大阪府貝塚市 願泉寺
Gansenji,Kaizuka city,Osaka
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貝塚市中846 願泉寺 本堂 重文 近世以前/寺院 江戸中期 寛文3(1663) 桁行27.8m、梁間27.0m、一重、入母屋造、向拝一間、本瓦葺鐘楼1棟、目隠塀1棟、築地塀2棟 19930817
貝塚市中846 願泉寺 太鼓堂 重文 近世以前/寺院 江戸中期 享保4(1719) 桁行三間、梁間三間、二重二階、入母屋造、本瓦葺 19930817
貝塚市中846 願泉寺 表門 重文 近世以前/寺院 江戸中期 延宝7(1679) 四脚門、切妻造、本瓦葺 19930817
所在地 大阪府貝塚市中846
表門(重要文化財)
延宝7(1679)年の建築
四脚門、切妻造、本瓦葺開門が7時30分だったので、閉じた状態と開いた状態の両方を撮影できました。
目隠塀(重要文化財本堂の附指定)
鐘楼(重要文化財本堂の附指定)
太鼓堂(重要文化財)
享保4(1719)年の建築
桁行三間、梁間三間、二重二階、入母屋造、本瓦葺
本堂(重要文化財)
寛文3(1663)年の建築
桁行27.8m、梁間27.0m、一重、入母屋造、向拝一間、本瓦葺
本堂部分撮影
大阪府貝塚市中 846
貝塚御坊 願泉寺
(Gansenji Temple, Kaizuka City, Osaka Pref.) 撮影日: 2012年6月23日願泉寺は、室町時代後期の創立と伝えられる浄土真宗寺院で金凉山(きんりょうさん)と号する貝塚寺内町の中心寺院である。
寺のたどった歴史には特異なものがあり、織田信長と本願寺が争った石山合戦により、紀州鷺森に退去していた本願寺第11代顕如を迎え、天正11年(1583)からおよそ2年間、本願寺の本山となった由緒を持った。
また、徳川家康から黒印状を下付された慶長15年(1610)以降、貝塚寺内町は朱印地となり、卜半(ぼくはん)家は歴代の将軍から自治権を認められ、現在の境内南側に大規模な役所施設を設け、40人ほどの役人を士分にとりたてて勤務させ、領主として寺内の行政と司法を司っていた。
このように僧籍にありながら武士を雇い、近隣諸藩から独立した立場を保ち、将軍にお目通りがかなうなど、他に例のないことであった。
また、戦前までは全国で唯一東西両方の本願寺に属していたことも、願泉寺の特異性を示している。
明治4年(1871)以後は寺内領主の地位を失い、願泉寺の有していた特異性は次第に失われて行ったが、本堂は大型真宗寺院の一典型として貴重であり、境内伽藍もよく保存されているとして、平成5年に本堂他2棟が重要文化財の指定を受けた。平成23年まで7年の歳月をかけて、本堂、表門、鐘楼、築地塀、目隠塀などを半解体修理する大改修が行われ、同年3月13日に平成大修復落慶法要が営まれた。
国重文附 表門両脇築地塀
国重文 表門
江戸中期 延宝七年(1679)
四脚門、切妻造、本瓦葺
表門側面
表門天井部と扉
境内側から見る。
国重文附 目隠塀
国重文 本堂
江戸中期 寛文三年(1663)
桁行27.8m、梁間27.0m、一重、入母屋造、向拝一間、本瓦葺
向拝回りは木鼻や手挟が軒下を飾る。
外陣(障子の中)の三方を広縁と落縁が巡る。向かって右手奥から正面を経て左に回る。
広縁と外陣の境の小壁には蟇股が並ぶ。向かって右から正面へと見て行く。
国重文 太鼓楼
江戸中期 享保四年(1719)
桁行三間、梁間三間、二重二階、入母屋造、本瓦葺
国重文附 鐘楼 府文 銅鐘 鎌倉
経蔵と井戸屋形
願泉寺界隈。斜め向かいの尊光寺にはカイヅカイブキの巨木(市指定天然記念物)がある。
寺内町の町並みと貝塚駅前。
明治30年3月の道標。古くは「海塚」と書かれた。
参考資料
公益財団法人文化財建造物保存技術協会(JACAM)HP
願泉寺修復ニュース第7号および第10号
国指定文化財等データベース
撮影:2011年4月
<本堂>
<太鼓堂>
<表門>
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