大阪府河内長野市 烏帽子形城跡
(Ruins of Eboshigata Castle, Kawachinagano City, Osaka Pref.)
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中世城跡で曲輪、土塁、横堀がよく残る |
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人工物が比較的少ない |
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September 28, 2019 野崎順次 source movie
大阪府河内長野市喜多町
国史跡
烏帽子形城跡は,大阪府河内長野市の市街地の南,石川と天見川の合流点のすぐ南の標高約180mの丘陵尾根部に所在する中世の城跡である。城跡の東麓には京・堺と紀伊とを結ぶ高野街道が走るなど交通の要衝に位置する。
河内守護職畠山氏の城の一つであったが,応仁の乱前後から織豊期まで諸勢力による戦いの場となった。応仁の乱の契機となった河内守護職畠山氏の分裂抗争において,文正元年(1466)に「押子形城」として初めて文献に登場する。応仁の乱後も分裂した畠山氏の抗争は続き,大永4年(1524)には,再び合戦の舞台の一つとなり,その後,新興勢力の三好氏勢と畠山氏勢が合戦を繰り返す場となった。天正12年(1584)には,羽柴秀吉が根来寺攻略の拠点として修復している。
城の規模は,南北約140m,東西約160mであり,丘陵頂部に主郭となる曲輪が位置し,これを土塁と堀で囲む構造である。堀底からは障壁遺構も見つかった。
中世から近世初頭にかけての畿内の政治・軍事の歴史を理解する上で貴重である
(文化遺産オンラインより)。
河内長野市教育委員会編集・発行「シリーズ河内長野の遺跡6 烏帽子形城跡」よりの抜粋
現地説明板
城跡のある丘陵の東北にあたるさいなみ広場から登り始め、谷を詰めていく。
小さな尾根に上ると、堀切、土塁。横堀の表示があった。
堀切は山の尾根を切断した堀で、敵が尾根伝いに攻めてくるのを防ぐ。その先は横堀に続く。横堀は曲輪に対して横方向から掘られた堀で、敵が山の斜面を登ってくるのを防ぐ。
土塁の上の道を行く。土塁とは、土を盛って造った堤。敵を防ぐ壁にも、敵を攻撃する台にもなった。
曲輪II。曲輪とは山を削って造った平坦地。塀が駐屯し、最も重要な場所である。烏帽子形城跡には二段の曲輪があり、IIは下段の方である。
上段の曲輪Iは南北に細長く、2軒の建物跡がある。主郭と思われるが、あまりに狭いので、曲輪Iを巨大な土塁ととらえ、曲輪IとIIをあわせて主郭と考える説もあるそうだ。
曲輪Iの南の方。
北の端に戻り、北方面の眺望。写真にはないが、この北の端は人口の急斜面で、切岸といい、敵が斜面を登りにくくしている。
西の深い横堀に降りる。右側は土塁。
横堀の屈曲部では堀内障壁が発掘された。敵の堀内での移動を妨げ、敵に対して攻撃を容易にするために造られた障壁である。
最初に通ってきた土橋。ここは虎口といって、城への入り口で、敵の侵入を防ぐために狭くなっている。左に曲輪IとIIの全容が見える。
東を進む道は横堀と土塁を2回横切って城跡から離れる。
古墳広場への道
古墳広場と烏帽子形古墳、横穴式だが開口していない。古墳を一周する。
烏帽子形八幡神社への道
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