大阪府河南町近つ飛鳥風土記の丘(一須賀古墳群)
Ichisuka kofungun,Kanan town,Osaka
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March 27, 2016 野崎順次 source movie
大阪府南河内郡河南町東山
近つ飛鳥風土記の丘
以前に撮影に来たときは、動画と、博物館の全景をあまり撮らなかったので、その点に重きを置いて再チャレンジである。着いたときは小雨だったが、博物館の内部を撮影していると晴れてきた。この日はさくらまつりで、入場無料であった。ソメイヨシノは5分咲きくらいか。それでも、大阪のほかの地域に比べると早いほうだ。
パンフレットと現地説明板
風土記の丘入り口
風土記の丘管理事務所(安藤忠雄設計のはず)
古墳と桜を見つつ、博物館の方(北西)へ。
寛弘寺45号墳(移築)
I−19・20号墳
さらに
B9号墳
B7号墳、須恵器窯跡など
休憩所(安藤忠雄設計のはず)
博物館近くの水辺の段々、古墳など
近つ飛鳥博物館外部、南西から近づくと木々の間から大階段と黄泉の塔が見えてくる。
正面玄関
館内を見学・撮影して出てくると空が晴れていた。コンクリート壁に挟まれた通路を進む。。
北側の駐車場から見る。
階段屋根を上る。
帰りしに再び南側から振り返る。
近つ飛鳥博物館内部
太子町鹿谷寺石塔模造復元まわり
前方後円形の大展示場
その他、風土記の丘入り口あたりの桜など。
Sep.2009 撮影/文 野崎順次
撮影: 2009年9月27日
国指定史跡 大阪府立近つ飛鳥風土記の丘(一須賀古墳群)
一須賀古墳群は、径15m前後の円墳内に横穴式石室を中心とする約250基からなる南河内最大の古墳時代後期群集墳である。
1966年(昭和41年)、上野勝巳がその分布を紹介。
古墳群は6世紀前葉から7世紀中頃に、基本的には丘陵先端から上方に向かって形成される。
石室は羨道が短く、玄室平面プランは正方形気味で推移し、石室内は2〜3体を埋葬するケースが最も多い。
遺物では金銀製品、ミニチュアの炊飯具が特徴的。
1968年(昭和43年)に弥生時代の集落跡や須恵器窯跡とともに古墳も調査した。
その後、大阪府が古墳群の公有化、整備調査を行った。
入口と古墳群の表示、今回は博物館までの古墳と窯跡、J支群、E支群の一部、B支群の一部、D支群の一部を観た。コースを赤線で示す。
博物館まで。
博物館から西の尾根を登り、J支群をみる。
第2展望台から、E支群、B支群をかすめて戻る。
管理棟。
大阪府南河内郡河南町大字東山299番地
大阪府立近つ飛鳥博物館
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Sep.2009 撮影/文 野崎順次
撮影日: 2009年9月27日
〜近つ飛鳥博物館からのご挨拶〜
平成6年3月25日、大阪府河南町・太子町の地に、待望久しい大阪府立近つ飛鳥博物館が開館いたしました。
博物館の「近つ飛鳥」という呼び名は、『古事記』の中に典拠がありますが、難波の宮などから近い方の飛鳥(河内の飛鳥)と、遠い方の飛鳥(大和の飛鳥)という呼び方をしたというので、命名したものです。
河内の近つ飛鳥の地は、多くの渡来人が住み、渡来文化が真っ先に流入した古代文化の先進地域であります。
古墳時代から飛鳥時代にかけての文化遺産を中心に、「日本古代国家の形成過程と国際交流をさぐる」という当館のメインテーマに最適の地であるわけです。
当館の南には「大阪府立近つ飛鳥風土記の丘」がひろがっています。
日本の代表的な群集墳である一須賀古墳群を保存し、その学術的価値を認識し、かつ貴重な文化財に触れ・学び・親しむ場として設置した史跡公園です。
博物館はこうした緑に包まれた環境の中で、周辺の文化遺産や自然とみごとに調和した施設でもあります。
古墳文化・飛鳥文化の情報センタ一として、また、生涯学習や学校教育の場として、より発展していきますよう、今後とも皆様のあたたかいご支援を賜りますことをお願い申し上げます。
(博物館ホームページ)
(1) 建物
安藤忠雄の代表作として名高いコンクリート打ち放し仕上げSRC造作品で、第26回日本芸術大賞、1996年BCS賞(建築業協会賞)、第6回公共建築賞などを受賞した。
設計・監理 大阪府建設部営繕室
㈱安藤忠雄建築研究所
構造・規模 SRC造 地下1階 地上2階
建築面積 3,407m2
延床面積 5,925m2
建物外部
建物内部
(2) 展示
〜近つ飛鳥とは〜
「近つ飛鳥」という地名は、712年口述筆記された「古事記」に記載がある。
履中天皇の同母弟(後の反正天皇)が、難波から大和の石上神宮に参向する途中で二泊し、その地を名付けるに、近い方を「近つ飛鳥」、遠い方を「遠つ飛鳥」と名付けたというもの。
「近つ飛鳥」は今の大阪府羽曳野市飛鳥を中心とした地域をさし、「遠つ飛鳥」は奈良県高市郡明日香村飛鳥を中心とした地域をさす。
「近つ飛鳥」の地は、難波の津と大和飛鳥を結ぶ古代の官道──竹内街道の沿線にあたり、周辺には大陸系の遺物を出土する6世紀中葉以降の群集墳が広がっている。
また、南部の磯長谷には、敏達・用明・聖徳太子・推古・孝徳の各陵墓指定地など飛鳥時代の大古墳が集まっていて、俗に王陵の谷とも呼ばれている。
「新撰姓氏録」によると、当地周辺には百済系(飛鳥戸造、上曰佐)、新羅系(竹原連)、中国系(下曰佐、田辺史、山代忌寸)の渡来系氏族が居住していたという。
(博物館ホームページ)
第一ゾーン 近つ飛鳥と国際交流
古墳時代〜飛鳥時代、4世紀から7世紀、日本列島には朝鮮半島や中国大陸との交流を通して、現在、渡来文化と呼ばれている、多くの技術や文化がもたらされた。
多くの出土品はそのことを語っている。
人々は様々な形でそれらの技術や文化をそれ以前にもまして取り入れ、日本古代律令国家成立への歩みを加速させた。
その当時、倭国と呼ばれた日本列島の国は、中国の史書「宋書」や「隋書」などに国際交流の跡を残す。
日本列島内でも、鉄刀・鉄剣に刻まれた文字や様々な出土品から、国がまとまっていく様子がわかる。
やがて、仏教思想や律令制度を取り入れ、文書政治による統治国家としての基礎を固める。
近つ飛鳥にもその激動の時代が刻まれている。
(博物館ホームページ)
第二ゾーン 古代国家の源流
古墳時代、4世紀から6世紀の300年間、本州、四国、九州では各地に前方後円墳をはじめとする大小の古墳が多数つくられた。
各地で古墳を築いた集団は、互いに政治的つながりを強め、あるいは反発しあいながら、しだいに大和や河内を中心とする政治勢力に統一され、後の古代律令国家へと変化していく。
その道程は一様ではない。
朝鮮半島や中国大陸の様々な文化や技術を波状的に受け、その時々の日本列島内の実力に応じた様々な段階と変容を経ながら歩んでいった。
仁徳陵古墳はその道程を示すシンボルである。
(博物館ホームページ)
第三ゾーン 現代科学と文化遺産
現在、様々な科学技術が修羅をはじめとする多くの文化財の保存や調査・分析に応用され、大きな成果をあげている。
このゾーンではそれらの幾つかを取り上げ、その方法や成果を紹介する。
これからもよりよい方法を開発し、より精緻に、より実証的に、よりわかりやすいものになるため、考古学は現代科学と共に進んでいく。
これは今あるものを未来に伝え、我々が過去・未来の人々と会話していくために欠かせない。
(博物館ホームページ)
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