
<末社三神社本殿>
鳥取神社、鳥取戎社
大阪府阪南市石田167
波太神社
(Hatajinja Shrine, Han-nan City, Osaka Pref.)
波太神社は、本市石田にあり、平安時代の法典『延喜式(えんぎしき)』に記載されていることから「式内社(しきないしゃ)」として知られています。
波太神社本殿、末社三神社本殿は、寛永(かんえい)15(1638)年の建立で、近世初頭の建造物として当時の優美な建築様式を残しており、ともに国の重要文化財に指定されています。
波太神社本殿には、この地方の豪族であった鳥取氏の祖と伝えられる角凝(つのこりの)命(みこと)を主神とする波太宮(はたぐう)と応神天皇を祭る八幡宮(はちまんぐう)の二宮が祭られています。末社三神社本殿は、本殿と同じく三間社流造(さんげんしゃりながれづくり)とよばれる建物で、この本殿のすぐ脇にあります。本殿前面に建つ拝殿は1935年ごろに再建されたもので、本殿はこの拝殿の奥にあるため、現在ではその全容を望むことができません。
この他、同社には大阪府条例の指定をうけている「三十六歌仙扁額」も伝えられています。また、拝殿前の石灯ろうは、慶長(けいちょう)5年(1600)の銘があり、豊臣家重臣の片桐且元(かつもと)が寄進したものといわれています。
(阪南市ウェブサイトより)
神光寺(蓮池)遺跡、縄文以来の遺跡だそうだ。
波太神社の鳥居と狛犬
隣接する鳥取神社と鳥取戎社
末社厳島神社
参道をさらに進む
拝殿、石灯篭は慶長五年(1600)の銘があり、片桐且元が寄進したそうだ。
国重文 本殿
江戸前期 寛永十五年(1638)
三間社流造、正面千鳥破風二カ所及び中央軒唐破風付、銅板葺
あいにく正面からは撮影禁止である。ちょうどお宮参りの最中だった。
国重文 末社三神社本殿
江戸前期 寛永十五年(1638)
三間社流造、銅板葺
その他境内
山際に倒れた木から幹が数本垂直に伸びていた。
帰途
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