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大阪府岸和田市 岸和田城

(Kishiwada castle, Kishiwada City, Osaka)

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Sep.14,2017 中山辰夫

岸和田市岸城町9番1号

岸和田城は南北朝期に築かれ、現在の場所に近世城郭の原形を、中村一氏と小出秀正が1580年代(天正年間後半)に築いた。その後、1619(元和5)年に松平康重、1640(寛永16)年に岡部宣勝が城主となり、以後幕末まで岡部氏の居城であり、城主の交代に伴い徐々に城郭が完成した

    

当城跡は殆どが市街地化し、中心部である本丸・二の丸石垣と復興天守などが往時をしのばせる。

現在の天主閣は昭和29年に図書館として建設された総コンクリートの建物。

天主閣の高さは約5m、石垣上端からシャチを含めた高さは約22m 江戸時代の天主閣は今のより約10m高い

                

本丸の石垣下に「犬走り石垣」といわれる周堤帯がある。これは軍事的に矛盾があるとされ、上部石垣の補強のために築かれたといわれる。

「正保城絵図」に描かれているため、この頃には城郭の軍事面が形骸化しはじまった可能性があるとされる

  

岸和田城庭園 「八陣の庭」

案内

  

庭園は1953(昭和28)年、重森三玲により作庭された。翌年、幕末より失われていた天守閣が、市民の寄付で完成した

             

三玲は、平和への願いを込めて、中国三国志の英雄・諸葛孔明が用いた堅守の陣形「八陣法」ヲイメージし、天守閣よりの眺望を意識した庭園をデザインしたといわれる

天主閣への入口 少し高台になっており、八陣の庭の全景が見える

   

天主閣より見る八陣の庭 堀と庭園の幾何学的な屈曲線が複雑な景観を造っている。

    

美しい砂紋は、三玲の弟子から引き方を習った「砂紋孫弟子」たちが楽しみながら引いているとか。


Feb.23,2016 瀧山幸伸 source movie

                                                                                    


Sep.2012 野崎順次 source movie

大阪府岸和田市岸城町9−1

撮影日: 2012年9月29日伝承では、建武新政期に楠木正成の一族和田高家が築いたといわれる。天正13(1585)年、羽柴秀吉は紀州根来寺討滅後、伯父小出秀政を城主とし、秀政によって城郭整備され、天守閣もこの時に築かれた。小出秀政・吉政・吉英、松平(松井)康重・康映をへて寛永17(1640)年、岡部宣勝が入城(6万石、のち5万3千石)、以後明治維新まで岡部氏13代が岸和田藩を統治した。天守閣は文政10(1827)年に落雷で焼失、維新期には櫓・門など城郭施設を自ら破壊したため、近世以前の構造物は堀と石垣以外には残存していない。現天守閣は昭和29年建造された3層3階の模擬天守。本来は5 層天守であったことが絵図などで確認されている。城跡は昭和18年府指定史跡。パンフレット&現地説明板         お堀端から岸和田城に入る。                岸和田城の説明                天守閣1階および2階の展示説明(写真撮影禁止)        岸和田城には重森三玲作の八陣の庭がある。

八陣の庭は、まだ天守閣を建てるという話のないとき、昭和28年7月に着工、同年12月に砂紋を入れて完成した。昭和の名作庭家、重森三玲氏の創作による、草一本もない、正真正銘の枯山水石庭である。天守閣から俯瞰する。八陣の名は、中国の諸葛孔明や孫子、大江維時などの陣構えがあるが、ここでは諸葛孔明の八陣法からとったものである。本丸の庭である関係上、四方八方から眺められる"ぐるり正面〃の庭で、戦ごとよりも、むしろ平和的な蓬莱山の九山八海になぞらえた青海波の砂紋が描き出されている。               地上から時計周りに広く見て行く。石組みは大将軍を中心として周りに天・地・風・雲・鳥・蛇・龍・虎の各陣を配し、砂紋を描いた白砂をもって石組みを囲み、海中の蓬莱山を立体的に表現している。                       大将陣:最大の巨石を用い、殆ど立石を用いると共に、四方正面の配置によって、各陣形を指導している姿としての構成技法を用いた。                蛇陣の石組:二個(実は三個)の長石石組みによって長蛇が獲物に向かって飛びかかる勢いを示すように傾斜角度を示す技法を用いた。       雲陣の石組:三個を用いて、雲の去来飛散をして常に千変万化する姿とするため、そうした技法を駆使した。        竜陣の石組:竜が将に海中から上天する勢いを示すように、中央に長石を斜線で組み、これに九石の立石、臥石、横石を配し、竜の抽象構成とした。        風陣の石組:七個の横石が多く、暴風吹きまくる様を抽象的に、内容的に構成する技法を駆使した。        鳥陣の石組:八石を用いて、立石、横石、臥石による、鵬鳥の天空に羽ばたく姿として動きのある抽象表現。          地陣の石組:三個の石を、地中深く沈止して動かぬ技法を駆使した。     虎陣の石組:中央に二個の立石を胴体として用い、これに九石を配して、猛虎の嘯く姿、猛威の内容表現。         天陣の岩組:長石を棒状に立石として四個用い、陣勢が天上に登る勢いを示すように技法を駆使した。       帰りは反対側のお堀端を通った。        参考資料

岸和田市HP

中田ミュージアム(中田勝康氏)HP


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